内滑り旋回
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「今日は、二隻の船を出してあるんだな?」
サクラの格納庫の隅に置いてあるソファに座った室伏が、テーブルに広げた地図を見ていた。
「はい。 漁船を二隻チャーターしました……」
向かいに座ったサクラが、小さな船の模型を手に持った。
「……こんな感じに居てもらうように頼んでいます」
模型は、海岸から1kmほど離れて、海岸に平行に置かれた。
「ん! 良いだろう。 二隻の距離は?」
「まだ決めてませんが……どれだけが良いんでしょう?」
「そうだなー とりあえず、1kmでいってみるか……」
室伏は電卓のキーを叩いた。
「……200ノットで10秒……ちょっと無理かな」
「んー どうなんでしょうか?」
聞かれてもサクラは……この体になってからは……対応できるかどうか分からなかった。
「2kmにしよう……」
室伏は、サクラの顔を見た。
「これで一周が47秒ぐらい……それで慣れたら、段々近づければ良いだろう」
「……んっと、20秒のインターバル……10Gが3.5秒って感じですか?」
「そうだ。 20秒もあれば、一息つけるだろう」
「分かりました。 準備します」
『ニコレット。 船の方に連絡して』
サクラは立ち上がり、ロッカーに向けて歩き出した。
さて、二人は何をしようとしているのか、と言うと……
「室伏さん、そろそろ5月も終わります。 レースのトレーニングはどうなったんですか!?」
「サ、サクラちゃん……いや、けして忘れてたわけじゃないんだ」
「んじゃ、トレーニングするんですよね?」
「あ、あー そうだな……でもな、あれはちょっと危険が……」
「危険は承知です」
「いや、低く飛ぶだろ。 もしミスって海に落ちたら……」
「大丈夫です。 船を出しますから」
「んー コースの目標が海の上に無いだろ……」
「船を目標にすれば良いんです」
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……というやり取りがあり、今日はレースのトレーニングをする事になったのだ。
ロッカールーム……衝立でコーナーを仕切っただけ……に入り、サクラはジーンズとTシャツを脱いだ。
『それなら、大丈夫かもね』
スポーツブラを着て、さらにその上からブラを付けたサクラの様子を見て、ニコレットが言った。
『ん! 全然揺れないよ。 これなら大丈夫じゃないかなぁ。 肩紐の所にスポブラが当たるから、圧力は分散されると思う』
サクラは、少し跳ねてみせた。
『そう願うわ……はい、フライトスーツ』
ニコレットは、ロッカーを開けフライトスーツを出した。
『ありがと……って、これ?』
『そうよ。 でも、これって、以前のものとは違うのよ』
そう、ニコレットが出してきたのは、例の桜吹雪のフライトスーツだった。
『うーー どこが違うのさ……』
サクラは、受け取ってはみたが渋い顔だ。
『……そっくりじゃないか』
『カラーは同じだけど……以前のものより「ゆったり」してるわ。 それに……』
ニコレットは裏返しにして見せた。
『……こんな風に、ライフジャケットの機能があるの』
確かに、裏側に浮力材が取り付けてある。
『ふーん……つまり、海に落ちても大丈夫、って訳か』
サクラは、浮力材に触った。
『そ! それに、浮力材が付いているお陰で……あなたの、その大きな胸が目立た無い、っていう……素晴らしい効果があるの』
ニコレットは、胸を反らして「ドヤ」顏を見せた。
『あ、そっ……』
そっけなく、サクラはフライトスーツに足を入れ始めた。
『ちょ、ちょっとー 無視はしないで……』
ニコレットは、慌ててサクラの手伝いを始めた。
青い海の上を、銀色の小型機が滑るように飛んでいる。
「さあ、最初は俺が飛んで見せるから。 周りをよく見て、これから飛ぶ低空飛行の感覚を、脳味噌に刻みこむんだ」
サクラのヘッドセットに、室伏の声が聞こえた。
「はい。 お願いします」
返事をすると、サクラは両手で胴体のフレームに掴まり、体を安定させた。
「よし、始める」
室伏の声とともに操縦桿は、少し前に倒された。
緩降下の状態になり……スロットルは動かして無いのに……「エクストラ300LX」は、加速を始めた。
速度が上がるにつれて、プロペラピッチが自動的に大きくなる。
みるみる近づく海面……
「(……こ、こんなに低かったっけ?……)」
ゆったりした「ウネリ」の表面に立つ「さざ波」まで見える様子……勿論、実際に見られるわけは無い……に、サクラは顔を引きつらせた。
「これで30メートル程度だ。 レースだと、これ以上の高度で飛ぶとペナルティを取られる」
この高さは低すぎて、すでに高度計は役に立たない。
完全に室伏の感覚で飛んでいる。
「現在200ノット。 秒速100メートルだから、ミスをすれば海面まで一瞬だな。 ここから水平飛行をする……」
室伏によりスティックが僅かに引かれ「エクストラ300LX」は、水平飛行を始めた。
「……この高さを覚えておけよ」
「は、はい」
サクラは返事をして、周りを見渡したが……
「(……ま、前はどうやって飛んでたっけ? 早すぎて、何もかもがボヤケてる……)」
考えてみて欲しい……
200ノットと言えば、凡そ時速360キロメートルになり、東海道新幹線より早いのだ。
駅を通過するときに、新幹線の窓からホームの様子が見えるだろうか?
まず、不可能だろう。
つまり、僅か数十メートルしか離れてない海面は、完全に唯の「線」となってしまっていた。
「どうだ?」
「分かりません」
サクラが室伏の質問に、そう答えたのは仕方が無いだろう。
「近くを見るんじゃないぞ。 ある程度の遠くを見るんだ」
「遠く……ですか?」
「ああ。 近くは何も見えないだろ? 自分の見ることが出来る……そんな距離を覚えろ」
「そうなんですね。 分かりました」
答えると、サクラは顔を上げて前方を見た。
そうして飛ぶ事数分……
前方に高い竹竿を立てた漁船が二隻見えてきた。
竹竿の先端には……何で出来ているのだろう?……円筒形の提灯のような物が付いている。
「あれがチャーターした漁船だな?」
「はい。 私がリクエストした通りに、目標になるものを付けてますね」
どうやら、竹竿はサクラが付けさせた物のようだ。
「よし。 それじゃ、あの漁船を使ってターンをする」
室伏は、二隻の漁船の間を通過するようにコースを変えた。
「二隻の中間点で交差する、長く引き伸ばされた8の字形に飛ぶからな」
二隻を結んだ線上で、室伏は向こうに見える漁船の方に旋回した。
「200ノット、10Gの旋回半径は、およそ100メートルになる。 漁船の右側100メートルが目標だ」
話しながらも、室伏は小刻みにスティックを操作する。
「よーっし! 行くぞ!」
竹竿の先の提灯が左前に来た時、室伏はスティックを左に倒した。
「エクストラ300LX」は鋭く左にバンクを取る。
「……っく! ぅぅぅ……」
途端にサクラは、物凄い力でシートに押し付けられた。
大きな負荷を受け、エンジンが唸る。
「……っく……っく……ふぁ……ふー……」
必死で堪えること数秒……漁船の周りを旋回した「エクストラ300LX」は水平飛行に移った。
「今ので8G位だ。 大丈夫か?」
流石に室伏でも、Gが掛かった状態では話が出来なかった様で、ココに来て口を開いた。
「……はい……」
聞かれてサクラは、あちこち体に触った。
「(……ん……特に、どこも痛くないな……んー 肩紐の所も、大丈夫みたい……)」
サクラは、特に念入りにブラの下に触って、確かめた。
「……ええ、大丈夫です」
「(……おいおい……ミラーで見えてるんだから……)……サクラちゃん、男の居る所で胸に触るのは止めような」
苦笑交じりの声がインカムから聞こえてきた。
「っえ! み、見えてました? なしなし、今のは無しで……」
サクラは、慌てて両手を顔の前で振った。
サクラの操縦で「エクストラ300LX」が、漁船に近づいていく。
「そのまま、そのまま。 良い調子だ」
室伏の声が、サクラを鼓舞していた。
「……ん!……」
漁船を横に見たところで、サクラはスティックを左に倒した。
「エクストラ300LX」は大きくバンクをする。
「……ん!……」
ほとんど真横に倒れたコックピットの中で、サクラはスティックを引いた。
「……っく!……(……ん? お、落ちる?……)」
Gが掛かり、サクラは座席に押し付けられながら、違和感を感じた。
「(……左に滑ってる……)……ん!」
違和感も束の間、次に向かう漁船が見えたところで、サクラは機体を水平に戻した。
「サクラちゃん。 今の、分かったか?」
室伏が尋ねてくる。
「え? 今の……ですか?」
「ああ、そうだ。 今の旋回は内滑りだっただろ?」
「え、ええ……(……そうだよ! そうだったんだ……)……そうみたいです」
「分かったね。 だったら何が悪いか、分かるよな?」
「はい。 ラダーが足りなかったんです」
「そういう事。 さあ、次だ。 頑張ろう」
目標の漁船が近づいてくる。
サクラは、改めて両足の下にあるラダーペダルに意識を向けた。
「(……どうして、上手くいかないんだろう?……)」
{『エクストラ111G 高知タワー クリヤード ツー ランド』}
悩むサクラのヘッドセットに、男の声が聞こえてくる。
{『高知タワー エクストラ111G クリヤード ツー ランド』}
「(……どうしてもラダーが踏めない……)」
そんな風に思考が他所を向いているのに、なぜかサクラは管制に返事をして着陸操作をしていた。
「サクラちゃん、代わろう。 I have control」
しかし室伏から見ると、相当に危ない状態だったようだ。
「……っえ! You . You have control」
室伏の力をスティックに感じたサクラは、慌てて手を離した。
「ちょっと気持ちが外れてる様だったからね……此処からは俺が操縦しよう」
「はい、すみません」
「まあ、良いさ。 どうせ、旋回が上手く行かない事を考えてたんだろ?」
そう、サクラは何度旋回をしても、ラダーが十分に踏めず……結果として内滑り旋回をしたのだった。
「ええ……何故か、こう……途中で躊躇してしまうんです。 バンクが深くなると……」
ふう、とサクラは溜息を吐いた。
「……怖いのかな? 機首が下を向いてしまいそうで」
「そうだな……っと、今は着陸をシッカリしなくちゃナ……」
室伏はミラーに映る……やや憔悴したサクラを見た。
「……考えるのは、後回しだ」
もう、目の前に滑走路が広がっていた。