エンジン始動
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
「ぴ・ぴ・ぴぴ・ぴぴ・ぴぴぴぴ……」
枕元に置いた時計が鳴っている。
壁際に置いたベッドで目を閉じているのは、真っ赤な髪のサクラだった。
3月に入って朝日が昇るのが早くなり、部屋の中は、既に明るくなっていた。
「……ん? んん~」
時計もいい加減鳴り飽きた頃、サクラは身じろぎすると布団から手を伸ばした。
「う~~ 朝かー」
時計の頭を叩き、音を止めてサクラは文字盤を見た。
「……ふぁ……眠い……」
『……サクラ。 起きた?』
時計を投げ捨て、サクラが再び布団に潜り込もうとした所に、ノックの音と共にイロナの声が聞こえた。
『……んー まだ寝てる』
『起きてるわね。 朝食が出来てるわ』
『……もうチョッと寝させて……』
『ダメよ!……』
サクラの返事を遮って、イロナがドアを開けた。
『……お嬢様。 既に朝食の用意は整っております。 速やかに食堂に御出で下さい』
そして嫌味ったらしく、慇懃に礼をした。
『むぅー 分かったよ……』
流石に、そこまでされると起きざるをえない。
サクラは布団から抜け出した。
『……って、イロナ……それ、似合ってない』
見るとイロナは、ロングスカートのメイド服を纏い、ヘッドドレスまで着けていた。
『本日は コンチネンタル ブレックファースト でございます』
まだ「ロールプレイング」を続けているのか……イロナが芝居がかった態度でお皿を運んできた。
『……エェエ~~ コンチネンタル?~~』
テーブルに着いているサクラが、ゲンナリと声を出した。
「サクラは、何を言ってるんだ? コンチネンタルだろ? ヨーロッパスタイルって事だよな。 お母さんが居ないから、今日はイロナさんが作ってくれたんだぞ」
反対側に座っている孝洋が、怪訝な顔をする。
「お父さん……コンチネンタルって言ったらね……」
二人の前に皿が置かれた。
「……ほらー 調理してない、って事と同じだよ」
皿の上にはジャムとバターが添えられた、冷めたロールパンが二個載っていた。
勿論、朝食がパンだけ、と言う訳では無く……サラダとヨーグルトが付いていた……サクラと孝洋はそれなりに満足して、食後のコーヒーを飲んでいた。
「……っで、今日から飛行機の練習か?」
「うん。 まだ通信士のテスト結果が来てないから、ATCは室伏さんにお任せだけど」
「そうか……事故だけは起こすなよ」
一瞬の事、孝洋は寂しそうな顔になった。
高知空港のエプロンの片隅に建っている小さな格納庫。
旅客機の乗客は誰も気がつかないような、そんな倉庫のような建物に、背の高い女性が二人入っていった。
「(……それほど寒くなくなった……)」
ロッカーの中から引っ張り出した、まだパッケージに入ったままの、真新しいフライトスーツ。
サクラはそれをイロナに渡すと、セーターとジーンズを脱いだ。
上下が繋がっているフライトスーツは、一人では着にくいのだ。
『さ、サクラ……これ、派手じゃない?』
『ん……そう、かな?』
パッケージから出して、フライトスーツを広げたイロナの言葉に、サクラは首を傾げた。
『そうよー まるで「とおやま の きんさん」みたい』
それの背中には、赤い桜の花びらが無数にプリントしてある。
『えー ニコレットが用意してくれたんだよ……』
サクラは振り返ると、イロナの広げるフライトスーツを見た。
『……ん。 金さんだ!』
そう、イロナの言う通り……そこには桜吹雪が舞っていた。
いつまでも裸でいる訳にはいかない。
サクラはイロナに手伝ってもらって、それを着た。
「(……な、なんか……ぴったりすぎるんだけど……)」
普通、フライトスーツと言えば、ゆったりしているものだ。
それなのに、今サクラが着たフライトスーツは……膝から下と肩から先は、まあゆったりしている、と言えるのだが……太ももの辺りからサクラの体にフィットしていて……丸くハリのあるヒップ、見事に括れたウエスト、そして大きく張り出したバスト……と、女性としての魅力を存分に見せつけていた。
『……サクラ、エロい……』
ポツリ、とイロナが零す。
『わあ! 言わないで……』
思っていた事を言われて、サクラは胸を腕で隠した。
『……なんか、裸より恥ずかしい。 これじゃ室伏さんの前に出られないよ』
戸惑うのも仕方が無いだろう……サクラになって以来、吉秋は一度も体の線が出る服を着た事が無かったのだ。
『何か、上に着れば良いわ』
『そ、そうだね……』
イロナに言われ、サクラはロッカーの中を覗き込んだ。
『……これが良いかな?』
そして取り出したのは、ネイビーの防寒ジャンバーだった。
『……イロナ。 離れていて』
『OK 分かった』
点検を済ませ、格納庫から出した「エクストラ300LX」の後部座席で、キャノピーを開けたままサクラは近くに居たイロナに声をかけた。
「(……周囲、OK……ブレーキ、OK……操縦桿を引いて固定……)」
そしてイロナが斜め後ろに離れた事を確認して……
「(……メインスイッチ、ON……)」
サクラは電気系統のスイッチを入れた。
電気で動く計器の針が動き出す。
「(……スロットル フル フォワード……燃料ポンプON……)」
スロットルを全開位置にして燃料ポンプを始動する。
「(……ポンプOFF……)」
実はエンジンが始動すれば、燃料はエンジン駆動のポンプで供給される。
だから普段は、電動の燃料ポンプは使わないのだ。
ここで、何故電動ポンプを動かしたか……
それは、今まで止まっていた所為で、エンジン駆動ポンプにガソリンが来てない事があるから。
押し出すポンプでなく吸い込むポンプなので、内部にガソリンが無いとエンジン駆動ポンプは吸い込めないのだ。
ガソリンは数秒で送り込まれるので、ポンプはすぐに止める。
「(……スロットルを下げて……混合気リーン……)」
ガソリンが流れやすいように全開だったスロットルを下げ、同じく濃くしていた空燃比を始動位置にする。
「(……っと、キャノピーを閉めて……)」
目の前で大きな……直径2メートルもある……プロペラが回るのだ。
キャノピーを開けたままだと、巻き上げた埃や砂が飛んできて痛い思いをすることになる。
「(……マグネトーON……スタート……)」
キャノピーを閉め、サクラはキーを捻ってセルモーターを回した。
「ウィ・ウィ・ウィ・ウィウィウィ……ズドドドドドド……」
541.5ci ……約8800cc ……もの排気量を持つライカミング製AEIO-580エンジンは精々700kg程度の機体を震わせて始動した。
「(……マグネトーBoth……ミクスチャーFull Rich……)」
揺れるコックピットで、サクラはエンジン始動後の確認をする。
「(……オイルプレッシャーOK……アイドル……)」
オイルも順調に送られているようだ。
サクラは暖気運転のため、スロットルをアイドリングの位置にした。
「ストストストスト……」
低速に下げられたエンジンは、先ほどと変わって静かに回りだした。
「(……オイル温度、圧力。 シリンダー温度……オールグリーン……)」
サクラの目の前で、エンジンの状態を表す計器が全て許容値に収まった。
「(……よし……)」
サクラはゆっくりスロットルレバーを前に倒した。
スロットルの動きに合わせ、タコメーターの針がゆっくり上がり……
「(……1750……ここで良いな……)」
サクラは、ハーフスロットルの位置にレバーを置いた。
「(……マグネトーR……)」
先ほどBothにしたスイッチを、サクラはRに切り替える。
「(……ん。 100回転落ちか……)」
タコメーターの微妙な変化を読み取り、サクラは再びスイッチをBothにした。
「(……マグネトーL……ん。 100回転落ちだ……)」
そして今度は、スイッチをLにする。
これは、一体何をしているのか……
フェイルセーフのために、ライカミングエンジンは点火系統を二つ持っている。
それぞれのシリンダーに二本スパークプラグが付いていて、それぞれが別々の発電機で火花を飛ばしているのだ。
スイッチがBothの時は二つのプラグに通電していて、RやLの時は片側のプラグだけ使う。
つまり、もし片側が壊れてもエンジンが止まらない様になっているのだが、もし最初から片側だけで動いていても気がつかないかもしれない。
サクラは、どちらも壊れてない事を確かめていたのだ。
また、回転数の下がり方が同じだという事は、どちらも同じ性能を持っている事の証明になる。
「(……Bothにして……アイドル……)」
あまり長く通電しないでおくと、プラグが汚れてしまう。
サクラはサッサとBothに切り替え、スロットルレバーをアイドリングの位置にした。
チェックを終え、エンジンを止めた「エクストラ300LX」を外に置いたまま、サクラとイロナは格納庫の中で昼食……空港の売店で買ってきたサンドイッチ……を食べていた。
以前は汚い作業デスクしか無かったのに、今はキチンとしたテーブルと椅子が置いてある。
『……サクラ、飛行機の所に誰か居るわよ』
紅茶を入れようか、と立ち上がったイロナが言った。
『……え!……』
微妙に見難い向きに座っていたサクラが、椅子から腰を上げた。
『……ん~~ 多分、室伏さんじゃないかなぁ?』
エンジンカウルの向こう側に居るせいで、顔は分からないが……着ているフライトスーツは見たことがあった。
今日から専属教官として教えてもらう事になっているのだから、此処に現れるのも当然だ。
『……呼んでくるよ。 イロナは紅茶を用意してて』
言い残すと、サクラは外に歩いていった。
テーブルを挟んで、室伏とサクラは座っていた。
「今日から、教官と生徒だね。 よろしく頼むよ」
「はい。 こちらこそよろしくお願いします」
日本人らしく、向き合ってお辞儀をし合い……二人は微笑みあった。
エンジン始動手順は、動画を見たりエンジンメーカーのマニュアルを参考にしました。
正確ではないかもしれませんが、概ね合ってるかと思います。