東京ラウンド(10)
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『……ニコラス ゴーーーール! これは早かった……』
『……タイムは? ……52.553! カービーが53.021だったので、ニコラスが勝ち上がりです……』
相変わらずレースの中継が流されている格納庫の中で、サクラは着替えをしていた。
「(……シーちゃんが、あんなこと言うから……何だか恥ずかしい……)」
そう……フライトスーツを胸の上まで引き上げてジッパーを止めて見たのだが、姿見に写るのは大きな胸とお尻の形を露わにした女性だった。
「(……もうちょっと何とかならないか、相談してみよう……)」
『……これで2回戦は、ムロフシとの対戦になります……』
『……そうなりますね。 ちなみにムロフシは、52.336で1回戦を勝ち上がっています……』
『……ムロフシは、予選よりタイムを縮めてきました。 絶好調ですね……』
『……母国での開催という事で、かなり気合が入っているようです……』
『……さて、次の対戦です。 マイケルとフランソワですね……』
『……先回のカンヌラウンドで、11位と12位になった……力の拮抗している二人です……』
『……ライバルと言ってもいいですね。 さあ、どちらが2回戦に進めるか?……』
『……マイケルからのスタートです……』
格納庫の隅で、サクラは並べたミニパイロンの周りを回っていた。
暑くなってきたのでフライトスーツを半脱ぎしていて、上半身はアンダーウエアのままだった。
『サクラ、ムロフシのレースが始まるよ……』
モニターの置いてあるパーティションからメイが出てきた。
『……っと、刺激的な格好だね』
『ん! ありがと。 もう始まるんだね……』
サクラは、メイに視線を向けた。
『……っで? 刺激的?』
『そりゃ、そんな姿で「くねくね」とステップを踏んでちゃね……』
メイは、肩をすぼめた。
『……セクシーさ』
「……すけべ……」
サクラはポツリと零し、そのままメイを置いて、パーティションの方に歩き出した。
『ちょ、ちょっと待って。 今、なんて言ったの?』
慌ててメイは、追いかけた。
『何でもないわよ。 さーって、室伏さんはどうかなー』
サクラは、右手を肩越しに振ってパーティションの中に入った。
『来たわね。 今は、ニコラスが飛んでるわよ』
中に居たイロナが、振り向いた。
『そんなに早くないわ。 室伏が勝ちそう……』
一緒にレースを見ていた、メアリも振り向いた。
『……っで? 何変な顔してるの? メイ』
『あ、いや……ちょっとサクラと言葉の齟齬があって……』
サクラに続いて入ってきたメイが、言いかけたとき……
『……ニコラス ゴーーーール!……』
モニターからMCの声が響いた。
『……さあ、タイムは?……』
『……室伏にプレッシャーを与えることが出来るか?……出ました!……』
『……あーー……52.853! これは早くない……』
『……1回戦よりタイムを落としてしまいました。 これでは、室伏にプレッシャーを掛けられません……』
『……そうですね。 これを聞いて、室伏は余裕が出る事でしょう……』
『……その室伏、スタートに向かって降下を始めました……』
望遠レンズで捕らえられたシルバーの「エッジ540V3」が、モニターの中に大きく映っていた。
「(……綺麗に飛ぶなー……操作が滑らかだ……)」
サクラは、モニターを見つめていた。
室伏の「エッジ540V3」は、スラロームを滑らかに交し一旦向こうへ飛んでいく。
『……室伏、最後のループ。 ここまでミスは無い……』
『……無理をしてないですね。 操作に余裕があります……』
『……それでいて、ニコラスより早いですよ……』
『……高く上がります。 ここは、流石に「サクラマジック」とはいかないですね……』
『……あれは、反則ですよ。 なんで低く回ってもGが規定値をこえないんですかねぇ……』
『……何度もレフェリーが調査したらしいですよ。 違反は無かったという事なので、反則じゃないです……』
そう……実は、フリー飛行の時に1回、公式練習の後にも1回、と「ミクシ」を調べられたのだ。
当然、ルールに反するところは見つからなかった。
『……失礼しました。 反則、というのは言い過ぎでした。 謝罪します……』
「(……別に抗議なんかしないけどね……)」
慌てた謝罪の言葉に、サクラは苦笑を浮かべた。
『……さあムロフシ、ゴーーーール!……』
『……早かったですね。 オーバーレイで見ても、ニコラスを引き離してゴールしてます……』
『……タイムは? 出ました。 52.458です……』
『……ムロフシも1回戦よりタイムを落としましたが、それでもニコラスより0.4秒近く早かった……』
『……これは、ムロフシは流して飛んでますね。 ニコラスのタイムが悪かったので、無理をしなかったんでしょう……』
『……この辺、後から飛ぶ選手の役得ですか?……』
『……今回はそうですが……もし良いタイムを出されていたら、プレッシャーを受けますから。 後が良いか、それとも前が良いか、どっちが良いかは分かりませんね……』
『……そうですね。 さあこれで準決勝に進む一人目は、ムロフシとなりました……』
『……あと3人。 誰が進むか? 楽しみです……』
「(……あと一回。 あと一回勝てば、室伏さんも決勝だ。 頑張って……)」
モニターには、レースコースから急上昇して離れて行く「エッジ540V3」が映っていた。
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目の前に巨大なパイロンが立ち並んでいる浜辺。
東京湾の奥にある人口の砂浜は……シートを広げたり、折りたたみいすを持ってきたり、あるいは何も用意せずに……そんな観客で埋まっていた。
「……あれかな?……」
「……そうじゃないか?……」
「……そうだ、そうだ。 きたきた……」
何を待っているのか?
彼らの見つめる西の方角に、小さな機影が見えていた。
それは、爆音を響かせながら大きくなってくる。
「……いや……意外と早いぜ……」
もう、既にそれが丸い機首ををした低翼機だと分かる。
「上空をご覧ください……」
会場でアナウンスをするMCが、話し始めた。
「……レースのスペシャルゲスト。 かつて日本の航空技術の粋を集めた名機、ゼロ戦がやって来ました」
ゼロ戦は、軽く左右にバンクを振ると、少し機首を下げた。
高度が下がるにつれ、速度が上がって行く。
パイロンより少し高い高度まで下がり、水平飛行になった。
「……ドルゥゥゥゥ……」
レース機とは違う、大排気量の図太いエンジン音を響かせ、右から左へとデッドパスをする。
『(……これが、あのゼロ戦という戦闘機か……)』
指定席に座ったアルトゥールは、その流麗なラインをした……ともすれば女性的にも見える……機体を見つめた。
『(……こんな華奢な飛行機に、血塗られた過去が有るとは……)」
左に行ったゼロ戦は、機首を上げた。
上昇するにつれ、速度が下がる。
そこで左にバンクをすると、高度を下げながら左旋回をした。
こちらに向いたゼロ戦は、さっきより低い高度で眼前を通り過ぎた。
観客から拍手が起こった。
右に行ったゼロ戦は、再び機首を上げた。
さっきより高く上がる……
見る間に速度が落ち……「くるり」と向きを変えた。
『(……いや……なんと小さく回るんだ……)』
いわゆる「ウイングオーバー」という機動なのだが、アルトゥールは知らなかった。
機首を下げながら右から左へと飛び、こんどは少し右に旋回した。
一旦海岸から離れると、左に旋回を始めた。
更に高度を……パイロンに当りそうなくらい……下げる。
正面まで来ると、キャノピーが後ろにスライドしていて、パイロットが手を振っていた。
「……パイロットは、アメリカ在住の松田氏です。 どうぞ大きな拍手を……」
アナウンスが流れ、大きな拍手が沸き起こった。
ゼロ戦は、バンクを振ると上昇を始め……そのまま西の空に向かって消えて行った。
「……スペシャルゲストのゼロ戦の展示飛行でした。 この後は、エキスパートクラスの準決勝があります。 スタートまで少々お待ちください……」
アナウンスが流れ、会場が静かになった。
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『……縦のターンに向かいます。 ポール、ここまでムロフシより0.2秒早い……』
騒めきが戻った海岸を、白に紅いストライプの入った「エッジ540V3」が飛んでいた。
エキスパートクラスの準決勝は、室伏のフライトから始まっていた。
この後、エアロバティックのデモ飛行が行われ、そしてチャレンジクラスの決勝がある。
準備を終わらせたサクラは、仲間たちとモニターを見ていた。
『……ムロフシも速かったが、ポールは更に早い……』
『……機首を上げて……大きくターン……高く上がります……』
『……いや、これが普通です。 サクラマジックがおかしいんですよ……』
『……そうでした。 ムロフシも同じくらいの高さでした。 同じくらい高く上がりましたが、ポールの方が早い……』
『……これは、エンジンがパワーを出しているんですね。 だからGの掛からない下りで加速が良いんです……』
『……ロールして……さあ、ゴールまであと少し……』
「……ふぅ……(……ダメかなぁ……)」
サクラは、溜息を吐いた。
モニターには先に飛んだ室伏の映像がオーバーレイで表示されたいて、はっきり分かるほどポールが引き離して飛んでいた。
口には出さなかったが、その顔には落胆が現れていた。
『……ゴーーーール!……』
『……これは早かった。 タイムは?……』
『……おや? 協議中のランプが点きました……』
『……そうですねぇ……どこが、怪しいんでしょうか?……』
「(……どこが?……見てた限り、おかしなところは無かったけど……でも、これはチャンスかも……)」
そう……もし違反があれば、秒の単位のペナルティーが科されるのだ。
そうすればサクラが思うように、室伏が決勝に上がることになる。
『……っと、タイムが出ました! 52.136! 52.136だ! ペナルティーは無かった……』
「(……ああぁ~……ダメだった……)」
サクラは、ガックリと肩を落とした。
『やられたな……』
森山は、腕を組んだ。
『……流石はポールだ。 先回優勝は伊達じゃない』
『なんか、悔しいですね。 今朝、ポールに会ったときに「表彰台で会おう」って言われたんです。 その通りにしてしまうポールが憎たらしいです』
サクラは、顔を顰めた。
『それだけ自信が有ったんだろうな。 じゃ、こっちも勝って、見返してやろうじゃないか……』
森山は、「ミクシ」に手を掛けた。
『……マールク、出すぞ』
『あ、私も手伝います』
動き出した「ミクシ」に、サクラも慌てて手を掛けた。
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レースコース上空を、真っ赤な「ピッツS2A」がスモークを引いて飛んでいた。
「……大きくループを描いて……さあ、ここでスナップローーール……」
「……アバラッシュですね。 軌跡がハートマークを描くんです……」
エキスパートクラスの準決勝が終わり、今はチャレンジクラスの決勝前のデモフライトが行われていた。
「……降りてきて……再び垂直上昇……」
「……今度はストールターンですが、これは見ものですよ……」
「……と、言いますと? ストールターンは、大概の方がやりますよね?……」
「……そうですね。 普通、ストールターンと言えば……上がって180度横に回って降りてくる、そういう飛び方です……」
「……そうですね。 ターンという位ですから……」
「……ところが、この高槻氏は……180度プラス360度回ってしまうんです。 ラジコンヘリの演技には有るんですが、飛行機でこれをやれる人は少ないですね……」
「……高槻氏はカリフォルニア在住ですが、よく飛行機を持って来てくれましたね……」
「(……うふふ……高槻さんは、スクールの教官だもんね。 大株主の要求には逆らえないよねぇ……)」
「ミクシ」のコックピットの中で、サクラはニッコリした。
「(……「ピッツ」を運ぶ費用は、私が出したんだしね……)」
『ん? 嬉しそうだね……』
すぐ横に立っているメイが、サクラの様子を見た。
『……緊張してないのかな?』
『そうねー ……』
サクラは、首を傾げた。
『……意外と緊張は無いかなぁ。 集中はしてるけど』
『そうか。 それはきっと良い事だろうね』
「……さあ、ターン! Uターンして……直ぐに上を向いて……成功! 成功しました!……」
まっかな「ピッツS2A」は、垂直上昇の頂点で1回転半して、垂直に降下していた。
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黒の地にイエローのラインが入った「エクストラ330LX」のコックピットの中で、ナタリーは目を閉じていた。
『(……右……戻す……左……戻す……)』
ただ目を閉じているのではない。
彼女は頭の中でコースをイメージしていた。
『(……はぁ……勝てない……あのサクラマジックがある限り、ループで引き離されるわ……)』
『あんまり考えるな。 自分のフライトをするんだ……』
悔しそうな様子に、クルーが声をかけた。
『……サクラだってノーミスで飛ぶわけじゃない。 チャンスは、必ずある』
『そうね……』
ナタリーは、目を開けてクルーを見た。
『……悔しいけど、それを待つしかできないわ』
「……きゃーーーー!……」
少し離れたサクラのピットの方から歓声が聞こえてきた。
『サクラが、メイとキスしたのかしら……』
レース前にサクラがキスをするのは、もう誰もが知っている事だった。
『……フィアンセとレースが出来るなんて……羨ましいわね』
『ねたむ必要は無いだろう?……』
クルーは、サクラのピットの方を見た。
『……ナタリーだって、ビジュアルは負けてないんだ。 きっとイイ男が見つかるさ』
『そうやって慰められること、何年かしら?……』
ナタリーは、視線を下げた。
シートベルトに締め付けられた胸が見える。
『……胸の差なの? やっぱり大きい方が良いの?』
『そんな事はないだろう? 聞いた話だと、サクラはあの大きさの所為で苦労してるらしい。 その点、ナタリーは楽だろ……ぅお!』
クルーは、飛んできた拳に声を上げた。
『あんた! それって慰めになってない』
振りぬいた左手を振り上げて、ナタリーは叫んだ。
コックピットでエンジン始動前の点検をするナタリーを、少し離れてクルー達が見ていた。
『おまえ、上手いことナタリーの緊張をほぐしたなぁ』
頬を押さえた男が、隣にいる男に話しかけられた。
『ああ、まあそうだなぁ……お陰で、ちょっと痛いんだが』
男の頬は、真っ赤になっていた。
『あんたが、馬鹿なことを言うからでしょ。……』
反対側にいる女は、呆れた様子で言う。
『……あんな風に言われたら、私だって怒るわよ』
『しかしなぁ……』
男は、女に視線を向けた。
『なによ! どうせ私も大きくないわよ』
『……いや……そうじゃないんだ。 ただ……』
『ただ、何?』
『……せめて拳じゃなくて、平手にしてほしかったなぁ、って。 手を痛めてなければ良いんだけど』
『それは、きっと大丈夫よ。 彼女、空手を習ってるから。 むしろ、よく頬骨が折れずにすんだわね』
『……もう、胸の事をナタリーの前で話すのは止めよう……』
男は「ぶるっ」と震えた。




