東京ラウンド(6)
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
キャノピー越しに見えるエンジンカウル。
その向こう、やや右側に見える高層ビル群が、少し右に傾いて右に動いていく。
今、「ミクシ」はスタートパイロンに向けて、緩やかに左旋回をしていた。
{『スモークオン』}
ヘルメットのレシーバーから無線が聞こえた。
「(……スモークオン……)」
サクラは、心の中で復唱するとスロットルレバーの近くにあるスイッチを入れた。
---------------
『……スモークを出して……サクラ、スタートに向かいます……』
青地にサクラの舞う、そんな格納庫の中でメイたちはモニターを見つめていた。
『……いつもより、スモークが濃い……』
『……そうですね、今日はサクラのスモークが、一番濃いように思えます……』
『……これは、迫力があって良いね。 見栄えがする……』
「(……そりゃ、しっかりオイルを出してるんだよ。 そうすると排気管の温度が下げられるんだ……)」
森山は、聞きながら「ニンマリ」した。
『森山さん、あれの本当の意味を理解してないようですね』
メイは、森山を見た。
『そうだなぁ……本当に分からないのか? あるいは惚けてるのか? それは分からないが……ま、さらにその中の秘密は分からないだろうな』
森山は、頷いた。
『しかし……森山さんは、すごいね。 スモークの出し方で排気効率を上げるなんて』
『ま、使えるものは使おう、って事さ……』
そう……どうせ出さなければならないなら、スモークオイルを勢いよく出して、それに排気ガスを引っ張らせることにしたのだった。
『……ノズルとポンプの開発は大変だったけどな。 だから、やっと今日付けられた』
『これも秘密の一つですね。 サクラにも言ってない』
メイは、ウインクをした。
『ああ、知ってる者は少ないほど漏れないからな。 サクラちゃんには、東京ラウンドが終わってから教えよう』
森山は、再び頷いた。
---------------
少し上に見えるチェックマークに向けて、サクラはスティックを少しだけ引いた。
「ミクシ」は、機首を上げて上昇する。
「(……200、よし!……)」
運動エネルギーが位置エネルギーに変換されたことにより、それまでの速度が下がった。
「(……バンク、OK……高度、OK……方向、OK……)」
スタート時は、速度200ノット以下で完全な水平飛行でなければならない。
サクラは、素早く周囲を見て水平を確認した。
左手で持つスロットルレバーを一番前まで進め、そのままスティックを持つ右手の下を握る。
次の瞬間、チェックマークのパイロンが視界の左右に消えた。
「……くっ!……」
サクラは、スティックを左に倒し左のペダルを蹴った。
前方に見えるビル群が、弾かれた様に右に回った。
「……くっ……」
時間にして僅か0.2秒少々、サクラはスティックを戻すと……
「……くっ!……」
引いた。
「(……ぐぅぅぅ……)」
途端にGがサクラを襲う。
一瞬のち……横になって見えるパイロンがエンジンカウルに隠れた。
「……くっ……」
スティックを戻し、すぐに右に倒す。
「ミクシ」が水平飛行に入った時、さっきのパイロンは機首のやや右側に立っていた。
それを確かめた直後……
「……くっ!……」
サクラは、スティックを右に倒し右のペダルを蹴った。
さっきのビル群は消えていて、遠景の山が左に回った。
「……くっ……」
スティックを倒していた時間は、さっきと同じで0.2秒少々。
サクラはスティックを戻し……
「……くっ!……」
引いた。
「(……ぐぅぅぅ……)」
たちまち立ち上がるGによりシートに押し付けられながら、サクラは首を上げて上を見た。
そこには、すぐ傍にパイロンがあった。
「(……よし……)」
それを確かめると、サクラは前を見た。
縦になった海岸が、上から下へと流れている。
スティックを引いて1.5秒少々……
「……くっ!……」
サクラはスティックを戻し、左に倒した。
縦だった海岸が水平になり、再びビル群が見えた。
そして、やや左に並んだパイロンが見えた。
「(……よし……ここだ……)」
サクラは、左手でスティックに付けたレバーを握った。
---------------
「……第1パイロンを回って……サクラ選手、縦のターンに向かいます……」
スタンドで見ている志津子の前にあるモニターから、日本語の放送が聞こえていた。
「……まだ始まったばかりですが、いい調子で飛んでますよ……」
「……縦のターン、サクラマジックが見られるでしょうか?……」
「……もちろん、見られるでしょうね。 っと? 今スモークが一瞬だけ薄くなりました……」
そう……真っ白に残っているスモークが、一部薄くなっていた。
「……エンジンが、息を吐いたのでしょうか? 不調でなければいいのですが……」
「……さあ、どうでしょう?……少し心配ですが……」
「……左旋回をして……パイロンを通過……さあ、ループ!……」
「……良いですね。 いつものように低くターンしています……これがサクラマジックです……」
「……10Gを保ってます……」
---------------
Gによりシートに押し付けられながら、サクラは限界まで上を見ていた。
上にある海から、対になったパイロンが下がっているのが見え、それが降りてくるとカウリングの向こうに消えていく。
「(……よし……)」
サクラは、引いていたスティックを戻した。
Gが抜けて、肩バンドに体重が掛かる。
「……くっ……」
サクラは、スティックを左に倒した。
正面に見える海面が右に回り、さっき消えたパイロンが横になってカウルの上に見えてきた。
そのパイロンが垂直になったとき、スティックを中立位置に戻す。
「ミクシ」はロールを止めた。
さっきから降下姿勢になっているため、海面が見る見るうちに近づいてくる。
「……くっ……」
サクラは、スティックを引いた。
「ミクシ」は機首を上げ、水平飛行に移った。
直後、対になったパイロンが左右に飛び去った。
---------------
「すごい! おねえちゃん、はやい! カッコイイ!」
志津子の目の前にある……スタンドからの距離が一番近くなる……3本のパイロン。
それの間を「右」「左」「右」と素早く機体を傾け、「ミクシ」がすり抜けて行った。
---------------
スラロームを抜けた「ミクシ」の前方には、海原の遠くに低い山が見えていた。
しかしサクラは、そんなものに目もくれず……
「(……もう少し……もう少し……)」
左前に見える、次に通過するパイロンを見ながら、ターンするタイミングを計っていた。
スラロームと違って、パイロンを通過するときは機体を水平にしなければならない。
そのため、わりと離れた場所でターンする必要があった。
「(……よし!……)……くっ!……」
サクラは、スティックを左に倒し左のペダルを蹴った。
景色が右に回り、左前にあったパイロンが上に移動する。
「……くっ!……くっ!……」
サクラはスティックを中立に戻し、すかさず引いた。
「(……ぐぅぅぅ……)」
Gに耐えるサクラの前に、横倒しになったパイロンが降りてくる。
「……くっ!……」
サクラは、スティックを右に倒した。
倒れたパイロンが起き上がる。
「……くっ……」
サクラはスティックを中立に戻した。
直後、パイロンが視界の左右に消えた。
「……くっ!……」
すぐにサクラは、スティックを左に倒し左のペダルを蹴った。
再び景色が右に回り、次に通過するパイロンが上に見えた。
「……くっ!……くっ!……」
スティックを中立に戻し、すかさず引く。
「(……ぐぅぅぅ……)」
横になったパイロンが降りて来た。
「(……もう少し……)」
体幹に力を込めてGに耐えながら、サクラは「ミクシ」を水平にするタイミングを待った。
「(……よし……ここだ……)」
パイロンがカウルに隠れた。
「……くっ!……」
サクラは、スティックを右に倒した。
「ミクシ」は右に回り、さっき隠れたパイロンがカウルから出てきた。
「(……よし……パワーダウン……)」
サクラは、左手でスティックに付けたレバーを握った。
---------------
『……サクラ、横のターンに入ります……』
変わらずに、メイと森山はモニターを見ていた。
『……ここまで、サクラはミカエルより0.6秒早い……」
『……何もなければ、サクラの勝利は揺るがないでしょう……おや?……今、スモークが途切れたようですか?……』
『……ええ、一瞬ですが途切れましたね。 証拠に少しだけスモークが薄くなってます……』
『……さっきのループ前も途切れましたね。 エンジンの不調か?……』
「(……しまったな。 スモークを濃くした所為で、パワーダウンのタイミングが見えてしまってる……)」
森山は、顔を顰めた。
『森山さん。 これって大丈夫かな?……』
メイは、森山を見た。
『……何度も繰り返していたら、サクラマジックの種がバレるんじゃないかな?』
『いや……別にバレたって問題は無いんだが……』
森山は、腕を組んだ。
『……真似しようとしても、すぐに出来る事じゃない。 それでも……バレるのは、遅い方が良い。 ちょっと細工しよう』
『何か思いついた?』
『ああ。 タイミングを合わせてスモークオイルの吐出量を増やそう……』
森山は、腕を解いて「くるり」と回り後ろを向いた。
『……帰ってきたら、直ぐに取り掛かる』
『森山さんは、サクラが勝てると?』
メイは、森山を目で追った。
『当然だろ?』
森山は、親指を立てた。
---------------
右に海面、左に空を見ながら……左の人差し指は、スティックに付けたレバーを引いたまま……サクラはスティックを引いていた。
「(……ぐぅぅぅ……見えた……)」
Gに耐えながら上を向いたサクラの視界に、海から突き出したパイロンが降りてきた。
「(……もうちょっと……もうちょっと……よし!……)」
パイロンが正面に来た時……
「……くっ!……」
サクラはスティックを左に倒し、海と空が右に回った。
スティックを倒していた時間は、僅か0.2秒少々……
対になったパイロンは、目の前で垂直に立っていた。
「(……よし!……)」
サクラは、スティックに付けたレバーを離した。
プロペラピッチが減り、ライカミングAEIO-580が本来の……森山のチューンした……パワーを発揮した。
加速した「ミクシ」は、パイロンの間を通り抜けた。
---------------
「かえってきた……」
志津子の正面にある3本のパイロンに、サクラの「ミクシ」が左側からやって来た。
「……すごい! はやい!……」
志津子の見ている前で、「ミクシ」は真横に傾きパイロンを躱すと、次の瞬間反対側に横転する。
「……はやすぎて、おねえちゃんみえない!……」
「ミクシ」の上側、キャノピーは見えたが……さすがにその中までは見えなかった。
2本目のパイロンの向こう側を通り、「ミクシ」は再び180度ロールする。
「……いっちゃった」
3本目のパイロンを回り、「ミクシ」は離れて行った。
---------------
『……さあサクラ、縦のターン……ループを終わって、ロール……』
モニターの中で、MCが話している。
『……早いですよ。 ミカエルより0.7秒速く飛んでます……』
『……先ほど、ループ前にもエンジンが息を吐いたようですが、どうやら最後まで飛べそうです……』
『……それですが……ひょっとして、あれは故意じゃないでしょうか?……』
『……故意?……それはどういう事でしょう?……』
『……不調ならば、どこで息を吐いてもいい訳ですが……見ている限り、ターンの前でのみ息を吐いています……』
『……規則性があると?……』
『……そうです。 その意味までは分かりませんが……』
『……っと、話している間に、サクラゴーーーール!……』
モニターに写っている「ミクシ」は、急上昇していった。
『……タイムは54.421ですね。 ミカエルより0.8秒早い……』
『……公式練習からサクラは絶好調ですね。 それに対して、ミカエルはエンジンの調子が出ませんでした……』
『……やはり、この湿度と温度ですね。 ここ日本はヨーロッパとは違って、どちらも高いですから……』
『(……どうやら、うやむやになったけど……次はバレそうだ。 森山さん、上手くやってくれよ……)』
メイは、工作台で作業する森山を見た。
成田空港……
『ええい! 入国審査に、何故これ程行列が出来ておるのか?』
赤毛の初老の紳士……アルトゥールは、並んだ行列を見た。
『日本は観光客に人気で御座いますれば、仕方がないことかと。 今、ここの担当の者に連絡をしましたので、もう少しお待ちを』
『速く出来んか? サクラの飛ぶ姿が見れないではないか』
『これ程の混雑を予測できなかったこと、私の失態で御座います。 何卒現場の者に処罰を与えませんように、お願いいたします』
『分かっておる。 わしも昔のように癇癪など起こさんわ……』
アルトゥールは、ガスパルを見た。
『……ん? 何を話しておる?』
『失礼いたしました。 サクラ様、1回戦を勝ち上がられました。 2回戦は、3時間後で御座います』
『おお! そうか……』
アルトゥールの顔に喜色が現れた。
『……い、いや……分かっておったぞ。 サクラが、あんなフランス人などに負けるはずがない』
『さようでございます』
『アルトゥール様。 準備が出来ました……』
空港の制服を着た男が現れた。
『……此方を通って頂けますでしょうか』
『うむ、ご苦労』
一瞬で顔を引き締めたアルトゥールは、重々しく頷いた。