養子
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
模型飛行機の世界選手権が終わって3週間たった9月の終わり、吉秋は正式に退院して、ブダペスト市街のマンションに居た。
5LDKと一人で暮らすには広すぎるようだが、ニコレットとイロナが一部屋ずつ使っているので、まあ、そんなものかと吉秋は納得した。
もっとも日本円で一億五千万円というのは、なかなか納得出来ないものがあったのだが……
広いリビング……小学校の教室程度……のソファーに座って、吉秋は傍に積み上げた雑誌を1冊ずつ読んでいた。
「(……これもHIROMIがトップページに載ってる……)」
本屋さんで目に付いたものを片っ端から買ってきたのだが……それこそファッションから時事問題まで……どの雑誌も表紙は当然、メインの記事は世界選手権での、博美の活躍を紹介するものだった。
当然、扱いは違っていて……ファッション誌なら彼女の着ていたジーンズやシャツ、シューズの紹介や着こなし……時事問題では彼女の戦略やプレッシャーの回避法など……それぞれ読み物として面白い。
「(……で、なんで俺まで写真になってるんだ?……)」
そして必ず、博美の傍にサクラが写った写真が含まれていた。
どうやら親日派の多いこの国では、新チャンピオンの博美と上流階級のサクラが仲の良いことを、喜ばしいと考える人が多いようだった。
『……サクラ……』
ニコレットが、リビングに入ってきた。
『……ん 何?』
吉秋は、俯いて紙面を見ていた顔を上げた。
『日本から本が届いたわ』
ニコレットの差し出したのは、日本で一番発行部数の多いラジコン雑誌だった。
『……ああ、ありがとう。 HIROMIが送ってくれたんだね……』
あの日、帰ったら雑誌を送ると博美は約束していた。
「(……特別に、早く手に入れたんだな……)」
確か、発行日は来月の始めのはずだ。
おそらく関係者は、早く手に入れられたのだろう。
さっそく開いて、少し読んでみる。
「(……やっぱり日本語が分かりやすいや……)」
英語やハンガリー語と違って、一目見た一瞬で内容が頭に入ってくるようだ。
さっきまで読んでいた雑誌を放り出し、吉秋は夢中で読み始めた。
『ねえサクラ。 私の用事は、まだあるんだけど?』
ニコレットはその様子を見て、苦笑を浮かべた。
『……ん 何?』
返事をしながらも、吉秋は顔を上げない。
『急だけど、日本からお客さんが来るわ』
『……っえ! 日本?』
さすがに、これには驚くしかない。
吉秋は、顔を上げた。
『明日の午後、Toya Takahiroさんと Riekoさんが来るわ。 どう? 楽しみね……』
にっこりとニコレットが微笑む。
「……おやじ と おふくろ……」
そのニコレットをぼんやり見ながら、吉秋はポツリと零した。
『……そう Yosiakiのお父さんとお母さんね』
ニコレットは長く吉秋と居たので、このぐらいの簡単な日本語は、分かるようになったのだ。
『……な、なんで いまさら……』
吉秋の瞳が、潤んできた。
『……入院してた……あんなに辛かった……あの時に会いに来なくて……』
溢れた涙が、頬を伝う。
『……私の 葬式を 出したんだろ?……吉秋は 死んだんだ。 いまさら どう言って 会えばいい?』
『大丈夫よ。 ご両親は知ってるわ。 貴方の受けた手術の事や、今の立場もね……』
ハンカチを吉秋の頬に当て、ニコレットは肩を抱いた。
『……写真も送ってるわ。 美人だって、喜んでいたそうよ』
『……そ、そうなんだ……それを言ったのは お父さんだな。 あの人……西洋人が 好きだから……』
ふふっ、と吉秋は笑い……
『……う、嬉しい けど 怖い……』
ニコレットの胸に、顔を埋めた。
サクラの住むマンションの玄関に ヴェレシュ アルトゥール は立っていた。
傍には家令のガスパル、その周りには数人の黒服が立っている。
マンションの住人が、避けるように通り過ぎるその集団の前に、黒塗りのリムジンが止まった。
素早く助手席から降りた黒服が開いた後部ドアから、一組の東洋人の夫婦……白髪混じりの短髪と肩ほどの長さの黒髪……が降り立った。
それを見てアルトゥールは踏み出し、右手を出す。
『初めまして。 ヴェレシュ アルトゥールです』
『……初め まして。 私は 戸屋 孝洋 です。 こっちは 妻の 理英子 です……』
出された手を握り、拙い英語で孝洋は答えた。
『……アルトゥールさん 息子は どこですか?』
「孝洋さん、日本語でかまいません。 私が通訳します」
アルトゥールの側に控えていた、黒服の男が孝洋の横にきた。
「……あ! それは、すみません。 では……息子はどこに居ますか?」
『……サクラ様は何方でしょう?』
すかさず黒服が翻訳する……若干、違っているようだが。
『サクラは自室です。 今から行きましょう』
「……お部屋だそうです。 今から行きます」
「……わかりました……」
玄関を占領して住人に迷惑を掛けていた集団は、エレベーターに移動を始めた。
ジーンズにTシャツという、何時もの格好で吉秋はリビングに居た。
『ねえ、本当にそんな格好でいいの? せっかくご両親が来るのに』
いつになく、落ち着かない様子で部屋を行き来する吉秋に、ニコレットが訪ねた。
そう、ニコレットはオシャレさせようと、クローゼットからドレスを持ち出していた。
『……いやだよ。 それこそ恥ずかしい……』
何度目かのやり取り……今朝、吉秋が目覚めてから……をしていると、玄関のドアがノックされた。
慌ててニコレットはドレスをクローゼットに仕舞いに行き、それを目の隅に捉えた吉秋は玄関に向かった。
『……だれ?』
カメラが付いているにも関わらず、モニターのスイッチを入れずに、小さな声で尋ねる。
『……ワシだ……』
渋い声のアルトゥールが答えた。
『……待って……』
吉秋は、そこで改めてモニターのスイッチを入れた。
ドアの近くにアルトゥール、その後ろに懐かしい顔が映っている。
『……お父さん確認。 開けるね……』
吉秋は、ロック解除のボタンを押した。
孝洋は専用だと説明されたエレベーターを降りると、そのホールだか廊下だか分からない広い通路に驚いた。
「(……なんて贅沢な作りだ……こんな所に吉秋は住んでるんか……ん?……)」
不意に腕を掴まれ、横を見ると理英子が居た。
「……おとうさん……吉秋はここに住んでるの?」
孝洋にしか聞こえないよう囁く理英子も、どうやら同じように気圧されているようだ。
「そうだろうな。 何というか……金ってのはある所にはあるんだなぁ……」
そんな事を夫婦で話していると、前を歩いているアルトゥールがドアの前で止まった。
ノックの音が響き、少しの間を空けて小さな声が聞こえる。
「……あの子かしら? 可愛い声ね」
「……そうだな。 なんて言ってるんだろう?」
「……サクラ様がカメラで確認されたようです」
二人の会話に気がついたのか、通訳の黒服が後ろで言った。
カチリ、とロックが外れる音を聞いて、黒服の一人がドアを手前に開いた。
黒服の抑えたドアをアルトゥールが潜り、側に付いていた通訳に促されて孝洋と理英子も続く。
「……親父、お袋……」
部屋に入った所で声を……可愛い声にしては内容は男臭い……掛けられた。
はっ、として顔を上げると、真っ白な顔にウエーブの掛かった赤毛の女性が立っていた。
孝洋と目があうと、その青みがかった灰色の瞳がみるみる涙で潤んでくる。
「……お、おやじ……」
震える声で一言……
「……お、おふくろ……お、お母さん……」
そして、後ろに続く理英子を見て抱きついた。
「……お母さん、ゴメン……こんな……こんなになって、ゴメン。 お母さんに貰った体を無くしてゴメン……」
「……吉秋……吉秋なのね。……大丈夫よ……」
包まれたようになった……サクラの方が背が高い……理英子が「ぽんぽん」と吉秋の背中を優しく叩く。
「……姿は変わっても、あなたはここに居る。 私には分かるわ。 あなたは吉秋、私の子供よ……ああ、生きていて良かった……」
吉秋を抱き返した理英子の瞳も、涙で潤んでいた。
リビングのソファーの片側に吉秋とアルトゥールが座り、反対側に孝洋と理英子が座った。
それぞれの後ろに通訳が居る。
「改めて、お詫びします。 息子の吉秋が、おたくのお嬢様に、ご迷惑をおかけしました」
『いえいえ、それには及びません。 娘がこうなったのは、我が家の不手際でした。 私としても、Yosiaki君に娘の体を預かってもらえて、感謝しているところです』
優秀な通訳のお陰で、日本語とハンガリー語なのに意思の疎通はスムーズだった。
「……と、言いますと?」
『娘は飛行機に驚いてドナウ川に落ちたのです。 脳死状態でした。 あの時、Yosiaki君の脳がなかったら……』
アルトゥールは、隣に座る吉秋を見た。
『……ここに娘は、いなかったでしょう』
「……そうですか。 でも、そこにいるのは……えっと……サクラ? さんの記憶を持たない、吉秋なのですが」
孝洋も吉秋をまっすぐに見た。
『それはわかってます。 でも、見た目は娘であるサクラなのです。 亡くなった家内によく似た……』
「……そうですか……そう言っていただけると、幸いです……」
『私は、これで十分でした。 こうして娘が近くにいてくれるだけで……』
アルトゥールが、吉秋の手を掴んだ。
吉秋はピクリとする。
『……しかし……私も世間に対しての立場、というものがあります。 「娘は危険な状態から回復した」 と喧伝していても、どこからか嗅ぎつけてくる者がいます。 今は大丈夫ですが……』
アルトゥールの顔が、クシャリと歪んだ。
『……Yosiaki君を、お返しします。 どうか日本に連れて帰ってください……』
『……えっ! お、お父さん……』
吉秋が、アルトゥールの顔を見つめる。
『……私の勝手を許してくれ。 君の運命をいたずらに変えてしまった……』
サクラによく似た瞳から涙が落ちた。
「……ど、どういう事ですか? 息子は既に死んだ事になっています……」
急な話に、孝洋が慌てる。
『……もちろん脳だけを、などとは言いません。 どうかサクラを養子としてください。 日本が好きだった家内も喜ぶはずです。 サクラも好きなYosiaki君と一緒にいられて喜んでいるでしょう……』
体を乗り出し、アルトゥールは孝洋の手を取った。
ハンガリー編はこれで終わりました。
少し休みを頂き、次回からの舞台は日本になります。