契約書って要るか?
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「……はい、フライトするのは9月の第一日曜日の前の土曜、金曜ですね」
ソファの前のローテーブルに置いたスマホに向かって、サクラが話している。
「ああ、日曜日が決勝だ。 決勝が終わったら、すぐに撤収しなけりゃならねえんだ……」
スマホのスピーカーからは、成田の声が聞こえていた。
約束通り、サクラは成田に電話をしたのだ。
「……そんな訳で、サクラちゃんのデモフライトは……公式には金曜日と土曜日、ってことになる。 それでかまわねえか?」
『イロナ。 9月の第一日曜日前の土曜と金曜……予定は無いよね?』
『大丈夫よ。 その辺りは、学校も休みだし……特に何も予定は無いわ』
サクラの隣にはイロナが座って、画面の大きな情報端末を操作していた。
「大丈夫です。 それで……さっき、公式には? って言いましたよね。 それって……」
「おお、そうだ。 公式には、金曜と土曜なんだがその前日……木曜日だな。 その日は公式練習の日なんだが、サクラちゃんも練習して良いぜ。 ぶっつけ本番じゃ、不安だろ?」
「そうですねー それが出来ると良いですね……」
メモを取るサクラのペンが「ふっ」と止まった。
「……あの……ひょっとして、木曜日は機体を運べないんじゃ?」
「お? そ、そうか……そうだぜ。 その日はラジコン機が滑走路の上を飛んでるぜ」
「危ないですよね。 すると……その前日の水曜日に運ぶことになりますね」
「そうだな。 そうしてもらえるか? その日は受付と機体検査だ。 滑走路は空いてる」
「分かりました。 それでは水曜日から日曜日までの、場外飛行場使用許可願いを出しておきます」
デモフライトをする飛行場は、正式な空港でなく場外飛行場という区分になっている。
その場所を使うには、前もって使用許可を取っておかなければいけないのだ。
「ああ。 すまんがお願いする。 そういったことは、俺たちにはちっとも分からないんだ」
「いいですよ。 「餅は餅屋」こういった事は、慣れてますから……」
ここまで話していて、サクラに疑問が湧いてきた。
「……あの、今更なんですけど……どうしてラジコンの大会で、実機のエアロバティックのデモをするんでしょうか?」
「ん? そうか……話はしてなかったか……」
「ええ、聞いたことはなかった様に思います」
「……んー 室伏君には言ったと思うんだが……ま、いいか。 実はだな、世界選手権を来年に、その笠岡で開く事になったんだ」
「はぁ……世界選手権……」
「そうだ。 サクラちゃんは知ってるかな? っと、知ってるよな? 今は日本人がチャンピオンだって事」
「ええ、知ってます。 博美は友達ですから」
そして、博美がチャンピオンになった時に、その場にいたのだから……
もちろん、その事は言う必要はない。
「やっぱり、チャンピオンの地元で選手権を開きたいよな。 そういう訳で、誘致を頑張った。 そしたら……今は、何だか日本が観光旅行の行き先として、人気があるんだな……反対する奴が居なかった」
「つまり、簡単に決まった、って事ですね」
「そうだ」
「でも、それだけだとデモフライトには、繋がらないんじゃないでしょうか」
そう、別に実機のエアロバティックを見せる必要はないだろう。
模型飛行機のデモフライトなんかでも良い筈だ。
「いやー それがな、笠岡の飛行場は方向が悪いんだ。 やや西を向いててだな……午後3時頃からは太陽が飛行コースに入ってくる」
「あ、それじゃ……ラジコン機は飛ばしにくいですね」
ラジコンの競技は、操縦者から前方左右60度ずつ……合計120度の範囲で飛ばさなければならない。
この範囲に太陽があったのでは……エアロバティックをするどころか、飛ばす事さえ難しいだろう。
審査員も眩しくてまともに採点できない。
「そうそう。 だから3時には競技は終了するんだが……日が暮れるまで時間があるだろ? その間に、いろんな航空機を飛ばしてやろう、って考えてるんだ。 だから、サクラちゃんの「エクストラ」だけでなく、ジャイロコプターやウルトラライト、グライダーなんかも要請してるぜ」
「ん? 何か話が分からなくなってきました。 それって、来年の世界選手権の時ですよね?」
「ああ、そうだ……悪い、今回はそれに向けたテスト、って事なんだ」
「そうなんですね、分かりました」
「分かってくれたか。 そういう訳で……契約書って要るか?」
「契約書ですか……」
『イロナ。 契約の正式な書面って必要かな?』
こういう大事なことは、秘書でもあるイロナに確かめるのが確実だ。
『勿論よ。 ボランティアでも無いのだから、報酬も決めないとね』
『うん。 分かった』
「はい。 きちんと作りましょう。 一度お会いしたほうが良いですね」
「そうか……もう、あまり時間が無いからな……」
今は8月の頭……大会は9月の頭なので、一ヶ月しかない。
「……お盆前の日曜日でどうだろうか? 俺はその時に名古屋に行く用事があるんだ。 その時に会って契約を交わせないか?」
「予定を調べます……」
『次の日曜日、予定は入ってない?』
『……入ってるわ。 志津子と海水浴の約束よ』
『弱ったなー……シーちゃん、許してくれるかな?』
『それは、分からないわね。 多分、分かってくれると思うけど……何か埋め合わせが必要でしょうね』
『仕方が無いね。 成田さんの都合が付かないようだったら、シーちゃんに我慢してもらおう』
「……えっとですね、子供との予定が有るんですが……成田さんは、その日以外は無理ですか?」
「んーー すまん。 その日以外は、仕事や選手権の準備で空いてないんだ」
「分かりました、その日にしましょう。 子供は何とかします」
「そうか、悪いな。 何かお土産でも買っていこう。 それで、その子には許してもらってくれ」
「すみません。 それじゃ、そういう事で」
「此方こそ、長い事話して悪かった。 名古屋の日時と場所は、メールで送るから」
「はい。 それではしつれいします」
『……ふぅ……』
電話が切れ、サクラは溜息と共に、ソファの背もたれに上体を預けた。
『サクラ様……』
イロナの淹れてくれたコーヒーを飲んでいたサクラの前に、グランドクルーの一人が立った。
『……マグネトーの交換が終わりました。 宜しければ、確認をお願いいたします』
今朝、調子のおかしかった左のマグネトー……
丁度1台、新品を持っていたので、サクラはクルー達に交換を命じていたのだ。
『そう、分かったわ。 もう少し待って……そうねー 15分ほど。 それまで休憩していて……』
油で真っ黒になった顔を見ると、おそらく休憩もせずに作業をしていたのだろう、と思われる。
上に立つものとして、サクラは彼らに休憩をさせることにした。
『……顔も洗いなさいね』
『は、はい! お見苦しいものをお見せして、申し訳ありません』
クルーの男は、礼をして走って行った。
カウルを全て外され剥き出しになったエンジンの前に、ツナギを着たサクラが立った。
『サクラ様、これを……』
クルーの一人が、小型の懐中電灯「ミニマグライト」を差し出した。
『ありがと』
それを受け取り、サクラは防火壁とエンジンの間に顔を突っ込んだ。
彼方此方を照らしながら、組み立てに異常が無い事を確認する。
『サ、サクラ様……お顔が汚れます……』
その遠慮の無い行動に、女性のクルー達から戸惑いの声が上がった。
『……いいの、いいの。 ミラーを取って』
そんな声を無視して、サクラは手を伸ばした。
『はい! こちらに……』
先ほどライトを渡したクルーが、棒の先に鏡の付いた道具をサクラの手に乗せた。
『ん、ありがと』
サクラはミラーを隙間に突っ込み、ライトを当てて直接見えないところをチェックする。
『うん……』
そうすること数分……
『……良いわ』
ようやくサクラは、顔を隙間から引き抜いた。
『さあ、試運転をしましょう……外に出して』
クルーに向かって言うサクラの頬には、大きな油の跡が付いていた。
格納庫の外に出した「エクストラ300LX」の操縦席の中で、サクラはエンジン始動シーケンスをしていた。
目の前には……カウルを外したままなので……エンジンが見えている。
「(……キャノピーを閉めて……あ、暑い……)」
さすがにタープを掛けたままではエンジンを始動する訳にいかない。
直射日光に晒され、コックピットの中はドンドン気温が上がっていく。
「(……マグネトーON……セルスタート……)」
ウィ・ウィ・ウィ・ウィウィウィ……ズドドドドドド……
エンジンは直ぐに始動して……
「(……アアーーーー 涼しい……)」
キャノピーに付いた小窓から入ってきた風が、サクラの首筋と胸の谷間……エンジンテストだけなので、フライトスーツを着てない……を撫ぜた。
「(……さて、どうなったかな? マグネトーR……)」
何時までも涼んでいるわけにはいかない。
サクラはマグネトースイッチを、先ずRに切り替えた。
「(……90かな? 95かな?……んじゃ、L……)」
右のマグネトーだけだと、95回転ほどエンジンの回転数が下がるようだ。
「(……ん? 105……かな?……)」
左だけだと105回転下がる。
「(……んーーーー 少し多い……弱ったなー……)」
左右で下がり方が少し違う。
これは、二つのマグネトーの性能がずれている事を表すのだが……
「(……さっき聞いた20よりは、小さいけど……)」
そう、マグネトーを交換する事になった……左のマグネトーの不良と判断した違いよりは随分と小さい。
「(……新品に換えたんだよな? それなのに、何でまだ左が弱いんだ?……)」
新品なのだから、左のマグネトーは規定の電圧を出しているはずだ。
「(……後は……プラグ?……っと、いつまでもこのままじゃいけない……)」
長くマグネトーを切っていると、それに繋がるプラグが汚れてしまう。
サクラは、スイッチをBothに切り替えた。
エンジンを止めると、サクラは「エクストラ300LX」から降りた。
『サクラ様、如何で御座いましょうか?』
先ほどから機体整備をしているクルーが、日傘を持って駆け寄った。
『良くなった。 良くなったが、まだ完全じゃない……』
『……サクラ様、これをどうぞ』
女性のクルーがハンドタオルを差し出した。
『……ありがと。 まだ、少し差があるようだ……』
サクラは受け取ったタオルで、首筋と胸の谷間を拭いた。
『……ぅ……』
目の前に立つクルーは、必死で視線が下がるのを堪えている。
『……ん、何? ……』
その様子に、サクラは首を傾げた。
『い、いえ。 なんでもございません』
『あ、そ。 それじゃ、プラグも替えよう……』
サクラは、ハンドタオルを女性のクルーに返した。
『……Lに繋がってるプラグを替えて』
『はい! 承りました』
クルーは、回れ右をして走って行った。