マグネトーは良いみたいだよ
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サクラの運転する真っ赤な「フォレスター」が、駐車場に入ってきた。
『サクラ様、おかえりなさいませ』
どうして帰ってくる時間を知ったのか、今は4人が揃ったグランドクルーが降りてきたサクラを迎えた。
彼らの後ろには、マイクロバスが停まっている。
『うん、ただいま。 Aチームも着いたんだね』
そう……マイクロバスは、Aチームが移動に使っていたものだった。
「ねえサクラさん。 いつもこんななの?」
後から降りた博美が「こそこそ」とサクラの後ろに来た。
「ん、そうだね。 いつも揃って迎えてくれるよ」
首を回してサクラは答えた。
「すごいねー ひょっとして、家に帰るとメイドさんが列を作って迎えてくれるの?」
「実家に帰ると、そうなるね。 高知では、そんなことはないよ」
「はぁ~ 住む世界が違うんだね。 私では生きていけないや」
「そんな事ないよ。 博美も受けてみる?」
「っえ?……」
『皆、お客様にも挨拶をして』
サクラは、博美を前に押し出した。
『HIROMI様、ようこそいらっしゃいました』
クルー達は、綺麗に揃った礼をした。
「え、え、え……ええと……あ、ありがとう」
頬を染めて、博美も深々とお辞儀をしてしまった。
ローテーブルを挟んで、こちら側にサクラとイロナ、反対側に博美と加藤が座った。
「ちょっと疲れたよね。 ティータイムにしよう」
サクラは……いつの間に着替えたか……メイド服の女性クルーに合図をした。
「ちょ、ちょっとサクラさん。 この車って、どうなってるの?」
そう……Aチームの乗ってきたマイクロバスに入ると、後ろ半分が仕切ってあり……そこのドアを潜るとリビングルームになっていたのだ。
「んー 移動リビング? イロナが作ってきたんだ……」
サクラは、イロナを見た。
『……博美が驚いてるよ。 どうなってるんだって』
『別に特別な事はしてないわ。 内装メーカーに注文して作らせただけよ。 半年ほど掛かったけど』
事も無げにイロナは言う。
「内装メーカーにさせたんだって。 半年掛かったって言ってる」
「そうとうな金額が掛かっただろ? 数百万かな……」
加藤は、しきりに周りを見ていた。
『幾ら掛かった?』
『そうねー ハンガリーに持っていって作業したから……日本円にしたら……一千万円位かしら』
サクラにイロナが答えた。
「ハンガリーでやったんだって。 一千万円位だそうだよ。 使ってる材料からしたら、割と安く出来たね」
そうなのだ……内装に使われているのは、全てが天然の木材で……合板などは何処にもない……人の手によってピカピカに磨きこまれていた。
駐機場の「エクストラ300LX」に向かって、サクラと博美が並んで歩いていた。
「本当に乗るんか?」
後ろから付いてくる加藤が……何度目かになる……質問を投げる。
「もう……さっきから言ってるでしょ……」
博美は、振り向いた。
「……答えは決まってるよ」
「……しかしよー ……おまえ、ジェットコースターは苦手だろ」
「そうだけど……でも、滅多に無いチャンスなんだよ。 これを逃したら、次は分からないじゃない」
「でもよー……」
「大丈夫だから……」
サクラも振り返った。
「……私が操縦するんだから。 博美の事が心配なんでしょ」
「……ま、まあそうだけど……」
「だから、大丈夫。 ジェットコースターと違って、様子を見ながら操縦できるんだからね。 小さな飛行機だけど、大船に乗ったつもりで良いから」
「……あ、ああ……」
こういう時、男は情けないものである……
「エクストラ300LX」の上を覆っていた大きなタープは、クルーの手によって外された。
コックピットの前席に博美、後席にサクラは座っている。
「それじゃ、エンジンを始動するね。 してる事は声に出すから」
サクラは、インカムで博美に言った。
「うん、おねがい」
博美が頷くのが、サクラからは見えた。
「周囲の安全……OK……ブレーキ……OK……操縦桿を引いて固定……」
サクラは、スティックにベルトを回し、いっぱい手前に引いて固定した。
「メインスイッチ、ON……」
サクラの指がスイッチを跳ね上げ、電気で動く計器の表示部が点いた。
「スロットル フルフォワード……」
スロットルレバーが前方に倒された。
「燃料ポンプ ON……OFF……」
「今のは何?」
それまで黙っていた博美が、尋ねてきた。
「ん? んーっとね……エンジンを止めるときに、エンジンの中のガソリンを燃やし尽くすんだ。 だから、今はカラカラな訳。 このままでは始動するのに、長い事スターターを回す事になるから……バッテリーが弱るといけないから……ガソリンを少しエンジンに送り込んでおくんだ。 分かる?」
簡単に説明するのは難しい……
「あ、そうなんだ。 プライミングなんだね……」
……しかし、博美は直ぐに理解した。
「……模型のエンジンも……特に小さなのは……プライミングしてから始動するもんね。 こんなに大きなエンジンでも同じなんだ」
「そ、そうだね。 続けるね……スロットル 始動位置……ミクチスチャー リーン……」
サクラは左側に並んでいるレバーを、始動に最適な位置に動かした。
「マグネトー Both……スタート……」
ウィ・ウィ・ウィ・ウィウィウィ ……
「(……あれ?……始動しない?……)」
いつものようにセルモーターは回っているのに、エンジンに火が入らない。
サクラは、一旦セルモーターを止めた。
「博美ゴメン。 失敗しちゃった」
「え! 掛からなかったの?」
「うん。 プライミングが足りなかったのかなー……」
サクラは、もう一度初めから手順を追うことにした。
「……スロットル フルフォワード……ミクスチャー フルリッチ……」
スロットルレバーとミクスチャーレバーを一番前にする。
「あれ? サクラさん、さっきはこのレバーを動かさなかったんじゃない?」
博美の声が、インカムから聞こえた。
「えっ! どれ?」
「えっとねー 触って良い?」
「うん。 今はいいよ」
「これ……」
博美が動かしているのだろう……ミクスチャーレバーが前後に動いた。
「……分かった?」
「分かった。 ひょっとして、動かしてなかった? んじゃ無理だ……ありがと、私のミスだね」
「どういたしまして。 ミスって、珍しいんでしょ」
「んー そうだけど……どうしちゃってたんだろうね。 燃料ポンプ ON……OFF……」
首を捻りながらも、サクラは始動手順を続けた。
「ミクスチャー リーン……マグネトー Both……スタート……」
ウィ・ウィ・ウィ・ウィウィウィ ……バン・バッ・バッ・ババッ……ウィウィウィ ……バババッ……ババッ……パンッ・パンッ……ウィウィウィ ……バ・バ・バン……
「(……なに! なにこれ? どうしちゃったんだ? 点火がおかしい……)」
激しいノッキングを起こして、エンジンは回転が上がってこない……セルモーターを止めると、すぐに止まってしまいそうだ。
ババッ……ウィウィウィ……ズドドドドドド……
「(……か、掛かった……)」
30秒ほどもスターターを回していただろうか……ライカミングAEIO-580は、やっと元気な爆音を響かせた。
「マグネトー Both……ミクスチャー リッチ……オイルプレッシャー OK……アイドル……」
ストストストスト……
さっきまで愚図っていたとは思えないほど静かに、エンジンはアイドリングで回りだした。
「始動が大変なんだねー」
のんびりとした声が、前席の博美から流れた来た。
どうやら、これが普通だと思っているようだ。
「いや……普段は簡単に始動するんだけど……」
サクラは、エンジンの状態を示す計器を注視している。
「……プライミングのミスが、こんなに影響するのかなー 取りあえず、計器に異常は出てないよ」
計器の指針は、特に異常な動きもせず……ゆっくりとグリーン範囲に向かっていた。
「オイル温度、圧力。 シリンダー温度……オールグリーン……」
どうやら暖機が出来たようだ。
「……博美、これから点火系のチェックをするね」
「はーい、知ってるよ。 マグネトーを切り替えるんだよね」
「うん。 右と左、それぞれで運転するんだ……」
サクラは、スロットルレバーを進めた。
「……1750回転。 この回転数で切り替えるね。 マグネトー R……」
点火プラグが一つになったことで、エンジンの回転が下がる。
「……1710回転……少ないな……マグネトー Both……マグネトー L……」
サクラは、マグネトー切り替えスイッチをRから一度Bothにして、その後Lにした。
「……1590回転……ええ! 低すぎる……」
「え? 何が低いの……」
博美が、振り向いた。
「えっとね……マニュアルでは右と左、それぞれの回転数差は、50回転以下となってるんだけど……今は1710-1590で120回転違ってるんだ。 これは、左の点火系が上手く動いてないってことなんだよね……」
と、サクラが説明をしている間に……
ブブブブブ……
湿った音を立てて、エンジンが止まりかけた。
「……おっと、Bothにしなくちゃ」
サクラは、慌ててマグネトーのスイッチをBoth(両方使う)に切り替えた。
「ごめん。 乗せて上げられなかった」
エンジンを切って、キャノピーの上にタープを張った「エクストラ300LX」の前で、サクラは博美に頭を下げた。
「気にしなくていいよ。 それは残念だけど……安全が一番だもんね」
そう……やはり「基準値から外れたままでは安全に飛ばせない」と、フライトを取りやめたのだ。
「うん。 だけど……どうして、左のマグネトーばかりおかしくなるんだろう? ふぅ……このままじゃ、デモフライトも出来ないかも」
サクラは、大きな溜息を吐いた。
「あれー 博美ちゃんは、乗せてもらえなかったんか? って言うか……サクラちゃんも、落ち込んでるね。 エンジンの調子でも悪いのか? カウルを外して……」
そこに森山が、近寄ってきた。
「ええ、そうなんです。 マグネトー……点火用発電機の調子が悪くて……」
サクラは、カウルを外されてむき出しになったエンジンを見ながら答えた。
「……何故か、この間から左のマグネトーばかり悪くなるんです」
「ということは……一度は交換したんだね? それでもおかしいと……」
森山は、腕組みをしてエンジンを見た。
「……触って良いかい?」
「え、ええ。 いいですけど……気を付けて下さいよ。 まだ熱いですから」
「分かった……」
森山は、踏み台に乗ってエンジンに手を伸ばした。
「サクラちゃん。 マグネトーは良いみたいだよ」
マグネトーを触っていた森山が、そんなことを言い出した。
「そんな……だって左に切り替えると、物凄く回転が下がったんですよ……」
サクラは直ぐ横に近寄り、森山の触っているマグネトーを見た。
「……左のマグネトーが働いてない、って事じゃないですか?」
「いや……触った感じだと、右も左も同じくらいの温度なんだ……」
森山は、ぽんぽんとマグネトーを叩いた。
「……つまり、どちらも同じように働いてるって事だよな。 働いてないなら、左のマグネトーの温度が低いはずだろ?」
「そ、そうなりますね。 そんな事、考えた事も無かった……」
サクラは、首を傾げた。
「……んじゃ、何で回転が下がるんだろう?」
「プラグも何回か変えたんだろ。 プラグコードはチェックしたかい? 古くなると通電が悪くなる事があるんだが……」
森山は、マグネトーから出ているコードに触った。
「……けっこう古くなってるみたいだぜ。 被覆が硬くなってる」
「ほんとですか?……」
サクラは、森山を押しのけるように踏み台に乗った。
「……ほんとだ……硬い」
「(……いや……サクラちゃんの胸は柔らかいぜ……)」
プラグコードに触ろうとしてのりだした所為で、サクラは森山の上に覆いかぶさっていた。
「サクラさん、サクラさん」
「ん、何。 博美」
「森山さんに胸を押し付けてるよ」
「え! あ、ご、ごめん森山さん。 変なものを押し付けちゃって」
「いや、気にしなくていいよサクラちゃん。 どちらかと言えば、嬉しかったりして……」
「へえ~ 森山さんも、意外とエッチなんだー 奥さんに言ってやろうかなー」
「ちょ、ちょっと待ってくれ博美ちゃん。 これは交渉の余地があるよな?」
「そうだねー チョコパフェで良いかな? ねえ、サクラさん」
「え!? どういうこと? 博美」
「森山さんが、チョコパフェを奢ってくれるんだって。 楽しみだねー」
「そうなんだー 森山さん、ありがとうございます」
「何で二人に奢る事になってるんだよ。 理不尽だ」