なんだか柔らかい
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
吉秋が目を覚ましてから2週間が経った。
麻痺していた体は少しづつ動く様になってきて、今では首より上は動かせる。
『……わたしは パイロット です……』
やや擦れた小さな声がベッドの上から聞こえる。
暇を持て余した吉秋はハンガリー語の勉強を始めたのだ。
『……じこ に あった……あって しまい ました……』
ごく初歩の会話のデータをパソコンで繰り返し再生しては、それを復唱している。
パソコンの操作は瞬きをカメラで読み取る事で行っていて、手の使えない状態でも問題なかった。
『おはよう ヨシアキ……』
病室のドアが開きニコレットが入ってきた。
『……頑張るわね。 どう? 少しは話せるようになった?』
アームに付いたモニターに向かっている吉秋を見て、英語で尋ねる。
『……おはよう ニコレット ……すこ し かな?』
ハンガリー語で答える吉秋は、さすがに、もうニコレットを女神だとは思ってない。
『ん~ ちゃんと発音できてるわ。 ヨシアキって頭がいいのね……』
それを聞き、ニコニコしてニコレットが吉秋の頭を撫でた。
『……やめて……』
吉秋は、唯一動かせる首を振って手から逃れようとするが、精々20センチ動かせるだけでは逃れられない。
『撫でるなよー 俺はもう大人だぜ』
ハンガリー語では上手く伝えられないと、吉秋は英語に切り替えた。
『……ん~~ 背伸びしちゃって、可愛いわー』
それに対するニコレットの英語での返しは、吉秋には理解不能だった。
『……さあ、体をふきましょうか』
簡単に検査を済ませると、ニコレットがぬれタオルを用意し始めた。
『なあ、それってニコレットがするのか?』
嬉々としてタオルを用意するニコレットを見て、吉秋が戸惑うように聞く。
『……ん? 勿論よ。 もう何日も拭いてないし、あなたは動けないから……』
『いやいやいや……は、恥ずかしいだろ……』
吉秋の頬がみるみる紅に染まる。
『あら~ あなたが眠っている間に何度も拭いてあげたわよ。 今更恥ずかしがってもね~』
ニコレットが「にま~~」と口角を上げた。
『そ、そんな~ 俺は男だぜ。 ニ、ニコレットは若い女性なんだから……』
『……っ! そ、そう……』
途端にニコレットから微笑が消えた。
『……そうね……それじゃ、ブランケットを取らずに、手を差し込んで拭くわ。 それなら良いでしょ』
寂しそうにニコレットはタオルを持った。
『(……やっぱりヨシアキは気が付いてないようね……)』
流動食の食事を吉秋にさせたニコレットは、ナースステーションに戻っていた。
通称「裏」と呼ばれるこの病棟には、現在吉秋だけが入院していて、それに伴いナースも3人しか勤務していない。
夫々が3交代で詰めているので、今はニコレットだけがここに居る。
『ハイ! ニコレット。 ヨシアキの様子はどうだい?』
いつぞやと同じようにツェツィルがドアを開けて入ってきた。
『……ツェツィル先生……今日はお早いですね……』
彼が午前中に現れる事など、ニコレットが配属になってから数えるほどしかない。
『いや、早いんじゃないよ。 夕べから寝てないんだ。 つまり十分遅いって事だね』
『……はぁ? 徹夜ですか……体に悪いですよ、さっさと帰って寝てください』
あっちに行け、とニコレットが手をドアに向けて振る。
『おっとっと……そう言うなよ。 何か有るんじゃないか? 難しい顔をしてただろ?』
『……そうね……確かに気になることが有るわ……』
ニコレットは鼻から息を吐いた。
『……彼、ヨシアキは今の体の事が分かってないのよ。 そうよね、首しか動かせなくて……しかも首から下はブランケットを掛けてるんだもの。 でも……少しずつ神経が繋がり、おそらく来週には腕が動かせるわ。 そうしたら……きっと体を触るわよ……』
『そうしたら、必ず体の変化に気が付く、か……』
ツェツィルがニコレットの言葉を繋いだ。
『……そう……そうしたら、彼はどんなにショックを受けるか……今だって声が変わっているのに、気が付かない。 とても考えられないことだから。 変わってるな、と思っても気のせいだろうと思っているのでしょうね……』
ニコレットは机の上に肘を突いて、手のひらで顔を覆った。
『……ああ……どうしたら良いのかしら……』
『……彼は日本人だよな?』
唐突にツェツィルが口を開いた。
『ええそうよ。 それが何?』
何を今更、とニコレットが答える。
『……日本人は義理堅いと聞いたことがある。 受けた恩は忘れないそうだ……』
『……それは私も聞いたことがあるわ……』
ニコレットはツェツィルを見上げた。
『……そして迷惑を掛けた相手には、誠心誠意謝るそうだ……』
『……だから、それがどうしたの? 今、関係あること?』
ニコレットは苛立ちを隠さない。
『……いや……その性格を利用できるんじゃないかな?』
ツェツィルが薄く笑った。
『……ツェツィル先生……もしかして、あのお方にお願いするつもり?』
『忙しい方だから……彼が気が付くまでにお呼びできれば良いのだが……』
ニコレットに答えず、ツェツィルはドアを開けてナースステーションを出て行った。
「(……くそー ヤッちまった……)」
吉秋は「エクストラ330LX」の後部座席で……タンデムの複座機に一人で乗るときは、後ろの席を使う……歯を食いしばっていた。
操縦桿を腹に付くほど引いているのに、機体はドンドン高度を下げる。
「(……マジかよ……)」
目の前に立ちすくんでいる若い女性がいた。
ウエーブの掛かった真っ赤な髪の毛を背中に流し、僅かに青味がかった灰色の目を見開き吉秋を見つめている。
「(……バカ……逃げろよ! 頼む、逃げてくれ……)」
願いも空しく、女性は吉秋にぶつかった。
「うわーーーー!…… あ……」
吉秋は唐突に目を覚ました。
「(……ゆ、夢か……はぁ……)」
気が付いてみれば、いつもの病室のいつものベッドの上だ。
緩やかな間接照明が優しく照らしている。
「(……そういえば、あの娘はどうなったんだろう? 避けられたと思うんだが……あれっ?……)」
目の前にパソコンのスクリーンがある。
「(……そうか、いつの間にか寝ちゃってたんだな……)」
どうやらハンガリー語の勉強の途中で寝落ちしていたようだ。
スリープに入ったらしく、スクリーンは真っ暗だ。
「(……え? 誰だ……これって……あの娘じゃないか? なんで映ってるんだ……)」
暗くなったスクリーンに……髪の長さは違っているが……夢で見た女性の顔が映っている。
「(……はは……よせよ。 まさか呪われたんじゃないよな?……って、動いてるぜ……)」
単純な絵が映っているのではなく、生気を持った映像だ。
「(……俺は彼女を殺しちまったのか? 間に合ったと思ったのに……)」
スクリーンに映った顔は驚いたように見つめている。
「……や、止めてくれ! そんなに見つめるな!」
吉秋は夢中でブランケットを顔の上まで引き上げた。
「(……悪かった、俺が悪かったから……頼む、成仏してくれ……っえ? 手が動いた……)」
胸の前で合掌したところで、吉秋は手を動かせた事に気が付いた。
これまで両腕は体の両側にそって真っ直ぐに伸ばされていたはずだ。
偶にニコレットが体位を変えてくれるが、まさか合掌させていることは無いだろう。
「(……おお、手を動かせたぜ……っへ? なんだか柔らかいな……)」
何だか手首に柔らかいものが当たっている。
吉秋は合掌を解いて、手のひらを柔らかいものに当てた。
「(……何だこれ……ゼリー状の物で傷口を塞いでるんか?……)」
手を押し返す物はあるのだが、体の方は何も感じない。
「(……っま、いいか……後でニコレットに聞こう……)」
ブランケットを頭から被ったままで吉秋は再び寝息を立て始めた。