東京ラウンド(12)
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
「(……ぐぅぅぅぅぅぅ……)」
10Gの重力加速度を受けながら、両足でラダーペダルを踏ん張り、両手を使ってスティックを引いているサクラは、次に通過する対になったパイロンを見つめていた。
スティックに付けたレバーは、既に放している。
左の翼は空を向き、右の翼のすぐ下を青いカーペットと化した海面が流れていた。
「(……もうすぐ……)」
上に見えていたパイロンが、下がってきた。
「(……よし!……)」
それが正面に来た時……
「くっ!」
スティックを戻し、すかさず左に倒した。
0.2秒後、横倒しだったパイロンが垂直に立つ。
「くっ!」
サクラは、スティックを中立に戻した。
直後、パイロンが視界の左右に消える。
「くっ!」
直ぐにスティックを右に倒し、右のペダルを蹴った。
一瞬水平だった景色が、再び左に倒れた。
「くっ!」
0.2秒後、スティックを戻し……
「くっ!」
引いた。
「(……ぐぅぅぅ……)」
再びGがサクラを襲う。
「(……あそこ……)」
サクラは、顔を上げて上に見えるパイロンを見た。
それは、垂直になった海岸の手前に見える。
「(……よし!……)」
それがエンジンカウルに隠れた時……
「くっ!」
引いていたスティックを戻し、すかさず左に倒した。
0.2秒後、海岸が水平になり、左前にパイロンがあった。
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「……サクラ選手、横のターンを過ぎて向かってきます……」
「……いい調子です。 速いですよ……」
工藤が実況を言い、伊勢はそれに意見を述べる。
レースが始まってから何度も繰り返したやり取りは、サクラの会社のネット中継に無くてはならないものになっていた。
「……ここまでで、既に準決勝のタイムを0.3秒近く短縮してます。 絶好調ですね……」
「……そうですね。 見るに、エンジンのパワーが上がっているようです。 それと、サクラ選手がリズムに乗ってる、そんな感じがします……」
「……さあ、スラロームに入ります……」
海岸の直前で「ミクシ」は鋭く左にバンクをすると、機体の下側を見せてパイロンを回った。
パイロンを躱すと「くるり」と右にロール。
コックピットに収まったサクラをキャノピー越しに見せながら、パイロンの向こう側を通る。
空かさず左にロール。
3本目のパイロンを回り、スモークで出来た軌跡を残して沖合に向けて離れて行った。
「……いやー……スムースな切り返しでしたねぇ……見てください。 スモークが上下してませんよ。 エルロンとラダーの調和が取れているんですね……」
「……それは、つまり?……」
「……ロスが無い、という事です。 今、サクラ選手は機体の能力を最大限引き出している、そういう事ですね……」
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前方右側に、さっきスタート直後に回ったパイロンが見えていた。
それを右に回って縦のループに向かうのが、飛行コースだ。
コースの中で、ここだけが直線で飛ぶことが出来た。
「……ふぅ……」
1秒程度ではあるが、サクラは一息入れた。
その間にも「ドンドン」パイロンは大きくなってくる。
それが右前に見えた時……
「くっ!」
サクラは、スティックを右に倒し、右のペダルを蹴った。
これは以前高知で練習していた時よりも早めの操作だった。
何故なら……あの時はパイロンを中心に回っていたのだ。
機体の操作に慣れるためには、そうするのが分かりやすかったのだが……今はなるだけ早くターンをしたいのだから、旋回の頂点がパイロンに当らない程度に中心をずらした方が無駄がない。
ほんの僅かではあるが、これでタイムが良くなるはずだ。
スティックを倒しているのは、僅か0.2秒。
「くっ!」
サクラはスティックを戻し、引いた。
「(……ぐぅぅぅ……)」
スティックを引くサクラの上を、パイロンが通過した。
正面の景色が上から下に流れていき、先に見える縦のターンをスタートするパイロンもエンジンカウルに隠れた。
「くっ!」
サクラはスティックを戻し、すかさず左に倒した。
縦になっていた海岸が水平になり、パイロンが左前にあった。
「(……よし!……)」
それを確認して、サクラはスティックに付けたレバーを握った。
プロペラピッチが増え、負荷の増した「ライカミング製AEIO-580エンジン」は唸りを上げた。
「くっ!」
直後、スティックを左に倒し、左のペダルを蹴る。
0.2秒後……
「くっ!」
掠れてきた気合と共に、サクラはスティックを戻し、引いた。
「(……ぐぅぅぅ……)」
Gがサクラをシートに押し付ける。
それもわずかな時間。
正面に横倒しになったパイロンが降りてきた。
「くっ!」
スティックを戻し、すかさず右に倒す。
0.2秒後、横倒しだったパイロンが垂直に立った。
「くっ!」
サクラは、スティックを中立に戻した。
直後、パイロンが視界の左右に消える。
「くっ!」
サクラは、渾身の力を込めてスティックを引いた。
Gメーターの数値が跳ね上がる。
「(……ぐぅぅぅぅぅぅ……まだだ、まだ引ける……)」
サクラは、スティックに掛かる力と体に働くGを感じながら、スティックを引く量を加減する。
「(……ぐぅぅぅぅぅぅ……これで行ける……)」
メーターを見ずとも、Gは10以下……9.5Gとなっていた。
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「……サクラ選手、最後のターンです……「サクラマジック」炸裂……」
「……炸裂って……爆発するわけじゃないですから……」
工藤のセリフに伊勢は、つい突っ込んだ。
「……伊勢さん。 じゃあ何て言います?……」
「……んっ……発動とか?……」
「……「サクラマジック」発動!……何だか……ダサくないです?……」
「……そう、ですねぇ……もう炸裂でイイです……」
「……というわけで……「サクラマジック」炸裂!……低く回ります……」
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「(……ぐぅぅぅぅぅぅ……よし、ここだ!……)」
放送席のやり取りなど知らずにループの頂点の少し前で、サクラはスティックに付けたレバーから手を離した。
プロペラピッチが減り、負荷の減った「ライカミング製AEIO-580エンジン」は本来の……森山のチューンした……パワーを取り戻した。
「(……ぐぅぅぅ……)」
Gが10を超えないように、サクラはスティックの引く量を加減する。
「(……よし!……)」
ループの頂点を超え、通過するパイロンが正面に逆さに見えた。
サクラは、引いていたスティックを戻した。
体をシートに押し付けていたGが消え、逆に肩ベルトに体重が掛かり、ヘルメットの後ろから出ている真っ赤な髪が持ち上がった。
「くっ!」
スティックを左に倒す。
パイロンが右に回りながらせり上がってくる。
それが真っすぐに立ち、やや上に見えた時……
「くっ!」
サクラは、スティックを戻し引いた。
「(……ぐぅぅ……)」
Gが掛かるのも僅かな時間……
水平飛行になった「ミクシ」は、パイロンの間を抜けた。
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急降下しながら左ロールした飛行機は、並んだパイロンの間を通るとチェッカーマークのパイロンを目掛けて飛んでいく。
「……早く……早く……」
「……いけー!……」
「……いけるぞ……」
「……来たぞ、来たぞ……」
祈るような観客の声を受けながら、飛行機はゴールのポール間を突き抜けた。
『……協議中……』
無慈悲なアナウンスが流れる。
「……ええーーーー!……」
「……嘘だーーー!……」
観客の悲痛な叫びが沸き起こった。
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「……サクラ選手、ゴールしましたが……協議中のサインが点灯しています……」
さっきまで興奮してサクラを応援していた工藤は、自分の仕事を思い出したように話し出した。
「……そうですね。 何処が問題になっているのでしょう? ここで見ている限り、問題になる箇所は無かったと思いますが……」
伊勢も困惑した様に答えた。
「……可能性で言えば、スタート時に高度が高かった? ぐらいだと思いますが……」
「……いや、しかし……スタートクリヤと宣言していましたから、大丈夫だと思います……」
「……そうですよね。 どうなりますか? ペナルティーが無ければ、素晴らしいタイムが出ると思いますが……」
「……っと、サインが消えました。 タイムが出ます……」
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審議中のランプの付いたスクリーンを、誰もが見つめていた。
「……大丈夫……大丈夫だとも……」
祈るような言葉が、誰ともなく流れている。
そんな時間も数十秒……唐突にランプが消え……
『……オールクリア ミス サクラ 53.723秒……』
落ち着いた声で、事も無げにアナウンスが流れた。
「……ゥヲーーーーー!……」
その直後、スクリーンに映ったコックピットの中で、女性が雄叫びを上げた。
空の上だと言うのに、操縦桿から手を離して「バンザイ」をするとバイザーを上げた。
色素が薄く、青みがかった灰色の瞳のぱっちりした目が現れると、カメラに向かってウインクをしてみせる。
「……やったーーー!……」
「……これで勝てるぞーー!……」
「……サクラー!……」
観客席は大騒ぎになった。
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「……やりました! サクラ選手、 53.723秒です……」
「……これは速かったですよ。 抵抗の大きな「エクストラ330LX」でもって、エキスパートクラスを戦う「エッジ540」系と遜色のないタイムです……」
「……やはり「サクラマジック」の力ですか?……」
「……そうですね。 それもありますが、今回はリズムが良かった。 エルロンとラダーのタイミングがバッチリでしたね……」
「……そうですか。 っと、情報が入ってきました。 えーと……これは先ほどの審議の内容ですね……」
「……どれどれ……あ~……やっぱりスタートですね……」
「……そのようですね。 やはり高度がギリギリだったと……」
「……ええ、クリヤーと宣言はしたけど……どうやら審判員から「ものいい」が付いたようです……」
「……それで写真判定ですか? この映像を見ると、確かにギリギリですね……」
「……それでもサクラ選手の頭部は、パイロンのマークの下を通ってます。 クリヤーです……」
「……さあ、無事サクラ選手がタイムを出した所で……ナタリー選手のスタートです……」
「……これは、かなりのプレッシャーになるでしょうね……」
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{『サクラ レースコントロール 上昇して待機位置に行きなさい』}
コースを離れて上昇していたサクラに連絡が来た。
どうやら着陸はまだ出来ないらしい。
{『レースコントロール サクラ 了解 待機位置に移動』}
サクラは、答えると「ミクシ」を待機位置に向けた。
「(……ふぅ……上手く飛べて良かった。 タイムも良かったし……ナタリーはどうかな?……)」
コースから離れる様に飛んでいるため、スタートに向かっているであろうナタリーの姿は見られない。
{『ナタリー レースコントロール レースコースクリア』}
周波数を合わせているので、ナタリーへの指示が聞こえてきた。
「(……ん。 これからスタートだね……見れないかなぁ?……)」
{『レースコントロール ナタリー レースコースクリヤ』}
ナタリーの復唱を聞きながら、サクラはコックピットの中で左右に体を捻った。
「(……ダメかぁ……全然動けないや……)」
そう……ガッチリとシートベルトで固定されている体は、後ろを振り向くことが出来なかった。
{『ナタリー スモークを出せ』}
もうスタートは直前だ。
「(……えい……旋回しちゃえ……)」
体が動かせないなら「ミクシ」ごと振り向けばいい。
サクラは、スティックを左に倒し左ペダルを踏んだ。
「ミクシ」はクルリと旋回した。
「(……見えた!……)」
左下にレースコースが見え、黒く見えるナタリーの「エクストラ330LX」がスモークを引きながら海面の上を飛んでいた。
段々と近づくスタートパイロンを見つめ、ナタリーは左手のスロットルレバーと右手のスティックを微妙に動かしていた。
速度が速すぎてはダメ。
高度は高くても低くてもダメ。
そんな調整は、もう無意識で出来るほど練習を重ねてきた。
それが無意識で出来るせいで……
『(……53.723……53.723秒……)』
ナタリーの頭の中を……今は考えなくてもいいのに……サクラのタイムが繰り返し流れていた。
『(……ムリよ……どうすればあんなタイムが出るの?……)』
愛機の「エクストラ330LX」は、ナタリーの気持ちを知らずにパイロンの直前まで来た。
『(……ダメ!……集中!……)』
パイロン上部のチェッカーマークが、左右に消えた。
『くっ!』
サクラの事を考えていた所為だろうか?……よく似た気合の声と共に、ナタリーはスティックを倒した。




