HIROMI
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
宮殿から数キロ南に大きな空き地がある。
知識のない者が見れば、ただの草原であるが、ここがヴェレシュ家の所有する空港「ゲデレー空港」なのだ。
普段は軽飛行機が数機置いてあるだけの人気のない場所だが、一週間前からお祭りのような賑わいになっていた。
「(……い、意外に盛況なんだな……)」
小さな林に挟まれた細い道……車のすれ違いは出来無いだろう……を進むリムジンの後席で、吉秋は何個目かのエアアーチを、窓の外に見た。
日曜日、という事もあるのだろうか……沢山の人が道路を歩いている。
『……ねえ、イロナ。 もしかして 直接 車で 行っちゃ いけないんじゃないかなぁ……』
リムジンが人波を押しのけるように走るのを訝しんで、吉秋は今日の付き添いのイロナ……ニコレットは、何か所用で休みを取っている……に訪ねた。
『ん! 確かに 駐車場は 離れた所に あるけど、これは ヴェレシュ家の リムジンよ。 気にしなくていいわ』
よく見て、とイロナに言われて、吉秋はフロントガラス越しに前を見た。
『……な、何だか……みんな 自分から 避けるようだね……』
そうなのだ。
リムジンが近づいたのに気がついた人は……一度は迷惑そうに見るが……ボンネットに付けた小さな旗を見ると、すかさず道を開けている。
『ヴェレシュ家 あっての この町よ。 みんな 知ってるわ』
イロナは、吉秋に向かってウインクをした。
ジーンズにTシャツ、サングラスを掛けつばの広い帽子を被った吉秋を乗せた車椅子を、イロナが押している。
『……はぁ……やっと解放されたね……』
挨拶ぐらいはしなきゃ、というイロナに連れられ大会本部に顔を出した吉秋は、次々と現れる大会役員に捕まり、なかなか滑走路に……普通の観客は入れない……来れなかったのだ。
『でも そのお陰で……ヴェレシュ家の 力で、中に入れたのよ。 少しは 我慢しなきゃ……』
物珍しげに、イロナがキョロキョロしている。
『……大きいわよね。 模型飛行機、だって言うから……私、せいぜい一メートル ぐらいの物だと 思ってたわ』
『……そうだね。 ここにあるのは 国際規格の 物だから、二メートル あるはずだよ……』
吉秋の車椅子が居るのは石灰でラインの引かれた仮の通路で、片側は滑走路になっていて簡単な柵がしてあり、反対側は駐機場になっている。
今日は大会最終日、決勝が行われる事になっていた。
『選手の皆さん? 小さな飛行機で、何をしてるのかしら?』
『……あれは、決勝の 演技を 覚えてるんだよ。 毎回 違うからね……』
誰も彼もが、手のひらに乗るぐらいの飛行機を顔の前で動かしている。
『あら? 予め覚えておけばいいのに……えっ? 何なの! う、動かなくなった……』
『……えっ? どうしたの、イロナ……』
焦ったようなイロナの声を後ろに聞いた吉秋が、振り返った。
『……回らなくなったのよ 車輪が……』
イロナの言う通り、力任せに押される車椅子の車輪は、刈り込まれた芝生の上に二本の溝を掘っていた。
『……はぁ……ダメね。 困ったわ……』
さすがに力自慢のイロナでも、吉秋を乗せた車椅子を引きずって行くのは大変だ。
しかも困った事に、この滑走路脇に入れたのは吉秋とイロナだけで、運転手はリムジンの所で待機している。
『……とりあえず、運転手に 新しい車椅子を 宮殿から 持ってきてもらうわね』
イロナはポケットからスマホを取り出した。
『さーて どうしましょう……』
運転手に指示を出し、イロナは周りを見た。
今いる所は、競技が始まると飛行機を持った選手や助手が通る場所だ。
確実に邪魔になるだろう。
どうにかして車椅子を退けなければならない。
『……どう しました? 何か お手伝い しましょうか?』
不意に若い女性の片言の英語が聞こえた。
吉秋とイロナが見ると、ショートボブの可愛い娘と長身の男が立っている。
それぞれに胸ゼッケンを付けている所を見ると、選手と助手なのだろう。
『……ひょっとして、HOROMI?』
決勝に出ている女性といえば……読んだ雑誌の記事の情報だが……吉秋はHIROMIしか思いつかない。
『……はい HIROMIです。 あなたは?』
『……やっぱり。 私はサクラ……日本語で話しても良い?』
やはりそうだった、と喜ぶと共に吉秋は、久しぶりに日本語が話せる期待に顔を綻ばせた。
「サクラって言うんだ。 日本人じゃないよね……話せるの?」
真っ赤な髪の毛に高い鼻、サングラスの所為で瞳の色は分からないが、彼女はどう考えても日本人ではないだろう。
それでも博美は、日本語で話してみた。
「……だいじょうぶ。 第二外国語に日本語を専攻してるから。 へ、変じゃないよね……」
「変じゃないよ。 大丈夫、だいじょうぶ。 ちゃんと理解できるよ……」
発音にやや癖はあるが、サクラの日本語は……当然ながら……ネイティブと言ってもかまわないだろう。
「……えっと、それで……どうしたの? こんな所に止まって」
「車椅子が壊れてしまって……イロナだけでは、動かせなくなったんだ」
吉秋は、困り顔を博美に向けた。
「……そうか……ちょっと見せてくれるか……」
博美と一緒に歩いていた男が車椅子の横にしゃがんで車輪を確かめだした。
『あなた! 何をするの!』
主人であるサクラの側に突然現れた男を見て、イロナが大声を上げた。
『イロナ! 彼は 無害だから。 車椅子を 調べてくれる……』
『……そ、そうなの? ならいいけど……』
「……うん? ブレーキが……掛かったままだな……」
主従の騒ぎを無視するように、男は車椅子を調べている。
「……どう? 康熙くん」
「……ちょっと待ってくれよ……ああ、これだ。 ワイヤーが切れてる……」
康熙と呼ばれた男が博美に示した場所には、ほつれたワイヤーが飛び出していた。
『……それは 何のワイヤー?』
イロナも康熙の隣にしゃがみ込んで、飛び出たワイヤーに触る。
『……えと……これは ブレーキを 解放する ワイヤー ……解放 できないから 車輪が 回らない……』
康熙も英語は堪能ではないようだ。
『そう 困ったわね。 ここに居るのは 不味いわよね……』
「……ごめん。 彼女はなんて言った?」
「康熙くんが分からなくて、私が分かる訳ないじゃない」
イロナの言葉は……ハンガリー語なので尚更だが……博美と康熙には、理解できなかったようだ。
「……ここに居るのは 不味いんじゃないかな、って……俺もそう思う……」
そんな二人に、吉秋が通訳する。が……
「……さ、サクラさん。 俺、って言うのは男だから。 女は私、って言うのよ」
ちゃんと通じたのだろうか……博美からは、少しずれた返事が返ってきた。
サクラに肩を貸したイロナ、車椅子を担いだ康煕、そして手ぶらの博美……
4人は駐機場を少し先に向かって歩いていた。
「……もう直ぐだから……サクラさん、大丈夫?」
「……だいじょうぶ。 少しなら歩けるから……」
通路の真ん中に何時までもいるのは不味いだろうと、4人は博美のピットに向かっているのだ。
「……でも、ピットに行って、邪魔にならないかな? 部外者だし……」
「大丈夫だよー 椅子もあるし、休憩してて」
『……妖精ちゃーん お手柔らかに頼むぜ……』
『……ハーーイ……』
時々掛かる呼びかけに、博美は軽く手を振りながら歩いている。
「(……人気があるんだ……やっぱり可愛いからかな……)」
吉秋は隣を歩く、自分より小さな娘を見下ろした。
「此処だよー」
五分ほど歩いた所で……サクラに合わせてゆっくり歩いたのだが……博美が両手を広げた。
そこには、マイクロバスほどもあるワンボックス車から、タープが張られていた。
中央に大きなテーブルが在り、周りに椅子が置いてある。
「……綺麗な飛行機だ……」
そしてテーブルの上のスタンドには、大きな飛行機が裏返しに乗っていた。
「……ん? 誰だ……」
吉秋の声に、その飛行機を覗き込んでいた男が顔を上げた。
「サクラさん、っていうんだよ。 森山さん、何か気になる所があるの?」
「いや、ただの点検さ。 今日も「ミネルバⅡ」は完璧だぜ……」
森山は博美に答えると、外してあったアンダーカバーを付け始めた。
「……んで、加藤君は何を担いできたんだ?」
「これ、サクラさんの車椅子なんですよ……」
康煕は、車椅子を森山に見せた。
「……ここんとこ……ワイヤーが切れてるんですよね」
「……ああ……これじゃブレーキが掛かりっぱなしだな……」
森山は、一目で理解したようだ。
「……それでどうする? 直すか?」
「えっ! 直る?」
それを聞いて、椅子に座っていた吉秋が、声を上げた。
「……おっとー サクラさんだったか? 日本語が分かるんだな。 そうだなー 分解しなくちゃいけないが、修理自体はわけないぜ」
『……サクラ、なんて言ってるの?』
日本語の分からないイロナが、後ろから聞いてきた。
『……この男性が 車椅子の 修理が 出来るって……』
『ほんと!? それじゃお願いしましょ』
吉秋の通訳を聞いて、イロナは顔を輝かせた。
森山は、車椅子を抱えてワンボックス車の裏に回っていった。
それを見送ると、博美は「ミネルバⅡ」をテーブルから下ろし、ガスコンロを出してきた。
「紅茶を淹れるね……」
ペットボトルの水を入れたヤカンを、五徳に乗せる。
「……今日は決勝だよね。 アンノウンを覚えなくて良いのか?」
ここに来る前、ほとんどの出場選手は模型を手にアンノウン……前日の夜にプログラムが作られる……を覚えていたのに、博美はさっきから何もしていない。
吉秋が心配するのも当然だ。
「サクラさんもエアロバティックスするの? アンノウンなんてよく知ってるね」
直前まで演技が決まってない競技など、めったにないだろう。
それを知っている、ということは同じ競技をしている可能性が高い。
「……う、うん 事故に遭う前は 少し練習した……」
もちろん吉秋は、サクラがエアロバティックスを練習していたかどうかは、知らない。
しかし「アンノウン」と口走ってしまった以上、知らないふりをするよりは「少し」知ってる、と言う方が辻褄が合うだろう。
実際、吉秋はエアレースに出場する傍ら、エアロバティックスの競技にも出ていたのだ。
「少し」どころか「可成り」知っている。
「……ラジコンじゃなくて 本物の飛行機だけど……」
「ええー! 凄い。 サクラさん、飛行機に乗れるんだー」
「……うん 一年前にライセンスを取った……」
「良いなー 良かったら乗せて……」
博美は目をキラキラさせて、サクラを覗き込んだ。
「……ごめん 事故の後遺症があって 今は操縦できない……」
「あっ! ご、ごめんなさい。 そうだったのね……それは飛行機での事故?」
「……う~ん……そうだなー 飛行機は関係してるのかな? ……記憶が曖昧で よく分からないんだ……」
無論、吉秋は事故の詳細を知っている。
しかし事故の原因を作った一人であり、尚且つ最終的な被害者であるという今の状況は、説明するのに躊躇させるものがあった。
吉秋の日本語がやや不自由なのは、元のサクラの口周りの筋肉が日本語に最適化されてないからです。
しっかり日本語で会話をしてこなかった吉秋は、今まで気が付きませんでした。