東京ラウンド(7)
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{ }で括られたものは無線通信を表します。
「……さあ! 垂直に上昇して……テールスライドーーーー!……」
レースのインターバルに飛んでいるエアロバティック。
それを盛り上げる放送が微かに聞こえる格納庫の中で、サクラはリクライニングさせた椅子の上に居た。
「(……ふぅ……ちょっとアドレナリンが出ちゃったかなぁ……)」
そう……何時になく、サクラは着陸後に体調を崩したのだった。
『落ち着いた?』
メイの声が聞こえた。
『ええ……』
サクラは、パーティションの隙間に視線を向けた。
『……さすがに、もう大丈夫よ』
『それは良かった……』
メイは、サクラの傍に来た。
『……気合が入り過ぎちゃったかな? あんなに脈拍が高くなってるなんて、ビックリしたよ』
「ミクシ」から降りたときに手を取ったメイは、サクラの手首から伝わる脈拍に驚いたのだ。
ここに座って改めて測ると、心拍数は200を超え、血圧も160を超えていた。
そのため少しでもリラックスできるようにと、今はフライトスーツから上半身を出してケブラーのブラも外していた。
『驚かせちゃったね。 もう心拍数も普通になったわ……』
サクラは、メイを見て悪戯っ子の顔をした。
『……メイは? 心拍数上がらない? ほら、ブラなしよ』
『う、うん……少し……』
メイは、視線をずらした。
『……でもほら……スポブラは付けてるんだから、見えてる訳じゃないんだし』
『そうかぁ……メイは直接見たいんだね? 見る?』
サクラは、スポブラの裾を持ち上げた。
『ダメダメ! 今はそんな時じゃないよ』
慌ててメイは、パーティションから飛び出していった。
『メイが走って出てきたけど?……』
入れ替わりに、イロナが入ってきた。
『……体調が、また悪くなったんじゃないわよね?』
『ん? 違うよ。 何か胸が見たそうだったから、見る? って聞いたんだ』
サクラは、スポブラの裾を戻した。
『貴女!……そんなこと、冗談でも言わないの! はしたない』
イロナは目を向いた。
『えぇ~ 谷間を見せてるじゃない、イロナは』
そう……いつものように、イロナは胸の谷間が出るTシャツ姿だった。
『ここは良いのよ。 でも、ここまでよ。 ここから先はベッドの中で、なの』
イロナは、胸を張った。
『何か理不尽だ』
サクラは、大きく張り出したイロナの胸を見た。
『貴女、まだメイをベッドに誘ってないでしょ?……』
イロナは、微笑んだ。
『……一度一緒のベッドで寝て見なさいよ。 変な事考えなくなるわよ』
『変な事って……』
サクラの頬がピンクに染まった。
『あらぁ? 何か想像した?』
『言いたくない!』
サクラは、イロナから顔を背けて目を閉じた。
『……ムロフシ、ゴーーーール!……』
『……いやー、早かった……』
『……さあ、タイムは? 52.362! 52.362だ!……』
『……これは意外だ。 速かったと思ったら、ハンネスに0.14秒届いてない……』
いつものように点けっぱなしのモニターから、放送が聞こえていた。
『……これでムロフシは、4位以下が確定した……』
『……そうですね。 まだ全員飛んでいませんが、ムロフシよりタイムの良い選手が3人いる訳ですから……』
『……予選ですから、これが東京ラウンドの成績になる訳では無い。 そうは言っても、この予選タイムが良いほど明日のフライトで有利な訳ですね……』
『……そうです。 それを考えると、もう少しタイムを縮めたかったでしょう……』
「(……室伏さんは、中段からの決勝になるかな?……)」
エンジンカウルを外された「ミクシ」の横で、サクラはモニターの音声に耳を傾けていた。
その、むき出しになったエンジンの下側に、しばらく前から森山が潜り込んでいる。
「よし、これで大丈夫だろう」
森山が、ウエスで手をふきながら出てきた。
『出来ました? それで? 結局何が悪かったんですか?』
サクラは、森山を迎えた。
『ああ……そうだなぁ……割と難しい事なんだが……』
森山は、暫し言葉を切った。
『……まあ簡単に言うと、スティックに付けたレバーを握るとスモークが薄くなってたんだ』
『へぇー そうだったんですね。 全然気が付かなかった……』
サクラは、ポカンとした。
『……でも、それって何か問題になるんですか?』
『ああ、直接には問題じゃない……』
森山は、頷いた。
『……しかし……毎回同じ事が同じ場所で繰り返されると、「サクラマジック」がバレるかもしれない』
『別にバレても良いんじゃないでしょうか?』
サクラは、首を傾げた。
『不思議は不思議のままが良いだろう? サクラちゃんの神秘性が増すんだから』
森山は、微笑んだ。
『何ですか、それ』
サクラの首は、傾いたままだ。
『ん? 知らないのかな?……』
森山も微笑んだままだ。
『……「妖精の博美」と「天使のサクラ」って』
「な! 何ですか、それ!」
ついハンガリー語を忘れたサクラの悲鳴が格納庫に響いた。
『……マティアス、ゴーーーール!……これでエキスパートクラス全員のフライトが終わった……』
『……そうですね。 今回、全員のタイムが拮抗していますが、マティアスのタイムはどうでしょう……』
プログラムは進み、エキスパートクラスの予選が終わった。
『……今、出ました。 52.357! 52.357だ……』
『……これは、4位ですか? 室伏が 52.362なので……0.05秒差で室伏の上に行きましたね……』
『……接戦ですね。 これで室伏は5位となりました。 明日の第1戦は、10位のマルティンとの対戦になります……』
『……さあ、この後は少しの休憩を挟んで、チャレンジクラスの2回戦ですね……』
『……こちらも接戦が予想されます。 それでは、暫しのお別れです……』
「(……室伏さんは、5位かぁ~……)」
サクラは、沈黙したモニター……過去のレースの映像が流れている……から視線を「ミクシ」に移した。
「(……明日は、1番初めに飛ぶんだよね。 一度応援に行った方がいいかな?……)」
『よし、押せ』
森山とマールク、そしてメイに押されて「ミクシ」は格納庫から出ようとしていた。
『サクラ……』
そこにイロナの声がした。
『……アルトゥール様が来たわ』
『えっ!……』
びっくりしてサクラは振り返った。
『……お父様が、ここに?』
『流石にここまでは入ってこられないわ。 裏の入口の外ね』
イロナは、視線で裏口を示した。
『わかった。 あまり時間は無いけど、会ってくる』
サクラは、駆けだした。
志津子も来ていた通路の先に老紳士が二人、黒服の男たちを引き連れて立っていた。
一人は真っ赤な髪をしていて、もう一人はブロンドを短く刈っている。
『お父様……』
サクラは、それを見て駆け寄った。
『……ようこそいらっしゃいました』
『うむ。 元気そうだな』
アルトゥールは、頷いて両手を広げた。
『はい。 お久しぶりです』
サクラはその中に飛び込むと、アルトゥールの背中に両手を回した。
そのまま頬に頬を当てる。
『ん! 久しぶりだな……』
アルトゥールは、サクラを抱きしめた。
『……こうしてハグするのは、本当に久しぶりだ。 しっかり育ったな』
『お、お父様?……』
サクラは、首をひねってハグを解いた。
『……私は、ずっと変わりませんが? 育った?』
『い、いや……』
アルトゥールは、サクラの固めた胸が当たって痛かった所を摩った。
『…… ツェツィーリア……お前の母親より大きくなったな、っと』
『お父様……』
サクラは、ジト目を向けながら胸を隠した。
『……さいてい』
『ま、まてまて……』
アルトゥールは、高速で首を振った。
『……今のは失言だ。 許せ』
『そうでございますな……』
隣でガスパルが、ポツリと零した。
『……今のは、若い女性に向けて言うことではございません』
『ガスパル。 お前は誰の味方だ?』
アルトゥールは、隣を見た。
『もちろん、アルトゥール様の味方で御座います……』
ガスパルは、慇懃に頭を下げた。
『……しかし……ボケた年寄りの味方は致しません』
『貴様。 ワシがボケておると言うのか?』
『そうでございますなぁ……』
ガスパルは、ゆっくりと首を振った。
『……年相応では、ありますな』
『きさま……』
アルトゥールは、次の言葉が出ない。
『はぁ……お父様……』
そんな二人を見て、サクラは溜息を吐いた。
『……ここにコントをするために、いらっしゃったのですか? そろそろ出番なので戻りますが』
『ま、まて……』
アルトゥールは、慌ててサクラを見た。
『……時間を取らせてすまなかった。 ワシが言いたいのは……』
アルトゥールは、姿勢を正した。
『……事故を起こさず、無事にゴールしろ。 それだけだ』
『わかりました。 必ず無事にゴールします』
サクラは軽く頭を下げると、格納庫に向かって歩き出した。
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サクラが去った通路で、アルトゥールは消えていくサクラの背を見ていた。
『あれは、確かにサクラだ。 ワシの大事な、ツェツィーリアが生んだサクラだ』
『そうでございます。 確かにサクラ様で御座います』
その小さなつぶやきを、ガスパルは聞いていた。
『あれは、本当に吉秋という若造だったのか? あの感触、あの受け答え……』
アルトゥールは、手のひらを見た。
『……どう考えても、娘であるサクラだったぞ』
『いや……アルトゥール様。 やはりその感想は、いかがなものかと……』
ガスパルは、ドアを開けて格納庫に入っていくサクラを見た。
『……特に感触、等は……嫌われても仕方がないかと思われます』
『そうは言ってもな……』
アルトゥールは、外に向かって歩き出した。
『……あの服装は、何だ? これ見よがしに胸を強調して。 親だからこそハグが出来るが、そうでなければ無理だろう?』
『あれは、高Gに対して体を守るためだと聞いております。 性を強調するものではないかと』
ガスパルは、アルトゥールに付いて歩き出した。
『つまり……仕方なく着ているのか?』
まっすぐ前を向いて、アルトゥールは歩いている。
『そうでございます。 最初のうちは、恥ずかしがって隠していたようで御座います』
『そうか……それが、今は平気になったのか。 何かが変わってきたのだな』
『はい。 その辺りは、ツェツィルが何かしているようです』
『ツェツィルか……それなら良いだろう。 ところで、まだフランチェスカに子は出来んのか?』
『フランチェスカ様とツェツィル、お二人の仲は良好で御座いますれば……近いうちには、ご懐妊されるかと』
『そうか』
黒服に囲まれた二人は、ゆっくりと海岸に向かって歩いて行った。
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格納庫の前に出された「ミクシ」のコックピットに収まり、サクラは軽く目をつむっていた。
{『フローリアン レースコントロール エンジン始動』}
ヘルメットのレシーバーから無線が聞こえてきた。
{『レースコントロール フローリアン エンジン始動』}
少し離れたピットに出ている「エクストラ330LX」が、エンジンを始動しした。
「(……よし、次だな……)」
サクラは、目を開けた。
すぐ横にメイの顔がある。
「……んっ……」
いつものように軽く唇を当てると、サクラはキャノピーを閉じた。
それを見ていた様に……
{『サクラ レースコントロール エンジン始動』}
レシーバーから声が聞こえた。
{『レースコントロール サクラ エンジン始動』}
サクラは答えると、キーを捻った。
「ウィ・ウィ・ウィ・ウィウィウィ……ズドドドドドド……」
541.5ci ……約8800cc ……もの排気量を持つライカミング製AEIO-580エンジンは精々700kg程度の「ミクシ」を震わせて始動した。
「(……マグネトーBoth……ミクスチャーFull Rich……)」
揺れるコックピットで、サクラはエンジン始動後の確認をする。
「(……オイルプレッシャーOK……アイドル……)」
オイルも順調に送られているようだ。
サクラは暖気運転のため、スロットルをアイドリングの位置にした。
「ストストストスト……」
低速に下げられたエンジンは、先ほどと変わって静かに回りだした。
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「……さあ、チャレンジクラスの準決勝の開始です……」
志津子の前のモニターから、もはや聞きなれてしまったMCの声がする。
「……ええ、先ずはサクラ選手とフローリアン選手の対戦ですね……」
解説も、いつもの声だ。
「(……このひとたちって、いつやすむのかな?……)」
子供ながらにも志津子は、つい心配してしまう。
それほど二人は、いつも喋っていた。
「……やはりフローリアン選手が上がってきました……」
「……そうですね。 流石に前回の優勝者です。 1回戦ではナタリー選手に敗退してしまいましたが、最速敗者として準決勝に上がってきました……」
「ねえ、おとうさん。 さいそくはいしゃ? って、まけたけどまたとべるんだったよね。 おねえちゃんが、まえにそうだったよね」
志津子は、隣にいる敦を見た。
「そうだよ。 この前は、サクラさんがそれで準決勝に残ったね。 その準決勝でサクラさんはフローリアン選手に負けたんだったね」
敦は、志津子に向かって頷いた。
「えと……こんども、そのふろーりあん、ってひととたたかうの?」
志津子は、首を傾げた。
「そうみたいだね。 今度は勝ってほしいよね」
再び敦は、頷いた。
「ぜったいおねえちゃんが、かつよ。 いっぱいれんしゅうしてたもん」
そう……サクラが高知に帰ってきてから、休みもなく練習していたのを、志津子は知っていた。
『志津子だったか? その幼子は何を言っているのか?』
何故か同じ席に座っているアルトゥールは、後ろに立っている黒服に尋ねた。
『は! サクラ様は、練習をしたので勝つだろう。 そう言っております』
その黒服は……容貌は日本人……小さな声で答えた。
『そうか。 よく分かっておるではないか。 なあ、ガスパル』
アルトゥールは、ニッコリした。
『そうでございますな。 サクラ様は、非常に調子がよろしい様でございます。 私もサクラ様が勝つと予想いたします』
『そうだろう、そうだろう』
アルトゥールは、大きく何度も頷いた。
『ツェツィル、サクラが飛ぶわよ。 準備に抜かりは無いわね』
駐機場になっている大きな駐車場の隅に置かれた救急車……普通の物より大きい……の中に電話が掛かった。
『ああ、大丈夫だイロナ。 いつでも、どんな事態でも対処できる』
『頼むわよ。 いざとなったら貴方だけが頼りなんだから』
『ああ、即死でなければ助けて見せるぜ。 ところで、最近のサクラはどんな様子だ?』
『そうねぇ……私が見るには、かなり女性的になってきたわ。 感性が若い女の子、って感じね。 少し幼いかな』
『よしよし、だいぶ効果が出てきたな』
『ようやく、って感じだけど……こんなに時間が掛かる物なの?』
『そんなに早く効く薬品は、ちょっと危険だからな。 それと、気になる異性……メイだな。 彼が現れた事により、最近は効きが良いようだ』
『大丈夫なんでしょうね?』
『大丈夫だ。 ジルで実証実験はしている。 彼女も今のところ問題ないし、恋もしてるようだしな』
『はぁ……ジャックも災難ね。 まあ、サクラに手を出したのが悪いんだけどね』
『そうだな。 生きてるだけでも良し、と思ってもらわないとな。 もっとも過去を失ったのだから、ジャックは死んだと思っても良いのかもな』
『あはは、そうかもね。 んじゃ、待機お願いね』
『了解。 ネット放送を見てるよ』