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紅い桜  作者: 道豚
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アドバンスヨー


 曇り空の下、滑走路の上でサクラの「エクストラ330SC」が、急旋回を繰り返していた。

「(……っく!……)」

 真っ直ぐに飛んできた機体が、鋭くバンクを取る。

「(……っや!……)」

 次の瞬間、大きく操作された昇降舵エレベーターにより180度向きを変え、元の方向に遠ざかっていく。

 先ほどから、これを何度となく繰り返しているのだ。

「…………」

 駐機場にたむろしている男たちが、訝しげに見ているのも仕方がないだろう。

「サクラちゃん。 今日はエアロバティックをしないのかい?」

 そんな空気の中、遂に声をかけるゆうしゃが現れた。

「……っつ! あ、ああ森山さん……」

 集中していたのだろう……「びくっ」とサクラが、我に返った。

「……そうですねー ちょっと気になることがあるんです」

「それは、ひょっとして……レースの事かな?」

「えっとー ……何でそう思うんです? ッハァ……集中できなくなっちゃった……」

 おろしまーす、と声をかけて、サクラは「エクストラ330SC」を着陸コースに入れた。




 アウトドアテーブルを挟んで、サクラと森山が座った。

「……どうぞ……」

 紙コップにポットの紅茶を注ぎ、サクラが森山に渡した。

「ああ、ありがとう。 そういえば……ニコレットさんは来てないね」

 そう、普段ならニコレットが、その場で紅茶を淹れるのに……今日はサクラが、自ら紅茶を注いでいる。

「彼女は、ハンガリーに帰ってます。 イロナが代わりに来るはずですが、遅れてるようなんです……」

 言いながら、サクラは自分のために紅茶を注いだ。

「……はぁ 上手くいかないものですね」

「まあ、飛行機の操縦なんて……上手くいく事の方が、珍しいもんだろ? あの博美ちゃんでも、いつも「ウガー」って言ってたぜ」

「っぷ! ウ、ウガーですか? 博美が……」

 紅茶を噴出しそうになって、サクラは慌てて紙コップを口から離した。

「……ふぅ……森山さんって、良い人ですね」

「ん、そうか?」

「ええ。 今だって、私が落ち込んでいたのに気が付いたんですよね」

 紙コップをテーブルに置いて、サクラは森山を真っ直ぐに見た。

「そうだな……何か、いつものように……楽しそうに見えなかったんだよな……」

 目を細めて、森山はサクラの視線を受け止めた。

「……悩みがあるんだろ?」

「……はい……」

 ストレートに聞かれ、サクラは頷いた。




「……そうか……低高度での急旋回が上手く行かない、ってのか……」

 先日からの顛末を聞いて、森山は唸った。

「……しかも、コーチの室伏さんとの契約が切れて……これからは自分でトレーニングをしなくちゃいけなくなった……この先は、その室伏さんに聞けないのか?」

「あ、別に聞くことは良いんですが……私の実家がスポンサーになったので。 でも、今はアメリカに行ってるんです。 やはり彼ほどの人は、日本では十分に練習出来ないからって」

 そう、終に契約期間が終わり、室伏は高知を離れたのだ。

 そしてその最後の日の一週間前に、サクラはヴェレシュ家がスポンサーになることを継げたのだった。

「つまり、良いスポンサーが付いたので、アメリカに行って練習できるようになった、って訳だな。 どれ位出すんだい?」

「えっとー 他言は無用でお願いしますね……」

 サクラは周りを見渡し、声を潜めた。

「……三年で六千万です。 先ず三千万出し、後は一年ごとに千五百万ですね。 ちょっと少ないですが、私の口添えではこれで精一杯です」

「いや、それは少なくないから。 サクラちゃんって、お金持ちだったんだね」

 森山は顔の前で手を振った。

「別に、私はお金持ちじゃないですよ。 ただ実家にお金がある、ってだけですから……」

 サクラは、テーブルの上の紙コップに、視線を落とした。

「……ハァ……」

 そして大きくため息を吐いた。

「おいおい。 そんなにため息ばかり吐いてちゃ、幸運も逃げてくぜ……」

「でも……どうしたら良いのか……」

「先ずは、上手くいかない原因を考えようじゃないか」

 ちょっと待って、と森山は立ち上がった。




「さあ、これで確かめよう……」

 森山は小さな飛行機の模型を持ってきた。

 ラジコンのスタント機の形をしていて、尾翼の下から持ち手が出ている。

「あ、これ博美も持ってました。 可愛いですよね」

 それを受け取って、サクラは「くるくる」と回してみた。

「ああ、あれは加藤君からの誕生日プレゼントだった筈だよ。 あの頃は初々しかったね」

「へー プレゼントかー 良いなー」

「ん? なんだったら、それあげようか?」

「ええ! 良いんですか?」

「ああ。 なんたって、俺達は売るほど持ってるからね……」

 その通り、この模型は森山の勤めている「ヤスオカ模型」の商品だった。

「……俺からのプレゼント、って事で。 サクラちゃんの誕生日は知らないけどね」

 森山が「悪戯」っぽくウインクをした。

「あの、ありがとうございます……一昨昨日さきおとといが誕生日だったんです。 だから、丁度よかったです」

 ぺこり、とサクラはお辞儀をした。

「あ、そうだったんだね。 それは良かった」

 にっこり、と森山が微笑んだ。




 パイロンに見立てた水筒に、サクラは手に持った模型を近づけて来た。

「ここでバンク」

 水筒の少し前で持ち手を回して、模型を旋回姿勢にする。

「バンク角ってそんなもんかい?」

 それを見て森山が聞いた。

「ええ、この位だと思います」

「随分とバンクさせるんだ。 殆ど垂直旋回じゃないか」

 サクラの持った模型は、主翼が垂直に……90度に立った様に見えた。

「最大10G掛けられるんです。 だから、そこまで掛けて旋回するのが最もタイムが良くなるので……」

「チョッと待って……」

 サクラの言葉を遮って、森山はスマホの計算機能を呼び出した。

「……確か時速360キロだよね……」

 ススッ、と数字を入れていく。

「……んー なるほど……84度で遠心力が10Gになる……」

 森山は顔を上げた。

「……しかし……10Gか。 10倍の重力だよな……それ、大丈夫なのか?」

 森山の視線が、サクラの顎から下がってくる。

「……だ! 大丈夫です。 ちゃんと保護してますから」

 その視線の先は、サクラの腕で防がれた。




「……なるほどなぁ……垂直旋回の様で、実は違うんだ」

 もう一つ持ってきた模型を森山が動かしている。

「はい。 ちゃんと主翼の発生する揚力で高度を保たないと……機首を上に向けて、エンジンの推力や胴体の揚力を使ったら、抵抗になって遅くなるんです」

 サクラも模型を動かしていた。

「確かに、アドバンスヨーは機首を上に向けるなぁ……」

 森山は模型をバンクさせながら、機首を振った。

「……んで、ラダーは……機首を下に向ける様に使う事になるのか」

「はい、そうなんです。 そこが、何故だか上手くいかなくて……」

 サクラも模型の機首を振って、下に向けた。

「……最初は良いんです。 でも、水面が見えた途端に、ラダーを戻しちゃうんです……もう少し踏んでなくちゃならないのに」

「……なあ、なあ。 アドバンスヨーが、発生しなければ良いんじゃないか?」

 模型を動かすのをやめ、森山はサクラを見た。

「え!? 発生させない……そんな事が出来るんですか?」

 サクラは目を「パチクリ」させて森山を見た。

「……ん~ 俺は、実機の操縦に関しては、素人だから……間違ってるかもしれないけど……」

 森山は、模型を垂直に立てた。

「……こう、垂直上昇中にエルロンを使っても、アドバンスヨーは発生するかい?」

「いえ……多分、発生しないですね。 主翼が揚力を出してないから」

 サクラも模型を立てて、クルクルまわした。

「だよな。 つまり、揚力が無ければアドバンスヨーは無い、って訳だ。 これを使ってだな……」

 森山は、水筒のパイロンに向かって、模型を動かした。

「……こんな風に少し上昇させて……」

 模型が、僅かに上昇しながら水筒に近づく。

「……ここ辺りで、エレベーターを抜いて、揚力をゼロにする……」

 模型は上昇を止め、ゆっくり下がりはじめる。

「……ゼロになったと同時にバンクを掛ける……」

 模型は、鋭くバンクした。

「……揚力はゼロだから、アドバンスヨーは発生しない。 そしてエレベーターを引く……」

 模型は、水筒の周りを回った。

「……ここで、ちょっと多めに引くんだ。 そうしたら、機体は上昇姿勢になるだろう……」

 模型は、僅かに機首を上げている。

「……回ったら、エレベーターを抜いて揚力をゼロにする……」

 模型はバンクを戻して、水平になった。

「……っと、まあこんな感じではどうだ? これならラダーを使わなくてもいいだろう。 少し上下するけどな」

「…………」

 ポカン、とサクラは森山の模型を見ていた。

「どうした? やはり素人の考えは役に立たないかな……」

 森山は、模型をテーブルに置いた。

「……ま、こんな風に……ラジコンなら飛ばせるんだが」

「凄い、すごい。 森山さん……」

「ぅおっとー!」

 乗り出してきたサクラに両手を握られ、森山が声を上げた。

「……それ、凄いですよ。 その飛び方なら、確かにラダーが要らない。 それに、もしかしたらラダーの抵抗がない分、早く飛べるかも」

 握った森山の手を、サクラは上下に振り……テーブルの上で胸が揺れた。




  滑走路の上に、サクラの「エクストラ330SC」が飛んできた。

「(……エレベーターを抜いて……バンク!……)」

 滑走路に引かれたセンターの目印に合わせて、サクラは急旋回を始めた。

「(……引いて……もうチョッと引いて……)」

 「エクストラ330SC」は旋回しながら、上昇姿勢になった。

「(……よし! エレベーター抜いて……水平……)」

 水平飛行で……やや上昇しているが……「エクストラ330SC」は元の方に飛び去った。

「……んっ かなり良くなったね」

 隣に立った森山が言った。

「そうですねー 少しは慣れましたけど……」

 サクラは、右手でサングラスを触った。

「……なかなか真っ直ぐに抜けられませんね」

「それでも、最初のときから比べると、全然違うよ……」

 そう……森山のアイデアを確かめようと……最初に旋回を試したときは、バンクとエレベーターを引く量とが合ってなく、捻れた上昇飛行……まるで錐揉みを逆さにしたよう……になったのだ。

「……あれはあれで、新しい演技に出来そうだったね」

「まあ、そうですけど……あんなのは模型だから出来るんですよ。 実機だと失速するでしょうね……」

 サクラは離れていった「エクストラ330SC」を旋回させた。

「……もう一度やります」

「OK クリヤーだ」

 離着陸しようとしている模型がいないのを、森山が確かめた。




 アドバンスヨーとは……

 旋回しようとしてエルロンを使うとき、旋回の外側になる方のエルロンが下がり揚力を増やし、内側は上がって揚力を減らすのです。

 これにより、機体は旋回する方向にバンクをすることが出来ます。

 ところが、それだけなら良いのですが……揚力には、漏れなく抗力(空気抵抗)が付いてきます。

 つまり旋回の外側は揚力を増やしたので抗力も増え、内側は揚力が減ったので抗力も減るんです。

 胴体の両側で、片方は抗力が増え、反対側は減る。

 どうしても機体は横に回転しようとすることになります。

 しかも、旋回の外側に回転しようとするのですから、困った事になるわけです。

 これをアドバンスヨーと言います。


 これを止めるために、ラダーを旋回方向に使って、回転力をバランスさせるわけですが……

 サクラは、そのラダーが十分に使えなくて……海に落ちるように使うわけですから、怖くて……機首が上を向いた状態で旋回していたのでした。


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