カンヌラウンド(4)
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レースのカーテン越しに朝日の入る食卓には、茶碗に入ったご飯、焼き魚、お椀に入った味噌汁が並んでいた。
「いただきまーす……」
それを前にして、サクラは箸を手に取った。
「……ん! 美味しい。 やっぱり朝は日本食だね」
『大丈夫そうだね……』
向かいに座ったメイは、そんなサクラを見た。
『……ショックを受けたと思っていたよ』
『ん~? 何……』
サクラは、持っていたお椀を置いた。
『……ショックなんて無いわよ。 仕方がないことだから』
『そうかい? 僕は、結構ショックだったけどね……』
メイは、コーヒーカップを持った。
『……あんなに良いタイムを出したのに、直後に逆転されたんだから』
そう……昨日の準決勝で、サクラは59秒892という驚異的なタイムを出したのに……フローリアンは59秒889と、0.003秒上回ってきたのだった。
これは距離にすると、僅か0.3メートルの差しかない。
『そういうこともあるわよ。 大体、私のタイムだけで大喜びする皆がおかしいんだから……』
サクラは、お茶碗を持ち上げた。
『……相手がある競技なのよ』
『そうだね。 それは分かってたつもりだったけど……今回の事でハッキリ理解したよ』
メイは、深く頷いた。
目の前の入り江には、十数本の巨大な柱が立っていた。
それに向かって、シルバーの小型機が低空を高速で飛んできた。
『……サムライ室伏! スタートだ!……』
サクラは、仮設のスタンドに座ってレースを見ていた。
『……うぉーーーーーーー!……』
声援なのか?……ただの叫び声なのか?……そんな周りの老若男女の騒ぎが煩い。
『初めて観客席に来たけど……こんなに皆興奮してるものなの?』
サクラは、隣に座っているイロナの横顔を見た。
そう……決勝に出られなくなったので、サクラは観客の視線でレースを見ようとやって来たのだ。
『知らないわよ、私も初めてだから……』
イロナは、顔を顰めた。
『……ガードを呼んでおいて良かったわ』
『それ言える。 でなかったら、そこらのオッサンに勝手に肩を組まれたりしてたかも』
二人の周囲には、屈強な黒服が座っていた。
『ふぅ……サクラは有名だものね。 ここに来るまでも、何人ものファンが突撃してきたわよ』
イロナは、溜息を吐いた。
『そうだねー ここらの人は、ただサインを要求するだけじゃなくて、「ジュテーム」だもんね。 これって「アイ ラブ ユー」だよね。 ちょっと困るね』
そう……ガードの男たちに阻止されたファンは、サイン帳を差し出しながら「愛してる!」と叫ぶのだ。
『……うぉーーーーーーー!……』
室伏の機体が……飛行コースが観客に最も近いスラロームに入ったとき……周囲の叫び声が一段と大きくなり、二人は話すことを諦めた。
サクラは、格納庫に戻ってきた。
『……ハンネス ゴーーーーーール!……』
今は、みんなと一緒にモニター……ネットに繋いである……を見ている。
『……さあ、タイムは?……』
画面の中で、MCと解説者が話していた。
『どうかなぁ? 室伏さん、負けたかな』
サクラは、隣のメイに話しかけた。
『ん~~……際どいね。 ハンネスにペナルティが無ければ……多分、負けたんじゃないかな』
メイは、画面を見つめたまま首を傾げた。
『……タイムが出た! ペナルティは無い! ハンネスだ! ハンネス、室伏に勝った!……』
『……これで準決勝に進む選手が決まった。 ポール、マット、ニコラス、そしてハンネスだ……』
『負けちゃった。 さっき見てた時は、勝てたのにね』
そう……サクラが見ていた1回戦は、室伏が余裕で勝っていたのだ。
「サクラちゃんが、見てなかったからかもよ……」
森山が振り返った。
「……勝利の女神が、いなかったって事だね」
「それは無いでしょ。 だって、私は負けたんだから……」
サクラは、首を竦めた。
「……自分が勝てない神なんて、誰にも信仰してもらえないわよ」
『二人で何を話してるの?』
メイが、サクラを見てきた。
『大した事じゃないわ。 森山さんが、私の事を女神なんて言うから……』
サクラもメイを見た。
『……だったら、何で負けたのよ、って返したの』
『ん? サクラは、女神だよ。 僕にとってはね』
メイは、サクラの肩を抱いた。
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「……パトルイユ・ド・フランスのアクロバットが終わりました。 これからチャレンジクラスとエキスパートクラスの決勝が行われます……」
プログラムは進み……途中に様々なアトラクションが行われていて、ついさっきフランス空軍のアクロバット飛行チームの飛行があった……レースも最後の対戦を残すだけになった。
「……そうです。 ついに優勝者が決まります……」
「……出場選手は、チャレンジクラスがフローリアンとナタリーで、エキスパートクラスはポールとニコラスです……」
「……ナタリーとニコラスは、ともにフランス出身ですから……盛り上がると思いますよ……」
「……そうですね。 地元で勝利できるでしょうか?……」
「……ニコラスはともかく、ナタリー選手は難しいかもしれません。 フローリアン選手のタイムは、ずば抜けてますから……」
「……そのフローリアン選手に肉薄したのは、我らのサクラ選手でしたね……」
「……そうですね。 準決勝の戦いは見事でした。 僅か千分の3秒差ですから……」
「(……そうだったな。 あと僅かで勝てたのに……)」
日曜日……もうすぐ月曜日になる。
そんな遅い時間に敦は……志津子が隣に居ないにもかかわらず……リビングのテレビをネットに繋いで見ていた。
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『……フローリアン、最後のロール!……』
サクラ達の見ているモニターの中で、フローリアンの駆る「エクストラ330LX」が降下しながらロールを始めた。
『……これは凄い。 最後まで攻めてる!……』
『……準決勝のタイムと遜色ないタイムが出そうだ……』
モニターの右下に表示されているタイムは、まだ1分には余裕がある。
『……フローリアン、ゴーーーーーール!……』
『……タイムは? 59秒962! 速い! ナタリーより0.5秒も速かった!……』
『……フローリアンは、これで1回戦、準決勝、決勝と全てで1分を切ってきました……』
モニターには、コックピットの中でガッツポーズをするフローリアンが映っていた。
『……1回戦と準決勝は、サクラも1分を切っていたんですよね。 特に準決勝は薄氷を踏む様な思いだったでしょう……』
『……そうでしょうね。 そして、そのサクラは、フローリアンの優勝によって3位となりました……』
『……これも凄いことですね。 女性が表彰台に二人も上るんです……』
『……そうです。 レースの歴史で、初の事です……』
『……何か起きそうですね……』
『だって、サクラ。 何か起こす?』
メイがサクラに向かってウインクをした。
『ん? ナタリーと相談してみるね』
サクラは、小悪魔的な笑みを浮かべた。
すべてのプログラムが終わり、静かになったレースコースを背後にしたステージ上に、サクラは居た。
『……チャレンジクラス優勝は、フローリアン!……』
MCのコールに合わせて、ガッツポーズをしたフローリアンがサクラとナタリーの間に上った。
『……うぉーーーーーーー!……』
観客の声援が響く。
その中を、トロフィーを持った女性が進み、それをフローリアンに渡した。
『……うぉーーーーーーー!……』
フローリアンは、それを高々と掲げた。
『さて、それではお待ちかね……』
MCがそう言うと、表彰台の3人に大きな瓶が渡された。
当然フローリアンはトロフィーと交換だ。
『……シャンパンファイトだ!』
空かさずサクラとナタリーは表彰台から飛び降りて瓶を振った。
瓶の口から栓が飛ぶ。
「くらえ!」
『くらえ!』
サクラとナタリーの持つ瓶から、シャンパンがフローリアンに向けて発射された。
『……卑怯だぞ!……』
行動の遅れたフローリアンは、慌てて栓を飛ばした……が
『……いててて……』
シャンパンを目に入れてしまい、彼のシャンパンは明後日の方向に飛んでしまう。
「くたばれ!」
『くたばれ!』
その間にも、二人のシャンパンはフローリアンを濡らし続けた。
『……降参だ!……』
ついにフローリアンは、瓶を掲げた。
「やった!」
『勝ったわ!』
二人はハイタッチをした。
『……エキスパート優勝は、ポーーーール!……』
自分たちの表彰式が終わって、サクラは観客に混じってエキスパートクラスの表彰を見ていた。
『……うぉーーーーーーー!……』
例によって、周りは歓声が凄い。
「ダメでしたね、室伏さん」
隣には室伏も居た。
「ああ、今回は皆早かった」
室伏は頷いた。
「それでも……室伏さんが負けた相手のハンネスさんが3位ですから、もうチョットだったんでしょうね」
「そうかもしれないが……負けは負けさ。 皆の機体は、仕上がってきている。 それなのに俺の機体は……まだ十分じゃない……」
室伏は首を振った。
「……だが、次は東京だ。 地の利はこちらにある。 速めに日本に帰って調整をすることにした。 サクラちゃんはどうする?」
「私もキングシティに寄らずすぐに帰ります。 一度ハンガリーに行ってからですけど」
サクラは前を見たまま答えた。
『……うぉーーーーーーー!……』
ステージの上では、男3人のシャンパンファイトが始まっていた。
格納庫の解体が進み、寂しくなったエプロンのフェンスにもたれて、サクラはボンヤリしていた。
『ハイ! サクラ……』
そこにナタリーが来た。
『……オシュコシュの時みたいに、また黄昏てるの?』
『ハイ ナタリー……』
サクラは、ナタリーに顔を向けた。
『……終わっちゃたね』
『そう、カンヌラウンドはね。 でもレースは続くわ。 まだ2戦だもの……』
ナタリーは、頷いた。
『……次は東京よね』
『そうだけどさぁ……』
サクラは、息を吐いた。
『……噂は聞いた?』
『少しね。 あれって本当の事?……』
ナタリーは、体をサクラに向けた。
『……開催場所で揉めてる、って』
『残念ながら本当よ……』
サクラは、フェンスを握って猫のように背中をそらした。
『……予定してた離着陸場所の近くに高層マンションが建ってたの……』
そう……レースが中断する前まで使っていた離着陸に適した所に、中断している間にタワーマンションが建ってしまっていたのだ。
東京という事もあり、近くに代わる土地は無い。
既存の空港は混んでいて、とてもレース機の離着陸には使えないし、それに開催場所から遠すぎる。
『……東京都は、開催に協力的だけど……航空局が、許可を出さないの。 そんな障害物なんて、私たちなら簡単にかわして離着陸出来るんだけど。 それが役人には理解できないのよね』
『そうなのね。 それでどうするの? メインスポンサー様は』
ナタリーは、サクラの隣でフェンスにもたれた。
『アイデアは色々あるけど、これから実家に帰って相談してくるつもり……』
サクラは、姿勢を戻してナタリーを見た。
『……東京大会は、必ず開催するから。 そこは心配しないで』
『分かったわ。 聞かれたら、皆にも言っておくね。 じゃ、次は東京で会いましょう』
ナタリーは、手を振って歩いて行った。
霞が関の、とあるビルの中……
「仮の場外飛行場に関する許可願いが届きました」
「またレースの事か……何度出されても、答えは変わらないんだけどな」
「今度は東京都からです」
「例え東京都でも、一緒だよ」
「いつまで拒否するつもりですか?」
「時間じゃないよ。 安全! それが一番の問題だろ?」
「その通りですが……」
「一応は、その書類を審査しておくよ。 門前払いはしたくない。 未決済の箱に入れておいて」
「分かりました」