東京ラウンド(2)
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
「おかあさん、ぜったいにビデオとっててよ」
紅いランドセルを背負った志津子は、玄関のドアを開けながら由香子に何度目かの声をかけた。
「はいはい、分かってるわよ。 サクラさんが飛ぶところを録画しとけばいいんでしょ。 気をつけていってらっしゃい」
うんざりした様に由香子は答えた。
レースが日本で開催されているため、昼間学校に行っている志津子はライブ放送を見ることが出来ないのだ。
また、サクラの運営するネット放送は、デジタルでコピーできないようになっている。
そのため学校から帰って見られるように、敦がアナログでシステムを組んでくれたのだが、電源の関係からタイマー録画ができないのだった。
結果、家にいる由香子が手動で録画ボタンを押すことになってしまっていた。
「(……はぁ……こんな事なら、海外でレースしてくれた方が良かったわ……)」
志津子は閉まったドアを見ながら、心の中で溜息を吐いた。
そう……志津子はサクラが帰って来て喜んでいたが、まさかレースがライブで見れないなんていう落とし穴があったのだ。
「(……決勝の日は見に行かなきゃいけないなんて……敦さんは、なんて約束をするのかしら……)」
しかも、何を考えたのか……敦が志津子と約束をしてしまっていた。
「(……飛行機代って高いのよねぇ……)」
家計を預かる者として、由香子には頭の痛い事だった。
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「……昨日までのダイジェストをお送りしました……」
コースを見渡せる仮設スタンド上部に作られた放送ブースで、MCを任されたアナウンサーがコースを作る様子や機体の搬入風景のビデオが終わって話し出した。
「……こうして見返すと順調に進んだようですが、実はかなりレース実現に苦労があったんですよね?」
「ええ、そうですね……」
横に座った解説者が、それに答えた。
「……本当は、5月最終週に開かれる予定だったのが、1週間遅れたのがそれを表しています」
「そうなんですよね。 その辺の事を取材していますので、ビデオで振り返ってみましょう」
MCの合図で、ビデオが回り始めた。
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格納庫から引き出された「ミクシ」のコックピットの中で、サクラは計器盤に張られたコース図を見ていた。
{『ハンネス レースコントロール レースコースクリヤ』}
膝に乗せたヘルメットのレシーバーから時々管制の声が聞こえる。
『そろそろかな?』
開いたキャノピーの外からメイの声がした。
『ん。 あと3人かな?』
サクラは、顔を上げてメイを見た。
『今ハンネスがコースインしたから……』
メイは、手元のメモに視線を落とした。
『……待機が一人、離陸に向かってるのが一人……あと二人で離陸許可じゃないかな』
『んじゃ……一人10分だから、20分か……』
そう……今日はフリー飛行なので、一人10分の時間が与えられているのだ。
サクラは、今まさにエンジンカウルを取り付けている森山を見た。
『……もう終わる? 森山さん』
『ああ、後はファスナーを閉じればいい……』
金具を倒しながら、森山は答えた。
『……これで良し。 イレム、テープを張ってくれ』
『了解』
森山と交代でステップに上がると、イレムはポケットから青い粘着テープを取り出した。
それをエンジンカウルの継ぎ目と留め金の上に張っていく。
『しっかり張れよ。 飛んでるときに剥がれたら大変だからな』
下から見上げながら森山が言う。
これは何のためか?
つまり……継ぎ目や金具で出来る凸凹を無くして空気抵抗を減らすためだった。
『森山さん、それって効果あるの?』
二人のやり取りを見て、サクラは尋ねた。
『さあなー……』
森山は、首を傾げた。
『……ま、気休めかもな。 それでも、しないよりはした方が良いだろ? 例え百分の一秒の効果でも良いじゃないか。 それが勝敗を決めるかもしれないんだから』
『そう言われるとそうね……』
サクラは、メイを見た。
『……本当のところは? どれだけ早くなるの?』
『ゴメン。 流石にそれは分からないよ。 それでもやれるだけの事はやった方が良いだろうね。 後から悔やまないためにも』
メイは、ゆっくり首を振った。
『そうね。 それじゃ、私は私なりにやれることをするわね』
サクラは、ヘルメットを持ち上げた。
ハンネスの駆るシルバーの「エッジ540V3」が着陸した。
{『サクラ レースコントロール 離陸位置までタキシー』}
エンジンを回しながら待機していたサクラは、車止めのロープを握っている森山に頷いた。
すかさず車止めを引きずって、森山が離れていく。
{『レースコントロール サクラ タキシー』}
サクラは、スロットルレバーを少し前に倒した。
「ミクシ」は、スルスルと走り始めた。
12と大きく描かれた臨時滑走路に「ミクシ」を止めたサクラは、サンターラインの延長線上を見た。
そこには、まるで「通せん坊」をするようにタワーマンションが建っている。
「(……あるよねー……)」
それこそが、ここを使うための障害だった。
「(……ま、どって事は無いんだけどね。 飛ばない人が見たら、そりゃ気になるよね……)」
しかし、そんなものはサクラ達レースに出場するパイロットにとって、何の障害にもならなかった。
{『サクラ レースコントロール テイクオフに障害なし』}
イヤホンに連絡が入った。
サクラは、素早く周囲の安全を確認し……
{『レースコントロール サクラ テイクオフ』}
スロットルレバーを前に進めた。
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「……チャレンジクラス2番手のサクラ選手が離陸するようです……」
放送席前に備えられたモニターに、青地にサクラの花びらが舞っている、そんなラッピングを施した「エクストラ330LX」が写っていた。
「……そうですね。 今日はくじ引きで2番を引いたんですよね……」
解説者もモニターに視線を向けた。
「……どうですか? この2番目に飛ぶ、というのは……」
モニターから目を離さず、MCのアナウンサーが尋ねた。
「……特には、何もないでしょう。 エキスパートも飛んでるわけですから……サクラ選手は、2番目なんて思ってないでしょうね……」
「……そういうものですか。 サクラ選手、今離陸しました。 少し右に機首を向けて……タワーマンションを交わして上昇しています……」
カメラは「ミクシ」の動きをしっかりと捉えていた。
「……選手の皆さん、簡単に離陸していきますね。 さすがです……」
解説者は、モニターを見ながら頷いた。
「……簡単に見えますが、あのマンションは邪魔じゃないんでしょうか?……」
「……大したことはないでしょう。 乗っているのはレーサーですから、離陸直後に簡単なマニューバだって出来ますよ。 マンションを避けるなんて「御茶の子さいさい」でしょうね……」
「……そうですか。 さあ、サクラ選手の機体が放送席からも見えるようになりました……」
アナウンサーは、空を見上げた。
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「(……ふぅ……やれやれ、どうやら間に合ったわ……)」
ビデオの録画ボタンから指を離し、由香子はソファに凭れた。
「(……主婦って、意外と仕事があるのよねー……)」
テーブルの上には、紅茶の入ったカップが置かれている。
「(……ま、今は休憩としましょ……)」
由香子は、カップに手を伸ばした。
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サクラは、待機場所で旋回しながらレース会場を見ていた。
埋立地に作られた人工ビーチから少し離して、14本のパイロンが立てられている。
「(……あっちから入って……あいつを回って、あそこからループ……あのビーチに近い3本でスラローム……)」
コース図や模型では何度も確認したコースだが、今日初めて空の上から見られたのだ。
「(……あいつらを回って、反対からスラローム……わざわざあいつを回って、最初と同じにループ……後は飛びぬけるだけ……)」
やはり実際に見ると、フライトラインが見えてくる。
「(……ん! 大丈夫……上手く飛べそうだ……)」
サクラは、空の上で気合を入れた。
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「……さあ、サクラ選手がコースに入ります……」
「ミクシ」が、コースから離れた場所で降下を始めた。
「……あまり速度は出していませんね。 今日1回目なので、先ずは様子見でしょうか……」
そう……フリー飛行は、午前と午後に1回ずつ飛べるのだ。
「……サクラ選手は、先回のカンヌでもそうでしたね。 こういうのは、それぞれの選手の考え方でしょうか……」
「ミクシ」は、スタートパイロンに向かって飛んでいる。
「……考え方、というか……性格ではないでしょうか?……」
「……性格ですか。 ということは……サクラ選手は、例えば「堅実」とか?……」
「……どうでしょうかね。 ま、あまり知らない個人の方を、あれこれ言うのはやめましょう……」
「……そうですね。 サクラ選手、今スタートです!……」
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チェッカーマークの付いた二つのパイロンが、左右に視界から消えた。
「(……くっ!……)」
サクラはスティックを左に倒し、同時に左のペダルを踏んだ。
景色が右に回る。
「(……くっ……)」
水平線が垂直になる寸前、サクラはスティックをニュートラルに戻し、直後引いた。
「(……ぐぅぅぅぅぅ……)」
Gに耐えながら見上げる頭上には、次のパイロンが見えた。
それが降りてくる。
「(……くっ!……)」
パイロンがエンジンカウルに隠れた時、サクラはスティックを右に倒した。
景色が左に回る。
さっきのパイロンが、再びエンジンカウルの上に見えた。
「(……ん? 少し伸ばすかな?……)」
直ぐにスティックを引くと、パイロンの手前で旋回してしまいそうだ。
サクラは少し直線を入れるため……バンクした「ミクシ」のつり合いを取るため……左のペダルを踏んだ。
「ミクシ」は、右に傾いたまま真っすぐに飛ぶ。
パイロンが、頭上に迫ってきた。
「(……よし!……くっ!……)」
タイミングを見計らって、サクラはスティックを引いた。
「(……ぐぅぅぅぅぅ……)」
たちまち立ち上がるGに、サクラは体に力を込めて耐える。
「(……よし、このまま……)」
見上げると、パイロンが頭上に止まっている。
これは……つまりパイロンを中心に旋回しているという事だ。
しかし、それを確かめたのも一瞬……
「(……くっ!……)」
サクラは、スティックを左に倒した。
「ミクシ」は、水平飛行を始めた。
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「……ぉおっと!……サクラ選手、タイミングが合わなかったか?……」
直線を入れたことは、放送席に居ても……違和感として分かったようだ。
「……そのようですね。 スタート時の速度を押さえていた所為でしょう。 切り返しが早すぎたようです……」
そう……サクラは、スタートを遅めで切っていた。
「……ですよね。 何か無駄に直線で飛びました……」
「……まあ、今は練習ですから。 次からはタイミングを合わせてくるでしょうね……」
「……さあ、左に旋回して……縦のターン……今!……」
並んだパイロンの間を抜けて、「エクストラ330LX」は機首を上げた。
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「(……ぐぅぅぅぅぅ……)」
空に駆けあがる「ミクシ」の中で、サクラはスティックを引いていた。
「(……まだ……まだ……もう少し……」
限界まで上を向いた視界の中に、水平線が見えてくる。
「(……良いかな……よし! パワー!……)」
サクラは、スティックに付けたレバーから指を離した。
プロペラの回転数が上がり、パワーを得た「ミクシ」は上昇中にもかかわらず僅かに加速したようだった。
「(……ぐっ!ぅぅぅぅぅ……負けるな!……引け!……)」
心にムチ打ち、サクラはスティックを引き続ける。
水平線はゆっくりと降りてきて、やがて並んだパイロンが正面に見えてきた。
コースに乗っている。
「(……よし!……ロール……)」
サクラは一旦スティックを中立に戻し、そこから左に……加減して……倒した。
パイロンと水平線が右に回る。
「(……よし……)」
「ミクシ」は、並んだパイロンの少し手前に向けて急降下していた。
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「……低くターンをして、これからスラロームです……」
「……いやー カンヌラウンドからですか? サクラ選手の縦のターンは、低いですね……」
「……そうですね。 今回は、一段と低くなっている様に見えます……」
「……これは有利ですよね。 で、ですね……そのことに関してサクラ選手陣営に質問したんですが……皆さん、口が堅いですね……」
「……つまり、誰も教えてくれなかったと?……」
「……そういうことです……」
「……そうなると謎が深まりますね。 さあ、スラロームです……」
「……あ、上手い!……」
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「ミクシ」は、滑らかに、リズミカルに3本のパイロンを交わしていった。
3本のパイロンが目の前に立っている、人工ビーチの中央。
まだレース本番でないのに、会場に来ているファンがいた。
「……やっぱり、今日は皆早く飛ばないなぁ……」
「……そりゃ、しかたがないだろ? いくら何でも初めて飛ぶコースだぜ……」
「……でもよ。 お陰で狙いやすいぜ……」
言った男は、巨大な望遠レンズの付いたカメラを持っている。
「……ん? 何かいい写真が撮れたか?……」
「……おお。 最高なのが撮れた。 サクラのアップだ……」
「……見せろ。 お願いだ、見せてくれ……」
「……ああ、いいぜ……」
男は、カメラを操作して背面のモニターを見せた。
「……すごい! バッチリ正面から撮れてるじゃないか……」
「……だろ。 これなんかも良い写真だと思うぜ……」
男は、次々と写真を表示した。
「……良いな~……」
「……いいだろ? この前のカンヌで映ったときから、俺も撮ってみたかったんだ……」
そういう男のカメラのモニターに映っているのは……引いたスティックがサクラの突き出した胸の下に隠れている……パイロンを回る「ミクシ」を真上から写したものだった。