おねえちゃんの、ばかー
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します
「わー! はやい はやい……」
体がシートに押し付けられる程の、加速によるGを感じて志津子が歓声を上げる。
「(……35ノット……)」
そんな前席の声に頬を緩ませ、サクラはチラチラと速度計を見ながら「エクストラ300LX」を直進させていた。
「(……65ノット、ローテイト……)」
それも精々10秒足らず……機体は「ふわり」と浮かんだ。
「やたー! とんだ とんだ……」
志津子の興奮は、収まる事を知らない。
「(……ふふっ……まだちょっと浮かんだだけなのに……)」
そう、機体はまだ数フィート上昇しただけなのだ。
「(……75ノット……80ノット……)」
そのまま殆ど高度を上げずに、速度が上がっていくのをサクラは待った。
「(……85ノット……よし……)」
僅かに引いたスティックに反応して「エクストラ300LX」は、機首を上げ上昇を始めた。
{『エクストラ111G 高知タワー 125で関西デパーチャーに連絡してください』}
右旋回して海の上を南に飛んでいると、高知の管制空域を抜けたようで、タワーから周波数の変更指示が来た。
{『高知タワー エクストラ111G 125で関西DPEに連絡 good day 』}
{『エクストラ111G 高知タワー good day 今日は遊覧飛行だね』}
{『ええ。 姪っ子が乗ってます』}
{『それじゃ、気をつけて』}
「おねえちゃん。 ぐっでー って何?」
雑談混じりの通信が終わったところで、志津子が聞いてきた。
「ん? ぐっでー?」
そんなこと言ったっけ、とサクラは首を傾げた。
「いったよー なんとか、かんとか ぐっでー って」
「ひょっとして good day かな?」
「うん それそれ」
「えーっと……さよなら、なんだけど……軽い感じかな?」
「ぐっばい じゃないの?」
「んーー 同じかな? 何となく違うんだけど……分かんないや」
「おねえちゃん えいごのせんせいでしょ。 わからないのは しっかくだよ」
どうやら、サクラが高専で英会話の教師をしている事を、志津子は知っていたようだ。
「だってー 私も英語は勉強して覚えたんだよ。 英語で育った訳じゃないんだから」
「だめー しっかくなの……」
ミラーに映る志津子の口角が、小悪魔的に上がった。
「……そんな おねえちゃんに ばんかいの ちゃんすを あげます」
「ん? チャンス?」
「そう ちゃんすだよ。 これから うらがえしで とんでくれたら おねえちゃんは しっかくじゃ なくなります」
「ぇえーー シーちゃんのお母さんから「ダメ」って言われてるよ……」
サクラは、眉尻を下げた。
「……シーちゃんのお母さんって、怖いんだから」
「だいじょうぶだよー はなさなかったら いいんだもん」
「んじゃ、バレたらシーちゃんも一緒に叱られようね」
{『関西DPE エクストラ111G 高知空港の南10マイル』}
諦めたサクラは、取りあえず管制に位置を報告した。
{『エクストラ111G 関西DPE 了解』}
管制官の返答は、サクラの戸惑いを知らずに、普段と同じだった。
90度右旋回をして「エクストラ300LX」は、ヘディング270度で飛んでいた。
「(……高度2000 速度150……)」
サクラは計器版を眺めると……
『クリアリング ターン……ライトターン……』
右旋回を始めた。
『ライトサイド クリヤー……レフトターン……』
90度旋回したところで、左に旋回を始める。
『レフトサイド クリヤー……ホリゾンタル フライト』
「いまのは なに?」
水平飛行になった時に、志津子が尋ねた。
「周りに他の飛行機が居ない事を確かめたの。 さあ、背面飛行をするよ」
聞かれるかな、と思っていたサクラは淀みなく答え……スティックを左に倒した。
アドバンスヨーを左ラダーペダルを踏んで止める。
「エクストラ300LX」は、滑らかに左ロールをした。
「んふふーーー」
背面飛行を始めて3分……いい加減頭に血が集まっただろうに……志津子が前席で浮かれている。
「シーちゃん。 そろそろ戻すよ」
こちらは慣れたもののサクラが、声をかけた。
「ぇえーー! もっとこのままがいい」
当然の様に拒否の答えが返る。
「ダメだよ。 背面飛行は4分以内、って決まってるから。 エンジンが止まっちゃう」
ライカミング製水平対向6気筒エンジンAEIO-580は、キャブレターでなくインジェクションを使っていて、尚且つドライサンプなので、基本的には裏返しになっても問題ない。
なら、何故背面飛行時間の制限があるのか……詰まるところ、燃料システムに因るところなのだ。
曲技飛行用に作られた……どんな姿勢になっても燃料が途切れない……燃料タンクが付いているのだが、それの容量は9リットルしかなく、さらに使える量は7リットルとなっている。
フルパワーでエアロバティックをしている時など、1分で1.5リットル程も燃料を使う。
そして、そのタンクにメインタンクから燃料が送られるのは、水平飛行をしている時なのだ。
つまり背面飛行を続けると、最悪4分半で燃料が途切れてしまう。
「そ、そうなの?」
流石に志津子も、エンジンが止まると聞いては不安になったようだ。
「そうなの。 さあ、戻すね」
サクラは、スロットルレバーを手前に引いた。
途端にエンジン音が小さくなる。
「お、おねえちゃん……エンジン とまっちゃった……」
志津子の声が、不安で震えだした。
「ん? 大丈夫だよ。 しっかり掴まっててね」
サクラは、スティックを引いた。
「エクストラ300LX」は機首を下げる。
「おねえちゃん……おちる……おちるよーーー!」
さっきまで頭の上にあった海が、目の前に迫ってくる。
「んーー 大丈夫、大丈夫」
やがて機首が上がり、Gが体をシートに押し付けだした。
「ぅーーーー……」
小さく唸って、志津子が耐えている。
「頑張れ、頑張れ。 もうすぐ終わるから」
水平線が頭の上から正面に来て、サクラはスティックを戻した。
さっきまでのGは「ふっ」と消える。
「ふぅ~ ううう……うわーん!……」
安心したのか……突然志津子が泣き始めた。
「シ、シーちゃん。 どうしたの? どこか痛いの?」
予期したなかったことに、サクラは慌てた。
「……こわ、こわかった……こわっかたよー……」
「えっ! さっきの?」
「……おねえちゃんの、ばかー! ……おちると おもったー……」
「ゴ、ゴメン。 ちょっと宙返りをしただけなんだけど……怖かったんだね」
「……おねえちゃん、なんにもいわなかったじゃない……すごく、こわかったんだよー ばかー……」
「ほんと、ゴメン……」
さて……このままでは「帰る」と言い出しかねない。
そして、こんな泣きはらしたまま帰ったら……由香子に何を言われるか、分かったものではないだろう。
「……シーちゃん。 座席の右の方にバッグが付いてるよね」
「……ぐす……ん、ある……ぐす……」
「開けてごらん」
「……ぐす……うん……ん……お菓子?……」
そう……志津子がぐずった時のために、サクラは駄菓子の詰め合わせを買っておいたのだ。
「好きなのを食べて良いよ」
「……ぐす……ほんと? どれでもいいの?……」
「うん。 全部食べたって良いからね。 パックのジュースも入ってるから。 喉が渇いたら飲んで良いよ」
「うん。 たべる」
どうやら志津子は、泣き止んだようだ。
サクラは「ほっ」と胸を撫で下ろした。
「わー おしろが みえるー」
機嫌を直した志津子が、右下を見て声を上げた。
サクラ達は……さっきの騒動の後……北に飛んで高知市の上まで来ていた。
「シーちゃんのお家は、分かる?」
スティックを少しだけ左に倒し、サクラが尋ねた。
「ん~ん。 わかんない」
左にバンクしたため、右側からは空しか見えなくなった。
「左をみてごらん」
「うん……」
志津子は、キャノピーの左側を覗き込んだ。
「……どれ?」
吉秋に乗せてもらった時にも空から見せてもらったはずだが、流石に覚えていないようだ。
「川が流れてるよね」
「うん。 分かる」
「あれが鏡川だよ」
「そうなんだー んじゃ、そのちかくだね……」
旋回が終わり「エクストラ300LX」は、川に平行に飛行を始めた。
「……あ れ か な……」
志津子が指差すが……
「シーちゃん。 私のところからじゃ、どこを指してるか分からないよ」
それはそうだろう……前後に座っているのだから、横から覗き込むわけにはいかない。
「あ、そうか……んー……あ、かくれちゃった……」
そうこうしているうちに、主翼の下に志津子の家は隠れてしまったようだ。
「見えなくなっちゃった? 見せてあげようか……」
サクラはスティックを左に倒した。
機体は左にバンクをする、が……
「お、おねえちゃん。 ひこうき、かたむいてる」
何故だか旋回をせず、傾いたまま真っ直ぐ飛んでいる。
「ん。 これなら見えるよね」
サクラは、右のラダーペダルを踏み、スティックを少しだけ引いていた。
「うん、みえるよ。 あれだ! あのきれいな ほどうがある はしの むこう」
そこには、11階建てのマンションがあった。
「うん、そう。 あれがシーちゃんのお家だね」
「おとうさん、みてるかな? おとうさーーーん……」
志津子はマンションに向けて手を振るが……
「……あ~~あ みえなくなっちゃった」
すぐに「エクストラ300LX」は通り過ぎ、マンションは尾翼の先に隠れてしまった。
殆ど空になったコーヒーカップを前に、イロナはスマホに来たメールを読んだ。
『(……ん。 概ね時間通りね……)』
「由香子様 10分 ぐらい かえる 志津子様」
そして、テーブルを挟んで座る由香子に、片言の日本語で伝えた。
「そう。 だいたい時間通りかしら……」
開いた雑誌から顔を上げて、由香子は壁に掛かった時計を見た。
「……行きましょう」
「はい」
イロナは、テーブルの上に置かれた伝票を取って、立ち上がった。
「あ……イロナさん。 私の分は払いますよ」
「だいじょうぶ サクラに いわれてる」
二人は、何処に居るのか……
実は、格納庫でサクラ達が帰るのを待つのは暑いからと、イロナの提案で高知空港の喫茶店に来ていたのだった。
「そうなの? それじゃ、今日はご馳走になっておくわ。 機会があったら、次は私が払うわね」
「由香子様 だいじょうぶ サクラは おかねもち」
「ま……それはそうだけど……私が姉なんだから。 それらしいことをしなくちゃね」
「そう? あね だから?」
『(……あね、ってなんだろ。 後でサクラに聞いておこうかしら……)』
首を捻りながら、イロナは伝票をレジにいるウエイターに渡した。
『イロナ様。 サクラ様は今、着陸されました』
サクラの乗った「エクストラ300LX」を、整列して待っているメイドの一人が、帰ってきたイロナに報告した。
『そう。 異常は無かった?』
イロナは滑走路の方を見たが、手前に並んだ他の飛行機のために「エクストラ300LX」は見えなかった。
『はい。 サクラ様からは、何も聞いておりません』
『よろしい。 では、しっかりお迎えをしなさいね』
「イロナさん。 何ですか?」
格納庫の前に戻って直ぐに交わされた、ハンガリー語のやり取りは、由香子に不安を与えたようだ。
「サクラは ぶじ ちゃくりくした。 おかしな ところは なにもない」
「あ、そうですか。 良かった……」
イロナの言葉に「ほっ」と息を吐き、由香子も滑走路の方に顔を向けた。
「……あ、帰ってきたわ」
ちょうどその時、サクラの「エクストラ300LX」が、並んだ飛行機の向こうに見えた。
「シーちゃん。 楽しかった?」
「うん、おかあさん。 おもしろかったよ」
「そう、良かったわ。 それじゃ、お昼御飯を食べに行きましょうか」
「んーー あんまり おなか すいてない」
「そうなの? へんねー 朝ごはんも少なかったのに……」
「あのね おかし たべたの」
「へ? お菓子を食べた? 何時?」
「んー おそらの うえで」
「飛行機の中? どれだけ食べたの?」
「んっとね これぐらい」
「んまっ! そんなに! サクラさん……」
「は、はい……」
「あなた……小さな子に、どれだけ食べさせるのよ!」
「ご、ごめんなさい。 分からなかったから……」
「おかあさん。 おねえちゃんは わるくないよ。 わたしが ないたから おかしを くれたんだ」
「泣いた? どうして?」
「んっとねー ひこうきが したをむいて こわかったから」
「下を向いた? サ ク ラ さ ん ! 危険な事は、しない筈だったわね……」
「ご、ご、ごめんなさい……ゆるして……」
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