もしかして奥さん?
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
空港に向かう海岸沿いの道を、真っ赤な「フォレスター」が走っていた。
運転席にはサクラ、助手席にニコレットが座っている。
『流石にサクラは、左側通行に慣れてるわね』
『……そりゃそうさ。 日本で生まれて育ったんだから……』
さっき入ったセルフサービスのガソリンスタンドを出るときも、サクラは右側だけを確認して……左側に車を見て声を上げたニコレットを無視して……アクセルを踏んだのだ。
『……でもさ、サクラが免許持ってて良かったね。 おかげで切り替えだけで日本の免許が手に入ったから……』
サクラの言う通り、吉秋は当然日本の免許は持っていたのだが、今の姿では無免許になる筈だった。
しかし、サクラ……吉秋が入る前の……がハンガリーで免許を取っていたので、切り替えの手続きをすれば、日本の免許を取得できたのだ。
切り替えには実地試験もあるが……今のサクラにとって……それは全く問題にならなかった。
『……車も手に入ったし、これで自由に動けるね……』
免許センターからの帰りに立ち寄った、スバルのディーラーで買った「フォレスター」だが、一昨日納車されたのだ。
納期3ヶ月と言われた筈が、僅か2週間で来たのは……考えたくは無いが……裏から何がしかの力が働いたのだろう。
やがてサクラ達は滑走路端を回り込み、高知高専の寮の前を通り、空港に着いた。
駐車場に「フォレスター」を置くと、サクラとニコレットはエプロンに入った。
今の時間は定期便が無いようで、閑散としたエプロンを格納庫に向かって歩く。
12月初旬、と冬の走りという事もあり、今日は良く晴れているが北西からの季節風が強かった。
『……ふう……今日はウイッグをつけて来なくて良かったよ……』
乱れる髪を抑えるニコレットを見ながら、サクラはジャケットの襟を閉めた。
『そうねー この風じゃ、ウイッグが飛ばされるかも。 そうでなくても絡んじゃうでしょうね』
どんなに乱れても絡みようの無い……ショートヘアのサクラだった。
二人は格納庫のドアを開け……飛行機の出入りする所でなく、普通の通用口……中に入った。
バドミントンコート2面+αほど、と小さな格納庫の中央に、シルバーに輝く「エクストラ300LX」があった。
サクラは隅に置いてあるロッカーを開け、薄汚れたオレンジの「つなぎ」を引っ張り出す。
『……う~~ チョット寒いね……』
ジーンズとデニムのジャケットを脱ぎ、サクラは「つなぎ」を……体をくねらせながら……着た。
『好きでしてるんでしょうけど……よくそんな格好ができるわね。 ヴェレシュ家のご令嬢の姿じゃないわ』
『……そんな、なんて言わないで。 これが整備するときには一番いいんだから……』
吉秋の使っていたそれは大きくて……身長は同じなのだが……サクラはウエストをベルトで締めた。
『……それに、今は戸谷家だもんね……』
編み上げの安全靴に履き替えると、サクラは傍の汚れた机の上に置かれた航空無線の聞ける無線機のスイッチを入れ、工具の乗ったワゴンを「エクストラ300LX」に押していった。
{『……高知アプローチ こちらJA300L 機種はエクストラ300L ……』}
サクラ達が格納庫に来て30分ほど経っただろうか……机の上の無線機が通信を拾った。
{『……エクストラ300L こちら高知アプローチ どうぞ……』}
{『……高知アプローチ エクストラ300L 現在空港の東20マイル 着陸のため接近中……』}
{『……エクストラ300L 高知アプローチ ストレートに着陸コースに進入してください……』}
{『……高知アプローチ エクストラ300L 了解 ストレートに進入……』}
『……ニコレット、お迎えが来たみたいだよ……』
エンジンの下からサクラが這い出してきた。
『今の無線がそうなの?』
機体の横に立って、サクラから工具を受け取りながらニコレットが、聞き返した。
『……「エクストラ300L」って言ってたから、間違いない。 これで「こいつ」も空を飛べるね……』
そう、サクラの……元は吉秋の……「エクストラ300LX」は12月に検査期限が来ていた。
高知では検査が出来ないので、設備のある八尾空港まで運ばなければならない。
しかし、サクラの免許では一人で飛ばす事が出来ない。
そのため今日、飛ばせるパイロットが来る事になっていた。
{『……エクストラ300L 高知アプローチ 261.2で高知タワーに連絡してください……』}
{『……高知アプローチ エクストラ300L 261.2でタワーに連絡します……』}
{『……高知タワー JA300L 機種はエクストラ300L 現在滑走路32に向けて飛行中……』}
{『……エクストラ300L 高知タワー そのまま進入を続けてください 5マイルまで近づいたら連絡してください……』}
{『……高知タワー エクストラ300L そのまま進入 5マイル手前で連絡……』}
お迎えの飛行機は、もう目と鼻の先まで来ているようだ。
サクラは、格納庫の大きな扉を開けた。
外の明るい日差しが差し込んでくる。
『はい、サングラス……どう? 見える?』
ニコレットがバッグからサングラスを取り出し、サクラに手渡した。
『……ありがとう……』
サクラはサングラスを掛け、滑走路の延長線上を眺めた。
『……ん~~ 流石に、まだ見えないね……』
それはそうだろう、5マイルと言えば9キロメートルほどの距離だ。
しかも、まだそこまで近づいてないのだから、おそらく10数キロメートルは離れている。
翼の長さが7メートルそこそこの、小さな飛行機が見えるほうがおかしい。
『……でも、もう直ぐ着くはずだから……』
サクラは回れ右をした。
そこにはエンジンカウルも装着して、飛べるばかりになった「エクストラ300LX」がいる。
『……これを外に出して……あれっ? ……ニコレット、もう押してるの?』
気が付くと、さっきまで近くに居たはずのニコレットは、「エクストラ300LX」の後ろだった。
格納庫の前に出した「エクストラ300LX」の横に、さっき着陸したイエローの「エクストラ300L」が並んだ。
エンジンが止まり、男が二人降りてくる。
「こんにちは、中村といいます。 エクストラを引き取りに来ました」
前席に乗っていた……エクストラは前後席式……やや年配の方が、帽子を取って右手を出してきた。
「こんにちは、戸谷といいます。 今日はよろしくお願いします」
以前……吉秋時代……から知っているのだが、サクラは初対面の振りをして握手をした。
「……え? えっとー このエクストラは、確か吉秋君が持ってた物だけど……お嬢さんは?」
どう見ても日本人ではないサクラが、吉秋と同じ「戸谷」などと名乗れば、混乱するのも仕方がない。
「……もしかして……奥さん?」
彼って結婚してたっけ、と中村は後席から降りた男に聞いた。
着陸後の簡単な点検をしていた所為で、少し送れてサクラ達の所に来たのだ。
「聞いてないですねぇ。 それに、彼は亡くなった……」
「……ええ! 室伏さん!」
帽子を取りサングラスを外した男を見て、サクラが声を上げた。
「おや? 会った事があったっけ……」
そんなサクラを見て室伏は、首を傾げながら握手をする。
「……あの……以前、レース会場で……」
つい名前を呼んでしまったサクラは、少し話を作る事にした。
「……私、レースのファンなんです。 だから……ハンガリー大会の時にサインを頂きました」
「そうか。 それは光栄だね」
そう、室伏はエキスパートクラスのレースパイロットだ。
中堅どころとして、ほとんどのレースでベスト8以上に残っている。
何年か前は、チャンピオンになった事もあった。
「でも……何故室伏さんが、こんな運送屋さんのような事を?」
2月からレースシーズンが始まるのに合わせて、今はアメリカに居るのが普通だった筈だ。
「……それがね……」
室伏は言いにくそうに口籠った。
「……君も知ってるかな? 知ってるよね。 ハンガリーのレースで事故があったこと……」
室伏は目を閉じて、唇を噛んだ。
「……その事故で……もう一人の日本人レーサー……吉秋君が亡くなったんだ……」
室伏の拳は、固く握られている。
「……しかも……観客の女性が、一時意識不明になった……」
ふっ、と室伏は力を抜いた。
「……その後から、レースは無期限中止になっているんだ。 そんな訳で暇だから、こうして手伝いをしてるんだよ。 働かなきゃ、収入が無いからね」
「(……そ、そんな……申し訳ない……)」
思ってもみなかった事故の影響に、サクラは目を伏せた。
アイドリングで暖気運転をする「エクストラ300LX」の後席に室伏が座り、前席にサクラが座っていた。
ほぼ半年ぶりに操縦できるチャンスだから「……ヨーロッパの免許はあるんです。 操縦させてください……」と、サクラが室伏に頼み込んで、この状況が実現したのだ。
ニコレットは、中村の操縦する「エクストラ300L」の前席に収まっていた。
{『……高知グランド JA111G 機種はエクストラ300LX タキシングの許可を願います。 フライトプランは提出済み……』}
室伏が無線で話すのが、インカムから聞こえてきた。
八尾空港までのフライトプランは、先ほど室伏がスマホを使って提出したのだ。
そして、サクラは日本での無線の免許が……今は……無いので、ATC(航空管制)の無線は室伏が全てする事になる。
{『……エクストラ111G 高知グランド 滑走路32へのタキシング許可……』}
少し待たされ……フライトプランを確認したのだろう……地上走行の許可がでた。
「……サクラちゃん、操縦するかい?」
室伏が聞いてくる。
サクラの歳を聞いた室伏は「娘と同い年だ」と、「ちゃん」付けで呼び始めた。
「……はい……」
{『……高知グランド エクストラ111G 滑走路32へタキシング……』}
室伏の無線と同時に、サクラの手によってスロットルが開かれ「エクストラ300LX」は走り始めた。
航空機で使われる「マイル」は「ノーティカルマイル(海里)」です。
1マイルは、およそ1.8Kmになります。
ATCの内容は、私の所有しているフライトシミュレーターを参考にしました。
実際とは違っているでしょう。
雰囲気だけをどうぞ……
ちなみに JA111Gは「ジュリエット」「アルファ」「ワン」「ワン」「ワン」「ゴルフ」と読みます。