向き合った二対の山
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します
大型連休を目前にした金曜日。
朝早くから格納庫に来ていたサクラは、機体の整備をグランドクルー達と済ませ、机の上のノートパソコンを弄っていた。
{METER RJOT 262300Z 09005KT 9999 -RA FEW005 SCT050 BKN070 19/17 Q1023}
モニターにアルファベットが映っている。
「(……うわー 高松も雨が降ってるよ……)」
いったいサクラは何をしているのか……
「(……今日は試験だってのに……)」
そう……フライト時間が十分になったので、サクラはライセンスの試験をすることになったのだ。
試験のために室伏とサクラが考えたコースは、高知を離陸して高松に着陸、高松を離陸して松山で「タッチ アンド ゴー」そして高知に帰ってくるものだった。
ちょうど頂点を下にした大きな三角形を描くことになる。
そして今、サクラはフライトプランを作ろうとして、高松の気象情報を確認したのだった。
「(……はぁ……仕方が無い……)」
顔を上げて窓の外を見れば……高知もポツリポツリと弱い雨が降っていた。
「(……高松は段々と視程が下がる……松山は、どうやら視程は確保できそうだ……高知は……)」
パソコンの画面に現れる気象予報……TAFと言われ、空港夫々に発表されている……を見ながらサクラは、フライトプランを組み立てていた。
「(……天気は良くなるな……ようし……これで行けそうだ……ん!……)」
『サクラ。 室伏様が来たわ』
丁度、サクラがプランを組み立て終わったところに、ニコレットの声が聞こえた。
『うん。 お通しして』
「サクラちゃん、おはよう。 試験官を連れてきたよ……」
サクラが返事をしたのと同時に、室伏が格納庫に入ってきた。
後ろにスーツ姿の女性が居る。
「おはよう、戸谷さん。 私が、今回の試験官の米沢です」
その女性……ボブカットで眼鏡をかけている……は前に出ると、右手を差し出した。
「おはようございます、戸谷サクラです。 サクラで構いません」
「室伏さんに聞いた通りね。 ネイティブと言える日本語と……立派な胸の持ち主だこと」
「……そんな米沢さんも、ご立派なお胸で……」
向き合った二対の山の影に、握手をする手がチラリと見えていた。
格納庫の中央に置かれた「エクストラ300LX」の周りを、サクラはチェックリスト片手に歩いていた。
その横には米沢が付いている。
「Propeller and spinner……OK. Air inlet……OK」
・
・
・
「Fuel quantity……OK」
「何リットル?」
サクラが燃料タンクをチェックした時、米沢が聞いた。
「此処には60リットルです。 反対の主翼も60リットルで、センターにも60リットル。 全体で180リットルになります」
「そう……それで足りる?」
米沢は、サクラの作ったフライトプランを貼り付けたボードを見た。
「あまり余裕が無いので、高松で給油します」
「……ん、良いわ」
こうして米沢が質問して、サクラが答えるのが試験なのだ。
「(……良い調子じゃ無いか……)」
少し離れて室伏は、それを眺めていた。
「(……ふん! 良い身分じゃないか、お嬢様か?)」
グランドクルーに押されて格納庫から出る「エクストラ300LX」の前席で、米沢はミラー越しに後席に座るサクラを見ていた。
いまだ小雨が振っているので……視程は十分なので離陸には問題ない……二人は格納庫の中でコックピットに乗り込んだのだ。
「(……私らの頃は、ずぶ濡れで乗り込んだものなのに……)」
「エンジン始動します」
いつの間にか車止めが置かれたのだろうか……ミラーに映ったサクラの唇が動き、インカムから声が聞こえた。
「……周囲、OK……ブレーキ、OK……」
「……メインスイッチ、ON……」
米沢の目の前で、電気で動く計器の針が動き出す。
「……オルタネーターON、ポジション、ストロボON……」
「……スロットル フル フォワード……燃料ポンプON……」
「……ポンプOFF……」
「……混合気リーン……」
次々と始動前チェックが進み、後席と連結されているスロットルレバーとミクスチャーレバーが、エンジン始動位置に動く。
「……マグネトーON……スタート……」
「ウィ・ウィ・ウィ・ウィウィウィ……」
目の前のプロペラが……始めは支えながら、しかし数回転すると滑らかに回り……
「……ズドドドドドド……」
次の瞬間には、爆音と共にただの円盤に見えてしまう程の回転で、回り始めた。
キャノピーに付いていた水滴が、吹き飛ばされていく。
「……マグネトーBoth……ミクスチャーFull Rich……」
「……オイルプレッシャーOK……アイドル……」
淡々としたサクラの声と共にスロットルレバーが動き……
「ストストストスト……」
エンジン音は静かになった。
{『高知グランド JA111G エクストラ300LX リクエスト 離陸のため使用滑走路へのタキシー許可 フライトプラン提出済み 情報Fを確認済み』}
エンジンの暖機が済み、サクラは管制に連絡した。
今日は、流石にATISは受信済みだ。
{『エクストラ111G 高知グランド ランウェイ32へのタキシー許可 試験頑張って』}
「(……え? ええ! 何で試験の事知ってる?……)」
管制からの通信に不審な物を感じるが……取り敢えずは、返答しなくてはならない。
サクラは通信ボタンを押した。
{『高知グランド エクストラ111G ランウェイ32へタキシー 了解』}
「……管制で不要なやり取りは感心できないわね……」
インカムから聞こえる不穏な言葉……それを振り切るように、サクラはスロットルレバーを進めた。
「(……あれが良いな……)」
滑走路に入る許可を受けるため「エクストラ300LX」を止めたサクラは、雲の形を覚えるため右を見た。
今日の風は、滑走路から左に60度ずれている。
風速1.5メートルと弱いが、進行方向から大きくズレた風は、離陸中の機体の向きを不安定にさせるのだ。
素早く方向舵を使うためにも、遠くに目標を持っていたほうが良い。
{『エクストラ111G 高知タワー 離陸に支障なし』}
待つ事数十秒、タワーからの離陸許可が出た。
{『高知タワー エクストラ111G クリヤード フォー テイクオフ』}
返事をして、サクラはスロットルを開けた。
「エクストラ300LX」はゆっくりと動き出す。
「(……ここだ!……)」
センターラインの手前でサクラは右のブレーキを踏んだ。
「(……もうちょい……もうちょい……)」
少しずつ、さっき覚えた雲が正面に見えてくる。
「(……良し!……)」
その雲が丁度正面になった時、サクラは左のブレーキも踏んで機体を止めた。
「離陸します」
「……Vrは?」
インカムに向かってサクラが宣言したときに、米沢から質問が来た。
「……え、と……68ノットです」
いきなりの事で、やや返事に詰まったが……
「はいOK。 続けて」
どうやら大丈夫だった様だ。
「(……ふぅ……脅かすなよ……)」
ホッとして、サクラはスロットルを開けた。
轟音と共に走り始めた「エクストラ300LX」は、スティックを押すサクラの操作に忠実に尾翼を上げた。
相対的に機首が下がり、サクラは滑走路の端が見えるようになった。
「(……よし! 真っ直ぐだ……)」
上手くセンターライン上を走っている。
「Vr!」
インカムから米沢の声がした。
もう離陸速度……機首を引き起こす速度……になったのだ。
「Vr……」
サクラは間髪を入れず……それまで押していたスティックを……引いた。
余剰馬力の大きな「エクストラ300LX」は……小さな見栄えにも関わらず……ジェット機のように上昇できる。
「……セット、2400フィート/分……」
サクラはエンジン回転数を2400rpmにセットして、エレベータートリムを調整した。
アッ、と言う間に下層の雲……METARによると高度200メートル……を突き抜け、中層の雲……高度900メートル……に迫った。
{『エクストラ111G 高知タワー 125で関西デパーチャーに連絡してください』}
高知の管制空域を抜けたようで、タワーから周波数の変更指示が来た。
{『高知タワー エクストラ111G 125で関西DPEに連絡 good day 』}
{『エクストラ111G 高知タワー good day 無事帰ってね、待ってるよ』}
「(……またかよ……勘弁してくれ……)」
普通に返したはずなのに、管制からは、何故か余分な一言が付いてくる。
「……サクラさん? あなた、随分人気があるようね……」
そして、やはり米沢からも一言が飛んできた。
「……い、いや……あ、ははは……」
なんと答えていいか分からず、乾いた笑い声を上げたサクラだった。