東京ラウンド(8)
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
先の方で旋回しているフローリアンを追って、サクラは「ミクシ」を上昇させていた。
午後も遅くなってきて、太陽は西に移動していた。
「(……もしかして、ループの途中で太陽が目に入るかもしれないな……)」
サクラは、右に見えているレースコースを見下ろした。
コースを囲むように沢山のボートが係留されていて、それらが揃って船尾を海岸に向けている。
「(……海風が強くなってる?……)」
砂浜に寄せる波も、先端が白く見えるものがあった。
「(……横風か~……流されないようにしないと……)」
そう……波の先端が風に飛ばされるようになる……うさぎが跳ぶと表現される……のは、10ノット程度の風が吹いている事を表している。
{『フローリアン レースコントロール レースコースクリヤー』}
レシーバーから無線が聞こえた。
{『レースコントロール フローリアン レースコースクリヤー』}
フローリアンは返事をすると同時に、コースに向けて降下していった。
「(……さて、始まった……)」
サクラは、小さくなっていくフローリアンの「エクストラ330LX」を見ながら「ミクシ」を旋回させた。
サクラが旋回しながら見下ろすコースを、「エクストラ330LX」が飛んでいた。
それは機首を上げると、大きくループを描く。
「(……エンジンパワーは出てるね。 オーバーヒートの対処は出来たんだ……)」
高く上がるその様子を見て、サクラはスティックに付けたレバーに触った。
「(……次は、如何に小さく回るかだよね……)」
そう……森山考案のこのレバーが無ければ、サクラも高く上がってタイムをロスすることになる。
「(……サクラマジックか……バレるまでに何回勝てるかな……っと、ゴールした……)」
チェッカーマークのパイロンを通過した「エクストラ330LX」が急上昇してきた。
{『フローリアン レースコントロール 滑走路に戻れ』}
同じ周波数に調整しているため、フローリアンに指示する無線が聞こえてきた。
{『レースコントロール フローリアン 了解 タイムは?』}
{『フローリアン 54、479だ』}
{『レースコントロール ありがとう』}
フローリアンの通信を最後に無線は沈黙した。
「(……54,479かー……まだ少し勝ってた……)」
そう……サクラの1回戦でのタイムは54,421だったのだ。
「(……よし! 気負わずに行こう……)」
{『サクラ レースコントロール レースコースクリヤー』}
コントロールから指示が来た。
{『レースコントロール サクラ レースコースクリヤー スタートします』}
コースを見ながら、サクラはスロットルレバーを引いた。
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「フローリアン選手、54,479秒でゴールしました」
観客席より更に一段高くなった放送席で、日本語のMCを任された工藤はマイクに向かって話していた。
「どうやらエンジンのオーバーヒートは、解決できたようですね……」
横に座る解説者の伊勢が、続けて話し出す。
「……最後までパワーが出ていました」
「そうですね。 それでもサクラ選手の1回戦のタイムより0.05秒程度遅かったですね」
工藤は、手元に用意したメモを見た。
「正確には0.058秒ですね。 視聴者の方は、僅かなタイム差に思うかもしれませんが……これを距離に直すと6メートルくらいになります」
レース中の飛行速度は、だいたい時速360キロぐらいなので換算は容易だ。
「「エクストラ330LX」の胴体の長さが6.9メートルですから、ほとんど胴体分……競馬で言うと1馬身差と言えます」
工藤は、競馬の中継も経験があるのだろうか?
「そうなりますね。 そういう風に見れば、かなりの差と言えると思います」
伊勢は、うんうん頷いた。
「さて……サクラ選手の機体が低空に降りてきました」
モニターを見ずとも、ここ放送席からは良く見えた。
「はい。 もうすぐスタートです……」
伊勢もしっかり見ている。
「……ところで、サクラ選手は機体に愛称をつけているんですよ。 知ってます?」
「いえ、知りません。 愛称ですか?」
工藤は、首を振った。
「ええ愛称です。 「ミクシ」って言うんですよ。 可愛いですよね」
伊勢は、つい頬が緩んだ。
「「ミクシ」ですか? 確かに可愛い愛称ですね……」
工藤も微笑んだ。
「……他に愛称を付けている選手は居るんでしょうか?」
「流石に他にはいませんねぇ。 同じ女性選手のナタリー選手も、付けてなかったですね」
「それは……やっぱりサクラ選手の可愛らしさの現れですかねぇ」
何だか二人が「ほっこり」していると……
「おい! ボンヤリしてると、スタートするぞ!」
後ろの技術スタッフから声が飛んできた。
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「……くっ!……」
チェッカーマークのパイロンが視界の左右に消えたと同時に、サクラはスティックを左に倒し左のペダルを蹴った。
「ミクシ」は、弾かれた様に左に回る。
スティックを倒していた時間は0.2秒ほど……
「……くっ!……くっ!……」
サクラはスティックを戻すと、間髪を入れず引いた。
「(……ぐぅぅ……)」
Gが、サクラをシートに押し付ける。
カウリングの上に見えたいたパイロンが、それの下に隠れた。
「……くっ!……くっ!……」
サクラはスティックを戻すと、すかさず右に倒した。
「ミクシ」は右に回る。
やはりスティックを倒していた時間は、0.2秒程度。
「……くっ!……」
「ミクシ」は水平になった。
さっきのパイロンは右前に見える。
「よし!……くっ!……」
サクラはスティックを右に倒し、右のペダルを蹴った。
「ミクシ」は右にロールする。
そして0.2秒後……
「……くっ!……くっ!……」
サクラは、スティックを戻して引いた。
「(……ぐぅぅぅぅ……)」
Gを耐えながら上を見ると、赤いパイロンが直上を通過した。
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「……さあサクラ選手、縦のターン……ループに向かいます……」
放送席では、変わらず工藤が話していた。
「……今回は、スモークが途切れませんね。 エンジンの調子が良くなったんでしょう……」
伊勢が、隣にいる。
「……そうですね。 1回戦の時は、あそこでスモークが薄くなってましたね……」
工藤は、頷いた。
「……サクラ選手のメカニックをしている森山氏は、エンジンメーカーに居たことがあったそうですから、調整はお手の物でしょう……」
伊勢は、精力的に取材をしていた。
「……今! パイロンを通過して、さあ! ループ……」
二人が見ている前で、「ミクシ」は機首を上げた。
「……低く回ります。 サクラマジック、炸裂!……」
「……ターンが早いですよ。 パイロンを通過するときは、フローリアン選手に0.1秒遅れていましたが、もう追いついてしまいました……」
そう……伊勢の見ているモニターには、サクラの画像にフローリアンの軌跡がオーバーレイで表示されていた。
「……降下しながら、ロール。 引き起こして……今! パイロンを通過……」
「……良いですね。 フローリアン選手より0.1秒早くなりました……」
「……つまり、サクラ選手は縦のターンでフローリアン選手より、0.2秒早いということですね……」
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アルトゥールは、急降下から水平飛行に移行した「ミクシ」を、瞬きも忘れて見つめていた。
『(……あれにサクラが乗っているというのか?……)』
これ程の低空を高速で飛ぶ飛行機を、アルトゥールはこれまで見たことが無かった。
『(……話には聞いていたが……実際に見ると……な、何か体から湧き上がってくる物が有る……)』
いつの間にか、アルトゥールの拳は固く握られていた。
「おねえちゃん、がんばれ!」
横の方から志津子の応援する声が聞こえてきた。
『(……あの幼子は、何を言っているのか分からないが……)』
アルトゥールは、大きく口を開け……
『行けー! サクラ! トバせー!』
湧き上がる感情を爆発させた。
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「……」
スラロームを飛び、離れて行く「ミクシ」を見送って理恵子は、隣にいる孝弘の腕を無言で掴んでいた。
「ん? どうした?……」
孝弘は、妻の顔を見た。
「……顔色が悪いぞ」
「大丈夫かしら……あんなに低く飛ぶなんて……」
理恵子は、「ミクシ」から目を離さない。
「……何かあったら……直ぐに海だわ。 サクラさんとして生き返った吉秋が、今度は本当に行っちゃうんじゃないかしら」
「ばか……そんな事を気にするんじゃない……」
孝弘は、理恵子の肩を抱き寄せた。
「……大丈夫だ。 危険なように見えても、このレースは十分に安全に配慮している。 直ぐに駆けつけるレスキュー隊も居る。 それに……あのツェツィルさんが待機しているそうだ。 彼なら、黄泉の国からでも引き上げてくれるさ」
「そうでしょうか?」
理恵子は、変わらず「ミクシ」を見つめていた。
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正面に二つ並んだパイロンを見て、サクラはスティックに付けたレバーを握った。
プロペラピッチが増え、回転数が下がる。
直後、パイロンは左右に消えた。
「……くっ!……」
サクラはスティックを右に倒し、右のペダルを蹴った。
景色が左に回る。
それも0.2秒……
「……くっ!……くっ!……」
サクラは、スティックを戻して引いた。
「(……ぐぅぅぅぅ……)」
Gを耐えながら、垂直になった海面とそれに浮かんだボートしか見えない上を見つめた。
「(……ぐぅぅぅ……もうちょい……もうちょい……ぐぅぅぅ……)」
180度以上の旋回をするのだ。
Gを耐える時間は3秒以上になる。
「(……ぐぅぅぅ……見えた……)」
やがて頭上から対になったパイロンが、横になって降りてきた。
「(……よし! パワー……)」
サクラは、握っていたレバーを離した。
プロペラピッチが減り、回転数が上がった。
「ミクシ」は加速を始めた。
パイロンが、正面に見えた。
「……くっ!……」
サクラは、スティックを左に倒した。
パイロンが、右に回り垂直に立った。
「……くっ!……」
スティックを中立に戻す。
直後、パイロンは視界から消えた。
「……くっ!……」
サクラはスティックを右に倒し、右のペダルを蹴った。
景色が左に回る。
それも0.2秒……
「……くっ!……くっ!……」
サクラは、スティックを戻して引いた。
見上げる視線の先には、スラロームの3本のパイロンがあり、その後ろに観客でいっぱいの海岸が見えた。
その一番手前のパイロンが、エンジンカウルに消えた瞬間……
「……くっ!……」
サクラは、スティックを左に倒した。
「ミクシ」は左に回り、消えたパイロンが正面やや左に立った。
「……くっ!……」
スティックを中立に戻す。
「ミクシ」は、時速360キロで海岸に向かって飛んでいた。
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青地に紅い桜の花びらが舞っている。
そんなラッピングをされた小型機が、上部を赤く塗られたパイロンを……主翼が垂直になるほど傾いて回っていた。
「……2回目のスラロームを通過したサクラ選手、ここで大きくパイロンを回りこみます……」
工藤は、「ミクシ」を見つめていた。
つい力が入ってしまうのを、なんとか宥めて普段通りの声が出た。
「……ここは……何と言うか、コースを難しくしている所ですね……」
伊勢は、落ち着いているようだ。
「……と、言いますと?……」
工藤は、感心して相槌を打った。
「……この後、縦のターン……宙返りが控えているんです。 縦に回りますから、誰もが速度を出しておきたいですよね。 ところが、このターンのせいで速度が落ちるんです。 如何にエンジンパワーを出すか? メカニックの腕の見せ所ですね……」
「……さあ、サクラ選手が、こちらに帰ってきました……」
一旦沖合に向けて飛んでいった「ミクシ」が、パイロンを回って海岸に向かってきた。
「……ここで左旋回……パイロンの間を通ります……」
「……フローリアン選手と同じくらいのタイムで通過しました……」
そう……1度目のループで0.1秒勝っていたサクラだが、少しづつ遅れていたのだ。
「……それなら大丈夫ですね。 確か縦のターンは、サクラ選手が0.2秒早かったはずです……」
工藤の見つめる先で「ミクシ」は、宙返りをしていた。
「……そうですね。 おそらく大丈夫でしょう。 今回も「サクラマジック」ですよ……」
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「(……ぐぅぅぅぅ……)」
裏返しになったコックピットで、サクラはシートに押し付けられながら上を見ていた。
上に見える海面から、対になったパイロンが下がっている。
「(……パワー……)」
サクラは、スティックに付けたレバーから手を離した。
「(……もうちょい……)」
「ミクシ」が加速を始めたのを感じながら、それでも……10Gを超えないように加減しながら……スティックを引き続ける。
「(……よし!……)」
パイロンが、エンジンカウルに隠れた。
サクラは、引いていたスティックを戻し、左に押した。
「(……ふぅ……)」
さっきまで耐えていたGから解放されて、サクラは息を吐いた。
海面が右に回りながら近づいてくる。
対になったパイロンがカウリングから現れた。
それが真っすぐに立った時……
「……くっ!……」
サクラはスティックを引いた。
「(……ぐぅぅ……)」
再びGが体をシートに押し付けた。
しかし……それもわずかな時間……
「……くっ……」
サクラはスティックを戻した。
次の瞬間、「ミクシ」はパイロンの間を通り抜けた。
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『……少し右に振って。 さあ、サクラ、ゴールに向かう……』
ゴールのパイロンは、縦のターンの終了地点から右にズレているのだ。
『……これは早い。 フローリアンより0.2秒早い……』
『(……あと少しだ。 サクラ、頑張れ……)』
モニターから流れるMCの声を聴きながら、アルトゥールは「ミクシ」を見つめていた。
そして……
『……ゴーーーール!……』
MCの絶叫と同時に
『…ぅおおおおーーーー!』
立ち上がって叫んだ。
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「……終わったのね」
ゴールのパイロンを通過した後、急上昇していく「ミクシ」を見ながら、理恵子はポツリと零した。
「ああ、ゴールした……」
肩を抱いたままだった孝弘は、腕に力を込めた。
「……まだタイムは分からないが、無事だったことを喜ぼう」
「ええ、無事にゴール出来たんですもの。 嬉しいわ」
理恵子は、緩やかに微笑んだ。
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「……さあ、サクラ選手のタイムは?……」
「(……さっき おおごえでしゃべってたのに へんなの……)」
モニターを見て、志津子は感心していた。
そう……さっきサクラがゴールするときは興奮した様子で叫んでいたのに、いきなり落ち着いた声になったのだ。
「……どうでしょうか? 54.2秒台が出ているんではないでしょうか……」
「……期待できます。 出ました! 54.287! 54.287秒です……」
「……やりました! サクラ選手、フローリアン選手に勝ちました……」
モニターの中では、工藤と伊勢が嬉しそうに話し始めた。
それを聞いて……
「やったーーー! おねえちゃんがかったーーー!」
志津子は、椅子の上で飛び上がった。