デモフライトの要請
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
夜の10時過ぎ、サクラは冷房の聞いた部屋で、風呂上がりの髪をドライヤーで乾かしていた。
「(……ふぅ……だいぶ伸びてきたなー……)」
そう、ウエーブの掛かった真っ赤な髪は、今では肩のラインを過ぎていた。
「(……けっこう、ボリュームがあるんだよなぁ。 なかなか乾かないや……っあ! 電話?……)」
ドライヤーの音で聞き取りにくいが、ベッドの上に投げてあるスマホが鳴っている。
サクラはドライヤーを止めると、ベッドに飛び乗りスマホを取った。
「はい」
「やあ、サクラちゃん。 まだ起きてたね」
聞こえてきたのは、アメリカにいるはずの室伏の声だった。
「はい。 もう直ぐ寝ますけど……其方は早朝ですか?」
「ああ。 と言っても、夏時間なので……」
時計を確認したのだろうか、少し間があった。
「……今は6時過ぎかな」
「早起きなんですねー ……っで、何か?」
「それは勿論、スポンサー様への活動報告を……」
「それって、嘘ですよね。 それに、私はスポンサーじゃ無いし」
その通り、サクラはヴェレシュ家に紹介しただけで、スポンサードしている訳ではない。
「……手厳しいなー あの素直なスチューデントは、何処にいったのやら……」
「はぁ……それは良いですから……用件をどうぞ」
まだ髪は生乾きで……クーラーの風の所為で冷たくなってきていた。
「……はいはい。 もう少し、その綺麗な声を聞いていたかったけど……」
ガサガサ、と書類を広げる音がした。
「……えっと……実は、デモフライトの要請が来てね……」
「それは、エアロバティックの?」
「ああ、そうなんだが……場所が岡山なんだ。 勿論、日本のね」
「岡山? そんな所で、何が……何の催しがあるんですか?」
「ラジコン飛行機の日本選手権らしい。 サクラちゃんは知ってるかい? ラジコンのエアロバティック」
「知ってますよ。 友達で、凄く上手な娘がいます」
博美の隙のないフライトが、サクラの脳裏に蘇った。
「それなら話は早い。 すまんがサクラちゃん、それに出てくれないかな?」
「えっとー ……それはかまいませんが……室伏さんは出ないんですか?」
何故、自分に来た依頼を回してくれるのか……サクラは首を傾げた。
「いや、それがな……丁度、こちらでの大会に被ってるんだ」
「あ、そうなんですね。 そういえば室伏さん……そちらの大会で、なかなか良い成績をとってるようで……実家から褒められました」
そう……室伏は、アメリカで行われているエアロバティックの大会で、上位の成績を続けていた。
そのことについて、家令のガスパルから「良い人間を紹介して頂いた」と、お礼のメールが来たのだ。
ガスパルが勝手にそんなメールを出すはずがないので、これはアルトゥールの指示と考えて良いだろう。
父親に褒められて、嬉しいサクラだった。
「それは良かった。 いやー 資金が潤沢にあると、それが演技にも反映されるんだね。 機体の整備も完璧だし、俺自身の体調も良い。 んで、さっきの話は受けてくれるんだね?」
「はい、受けます。 何時なんですか?」
「9月の初めらしい。 詳しい事は、そっちで詰めてくれるかな……」
再び書類を捲る音が聞こえた。
「……えっと……相手は成田さんって言うらしい。 サクラちゃんのことは、俺からも言っておくから」
「分かりました。 ところで室伏さんは、何時頃帰ってくるんですか?」
「んーー 取り敢えずは……10月か11月かな?」
「あと3ヶ月ですか……」
「ん? なんだい? 寂しいかな?」
「ち、ち、違いますよ。 ただ、新しい旋回の仕方を見つけたので……見て欲しかっただけ……」
「ほぉ……それは帰ったときが楽しみだ。 それじゃ、くれぐれも事故の無いようにな」
「はい、室伏さんも気をつけて」
通話を終了させ、サクラはスマホをベッドに落とした。
イロナは、洋服ダンスに付いている姿見に自身を映して、身だしなみを確認した。
ヴェレシュ家に仕える身としては、だらしない格好をするわけにはいかない。
たとえサクラから「似合わない」と言われようと……
『(……ま、確かに似合ってないわね……)』
自宅内でメイド服を着ないという選択肢は、無いのだから。
『(……若い頃は、それなりに似合ってたんだけどな……)』
ヘッドドレスの角度を調整すると、イロナは部屋を出て隣の部屋のドアをノックした。
『サクラ。 起きる時間よ』
ノックと共にイロナの声が聞こえ、サクラはゆっくりと目を開けた。
『ありがとう。 今起きた』
「ぱちぱち」と瞬きをして、手をベッドに突いて上体を起こす。
ナイトブラに包まれた胸の膨らみが、重力に引かれて所定の位置に収まった。
『おはよう。 夕べは、何か電話をしてた? 夜更かしは「BIYOU」の大敵よ』
ドアを開けて、イロナが入ってきた。
『おはよう。 うん、室伏さんからの電話だった。 だからと言って、遅くなった訳ではないから……その「BIYOU」?って言う奴には、影響ないと思う』
ベッドから降りて、サクラは立ち上がった。
『「BIYOU」よ。 日本語じゃない? 「BIYOU」』
洋服ダンスをあけて、イロナはネイビーブルーのルームウェアを取り出した。
『「BIYOU」……もしかして「美容」?』
サクラは、イロナから受け取ったルームウェアをベッドに置き、パジャマを脱ぎ始めた。
『そうそう、それ「BIYOU」』
イロナは、タンスの引き出しから、サクラのブラを取り出した。
『……そういうの、気にしてないから。 ん、ありがと……』
ナイトブラを外し、サクラはブラを受け取った。
『……イロナでも、そういう事は気になるんだね』
『当然でしょ。 女性としては、ね……』
イロナは、サクラの脱いだパジャマとナイトブラを、簡単に纏めた。
『……サクラも、そろそろ気にしたほうが良いわよ。 もう20歳なんだから』
『もう、じゃないよ。 まだ20歳なんだよね……』
サクラは、付けたブラの位置を調整した。
『……経験上、これからの10年間には、沢山の出来事があるはずなんだ』
そう、サクラはこれからの10年を吉秋時代に、一度経験していた。
『そうね。 それはそうだけど……その時は男だったでしょ、女の経験じゃないわ。 特に「BIYOU」に関しては「もう」なの……』
イロナは、サクラの脱いだ物を持つと、ドアを開けた。
『それじゃ、朝食に遅れないでね』
『はいはい。 直ぐに行くよ』
ゆったりとしたパンツ(ズボン)を履きながら、サクラは出て行くイロナを見送った。
「……ん?……」
練習のため高知空港に向かう「フォレスター」のカーナビから……ブルーツースで繋いでいる……スマホへの着信の音が聞こえた。
「(……知らない番号だ……)」
『イロナ。 お願い』
運転中だし、しかも知らない番号からの電話だったので、サクラは対応をイロナに丸投げした。
『いいわ……』
イロナは、サクラのスマホを取った。
『ハロー これはサクラの番号よ。 間違ってない?』
そして、無難に英語で答えた。
「……ハ、ハロー。 え、えっとー 参ったなー 英語かよー……」
戸惑ったような……中年か、あるいは初老の……男の声が、返ってきた。
『間違いなら、切るわ』
『……ま、待ってくれ。 俺は成田っていう者だ……』
冷たいイロナの言葉に、慌てたように英語が帰ってきた。
「(……成田? そう言えば室伏さんが、成田って人が相手だって言ってたな……)」
カーナビから聞こえる言葉に、サクラが昨夜の室伏との電話を思い出した。
『……室伏君から聞いてないかな? デモフライトの件で相談したいんだが……あなたがサクラさんでいいのかな?』
『…………』
イロナが、無言でサクラを見た。
「代わりました。 私がサクラです」
イロナの視線に答えるように、サクラはハンズフリーになっているスマホに話しかけた。
「お! 日本語……あー 良かったぜ。 改めて、俺は成田ってんだ。 今は模型飛行機協会の理事の一人で、主にエアロバティック関係を担当している……」
「ほっ」としたのだろう……カーナビから聞こえる声が、べらんめえ調になった。
「……今度の日本選手権の時にデモフライトをして欲しいと室伏くんに相談したら、あなたを紹介されたんだが……」
「ちょっと、ちょっと待ってください。 今運転中なので……」
あまりの早口に、サクラは混乱しそうになった。
「……あ、そうか。 それじゃ、少し後にするか?」
「……はい。 そうしてください。 えっとー 落ち着いたらこちらから電話します」
「おお、そうか……分かった。 いつでも電話してくれ」
「はい、分かりました。 少し……そうですねー 1~2時間待ってください。 この電話番号で良いですか?」
「ああ、いいぜ。 それじゃ」
『……何なの? あの男! サクラに対して、随分と失礼ね』
電話が切れて、待ち受け画面になったスマホを、イロナは睨みつけた。
青い空に白い雲。
まるで絵本に出てくるような典型的な夏空の下を、サクラとイロナは格納庫に向かって歩いていた。
『……ふぅ……いつまで暑いのかしら……』
サクラに日傘を差しかけた、イロナが零す。
『まだ8月になったばかりだよ。 あと一ヶ月半は暑いんじゃないかなー イロナも諦めて薄着に替えれば良いのに』
そう言うサクラは、この間と同じように際どい薄着だ。
『嫌よ。 ぜったい似合わないわ』
『メイド服は、似合ってないのに着てるじゃない……意外と見られるかもしれないよ。 そういえばニコレットはメイド服を着ないよね』
『あれはヴェレシュ家の、使用人の正装なの。 ニコレットが着ないのは、本当はいけないことなのよ』
『イロナって真面目だねー 私が黙ってるなら、バレないよ……』
『サクラ様。 おはようございます』
格納庫に着いて、サクラはいつものようにグランドクルー達の挨拶を受けた。
格納庫の扉は既に大きく開かれていて、その前に張られたタープの下に「エクストラ300LX」は置かれていた。
『サクラ様……』
グランドクルーの一人が、点検のために機体の周りを回るサクラに近寄ってきた。
『……エンジンの調子におかしな所が有るのですが……』
『ん? 何? 詳しく話して』
彼らは朝早くに格納庫に来て、機体からエンジンまで整備をしている。
その時に、実際にエンジンを掛けて調子を調べるのだ。
『はい。 暖気後、マグネトーを左右に切り替えて、回転数の変化を見るのですが……』
彼は、バインダーを開いた。
『……いつもは回転数の降下が、左右それぞれ100程度なのに……今日は右が120で左が80でした』
『言ってる事が良く分からない。 その右、左、というのは……そのマグネトーを切った、ということ?』
『は、はい! そ、そうでございます。 右を切ると120回転下がり、左を切ると80回転下がりました』
叱責と捉えたのか……彼は青くなった。
『……そう……左のマグネトーの調子が悪いのかな?……』
そんな彼の顔色にも気が付かず、サクラは考え込んだ。
マグネトー(エンジンで駆動され、プラグに電気を流す発電機)は、文字通りエンジンの後部左右に付いています。