一周忌
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目の前に見えるエンジンカウル、上は「ぽつぽつ」と白い雲が浮かぶ空、そして下にはゆったりとうねる海がある。
サクラは、慎重にスロットルレバーを進めた。
速度計の針が回り、200ノットを示す。
左前に赤く塗られたパイロンが現れた。
サクラが少しスティックを引き、水平線が僅かに下がる。
機体が上昇し、速度が僅かに下がった。
引いていたスティックを戻し、次の瞬間サクラは左にスティックを倒した。
上にあった空は右に、下の海は左に移った。
倒したスティックを戻し、次の瞬間サクラはスティックを引いた。
大きな負荷が掛かったエンジンは唸り、速度が下がる。
サクラはスロットルレバーを前に押して、パワーを上げた。
そのまま数秒……サクラはスティックを中央に戻し、直後に右に倒した。
水平線が回り、空は上に、海は下に、と正常に戻った。
『……ふぅ……』
一つ息を吐いて、サクラは後ろを振り返った。
『……今度はどうだった? イロナ』
『ちょっとまって。 今グラフを出すから……』
モニターを見ながら、イロナはマウスを動かしている。
『……はい、出たわ。 一緒に見る?』
『うん。 見る見る……』
サクラは椅子から降りて、パソコンの前に座っているイロナの横に立った。
『……うん。 かなり良くなったね』
モニターには、横軸が時間になっているグラフが描かれていた。
『そうね。 これが最初の頃のグラフ……』
イロナがマウスを操作すると、別のグラフが表示された、
『……比べると、随分と上下動が減ってるわ』
いったい二人は何をしているのか……
『シミュレーターは、やっぱり偉大だね。 失敗を恐れなくて良いから、沢山の経験を積める』
実は格納庫の空いた隅に、サクラはフライトシミュレーターを置いたのだった。
梅雨時とあって、外は雨が降っているのだが、こうして二人でレースのターンを練習していたのだ。
『森山? だったかな……あの男は、随分と有能ね。 あの時、車椅子も簡単に修理したし、こうしてコンピューターも設置するし。 ヴェレシュに居ても良いわね』
そう、このシミュレーターは森山が機材を選定し、そしてセッティングしたのだ。
『ちょっと、イロナ。 森山さんを狙ってないよね』
『そうねー まだかな? でもヘッドハンティングの候補としては、ファイルしてるわよ』
『やめてあげてね。 まだ小さな子供がいるんだから……ハンガリーには行けないよ。 かわいそうだ』
『あら……子どが小さいから動きやすいんじゃない。 ま、まだ観察段階だから、分からないけどね』
『はぁ……お父さんに言っとこ。 少しは遠慮するように、って。 んじゃ、また練習するね』
肩を回しながら、サクラはシミュレーターに向かった。
「ただいまー」
夕方まで格納庫で練習していたサクラは、薄暗くなった頃家に帰った。
「おかえり。 遅かったわね……」
理英子が、台所から顔を出した。
「……もう夕飯は出来てるから。 手を洗っていらっしゃい」
「はーい」
返事もそこそこに、サクラは洗面に向かった。
「ハァ……返事は良いんだから。 っあ、イロナさんも一緒にどうぞ」
「はい。 わかり ましゅ……まし た」
サクラの後に続いて、イロナも洗面に向かった。
「いただきまーす」
孝洋の声に合わせて全員が手を合わた。
今日のメインは「ブリの煮付け」で、豆腐の味噌汁が夫々に配られている。
テーブルの中央には、大きなトマトをスライスした物が置かれていた。
そして孝洋には一品多く「カツオのたたき」が付いていた。
『ねえ……』
サクラは、隣のイロナに顔を寄せた。
『……イロナには少ないんじゃない?』
『んー 大丈夫。 ご飯をお代わりするから……』
何とか箸を使って、イロナはトマトを取り皿に移している。
『……それに、私には魚が二切れ入ってるから』
「ん? どうした……何を話してる?」
そんな二人の様子を見て、孝洋が声をかけてきた。
「な、何でもないよ。 箸が使えるようになったね、って言ってただけだから」
サクラは左手を……右手には箸を持っている……顔の前で振った。
「サクラ……」
食後のお茶を飲んでいた孝洋が、サクラを呼んだ。
「ん……なに?」
「もうすぐ7月だな」
「うん。 そうだね」
「吉秋が死んでから、もう1年だ……」
孝洋は湯飲みをテーブルに置いた。
「……世間的にはな。 そうなっている」
「うん……」
サクラは孝洋の顔を見た。
「……ごめん」
「いや、責めてる訳じゃ無い。 ただ、世間的にはな……死んだことになってるから、一周忌をしなくちゃならないんだ」
「そ、そうなるね……なんか変だけど」
ここに生きている自分のための一周忌など……普通では経験できないだろう。
「次の日曜日に、坊さんを呼んだ。 サクラも出るから、その日は空けておくように」
「うん、良いけど……親戚の人は沢山来る?」
「いや……今回は声をかけないでおく。 来るのは由香子の家族だけだ。 サクラの事は、あまり広めないほうが良いだろうからな」
「そう……ありがと。 私がここに居るのを知ってる人は、少ないほうが良いんだよね」
「ああ。 ヴェレシュさんから、そう頼まれてる」
家の事情でサクラを預ける、と言ったヴェレシュの言葉は、今でも戸谷家にとってしっかりと守るべき物だった。
『イロナ』
ベッドの上で「とんび」座りをしたサクラが、インカム……部屋通しを繋いでいる……に囁いた。
『……はい』
少しの間を空けて、イロナから返事があった。
『コッチに来れる?』
『いいわ……』
返事の直後、隣の部屋のドアが開く音が聞こえた。
『ねえ……もう直ぐ、あの事故の日が来るけど……』
サクラは、相変わらずベッドの上に座ったままだった。
『……ハンガリーでは、どうするのかなぁ』
『特別、何もしないと聞いてるわ……』
イロナは、吉秋が学生時代に使っていた椅子に座っている。
『……サクラは生きてるんだから、何もしないのが普通よね』
『その生きてる、って言うのは……私のこと? それとも、本当のサクラのこと?』
『どちらもよ。 あなたは当然生きてるし、サクラ様も……ツェツィルが頑張ってるわ』
『そうなんだ……見込みはあるの?』
『そんな事は考えちゃいけないの。 ヴェレシュ様が判断するまで……それまで頑張ってなきゃならないの』
イロナは、ゆっくりと首を振った。
『ん、分かった。 考えないでおく……』
サクラは頷いた。
『……んで、確認だけど……私の喪服って有る?』
『え? チョッと待ってよ……』
イロナはスマホを取り出して、凄い勢いで調べ始めた。
『……ごめんなさい。 ブタペストに置いてあるわ』
『次の日曜日までに送ってこれる?』
『んっ! 間に合わせるわ』
任せて、っとイロナは力こぶを見せた。
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仏壇の置かれた和室から、朗々とお経が流れている。
普段は閉めてある襖を開けて、広い続きの間にしている居間に座布団を敷いて、ニコレットとイロナは座っていた。
『……2種類持ってきて、良かったわね……』
ニコレットが小さな声でイロナに言った。
『……そうね。 白なのか黒なのか、分からなかったものね。 サクラに確かめれば良かったかもしれないけど……』
いったい何の色なのか……
実は、ハンガリーでは喪服の色は黒と決まっていないのだ。
特にヴェレシュ家は古い家柄なので、古風に白い喪服を着る事があり、ニコレットは迷った挙句に……急いでいた事もあり……二つ持って来たのだ。
そして、ハンガリーに帰っているはずのニコレットが、何故ここにいるか……
これまでの説明で分かるように、イロナは時間を短縮するために、ニコレットを「赤帽」代わりに使ったのだった。
『……でも、私たちの分も持ってくるなんて、考えたわね……』
そう、ニコレットは自分達の喪服も持って来た。
だからこうして、この場に居られるのだ。
『……お陰で6着も持ってくることになったけどね……』
ニコレットが苦笑したとき、お経が止まった。
会食会場に向かって、エルグランドが山道を登っていく。
「いやー 無事に終わってよかった……」
助手席に座った孝洋が「しみじみ」と零した。
「そうですねー 慣れてないので、気疲れしましたね。 サクラさんたちは、どうだったかな?」
ハンドルを握った淳は頷きながら、ミラーで後ろを見た。
「あ……私は別に……」
いきなり話を振られ、サクラは……
『イロナ ニコレット 疲れなかった?』
一緒に座っているイロナとニコレットに、ハンガリー語で尋ねた。
『大丈夫よ。 ただ足が痺れてるけど……』
『私も、痺れてる』
それに答える二人は、揃って脹脛を摩っていた。
そう、二人は僧侶が帰るまでは頑張っていたのだが、その後は揃って床の上を、のた打ち回ったのだった。
『でもさ……イロナも凄いこと考えるね。 喪服を運ぶのに、ニコレットを使うなんて……』
サクラは「ふぅ」と息を吐いた。
『……ニコレットも、忙しいだろうに……わざわざ日本に戻ってきて、さらに一周忌に参加するなんてね』
『せっかく、仏教の行事に参加できるのだもの……こんなチャンスは滅多にないわよ……』
ニコレットは、靴を脱いだ。
『……あーーー もぞもぞする! こんなになるなんて……正座って、どうにかならないのかしら』
「ん? ニコレットさんは何て言ってるのかな」
後ろで話している言葉が分からず、淳が聞いた。
「疲れはしなかったけど、足が痺れて大変だ、って言ってます」
「そうね……大変だったわねー」
サクラは淳に対して答えたのだが、後部座席の理英子がそれを聞いて声をかけてきて……
「サクラお姉ちゃんは、しびれなかった?」
重ねて志津子が尋ねてきた。
「ん……私?……」
サクラは振り返った。
「……そうねー 少しは痺れたけど、すぐに良くなったよ。 シーちゃんは?」
「わたしも すぐに良くなったよー ニコレットさんたちって、よわいねー」
『サクラ……志津子はなんて言ったの?』
自分の名前が志津子から出たのに気づいて、ニコレットが聞いた。
『んー ニコレットは弱いって』
『あ、そう……』
「がくっ」っと、ニコレットは首を落とした。
「さあ、着いたぞー」
敦がハンドルを切り、エルグランドは駐車場に入った。
山に囲まれたそこは「森のオーベルシュ」
高知市街からも程近い、食事が出来て温泉にも入れる所だった。