カンヌラウンド(2)
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
フェンスにより観客が近寄れなくなっているエプロンに置かれた「ミクシ」のコックピットで、サクラはメイに手伝ってもらいながらシートベルトを締めていた。
『緊張してるかい?』
メイは、サクラの耳に囁いた。
『チョットね。 ま、これはいつもだから……』
サクラは、微笑んだ。
『……きっと飛べば、そんな事は忘れるわ』
『そうだね。 それがサクラだったね』
メイも微笑んだ。
『何か……それって、私が能天気だって言われてるみたいなんだけど?……』
サクラは、メイの声の聞こえる方を見た。
すぐ近くでメイの顔を覗き込みことになる。
『……ちょ、ちょと……何でそんな近くに居るのよ』
『ん? 勿論、サクラの手伝いのためさ。 それと……』
突然メイがサクラの唇を塞いだ。
『……こうやって、サクラに幸運を与えるためさ』
『ば、ばか!……』
サクラの頬が真っ赤になった。
『……なんてことするのよ。 みんな見てるじゃない。 ヘルメット取って』
『緊張がほぐれただろ? はい、ヘルメット』
メイは、ヘルメットをサクラに渡した。
『別の意味で緊張してるわよ……』
サクラは、ヘルメットを被った。
『……心拍数が上がっちゃたわ。 バイタルデータが異常を出さなきゃ良いけど』
『後でモリヤマさんに消しておいてもらうさ……』
メイが少し離れた。
『……さ、行っておいで。 相手はフローリアンだ。 思いっきりぶっ飛ばさなきゃ、勝てないよ』
『ええ、意地でもGに負けないわ』
サクラは親指を立てると、キャノピーを閉じた。
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「……チャレンジクラス1番手のサクラ選手が、スタート位置に機体を誘導しています……」
今日もリビングのテレビを、志津子は見ていた。
「……ええ、昨日の公式練習で、トラブルのためにタイムが無くなったせいで、結果最下位となってしまいましたね。 救済の再飛行は回避したようですが……今日はどうでしょうか?……」
「……そうですね。 っと……サクラ選手の離陸前の映像が入ってきました……」
画面が切り替わり、「ミクシ」のコックピットに収まるサクラが映った。
「……落ち着いた様子ですね。 隣の男性はどなたでしょうか?……」
「……えっと……どうやら婚約者のメイナード氏の様ですね……」
サクラの耳元にメイが口を寄せる様子が映った。
「……何か伝えてますね。 なかなか仲がいい様子です……」
「……彼は、タクティシャン……戦術担当ですので、飛び方のアドバイスじゃないでしょうか……」
「……そうなんですね。 っと? 今、キスしました?……」
メイが、サクラに顔を近づけるのが映っていた。
「……ですね。 いや……流石にこれは……やはり日本人とは感覚が違うのでしょうね。 ビックリしました……」
「おかあさん! おねえちゃんが、キスしたよ!」
志津子は、大声で由香子を呼んだ。
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実況で恥ずかしい映像が流れている頃、サクラは「ミクシ」の高度を下げていた。
「(……こんなもんかな……)」
パイロンはまだ遠くにあり、その色分けを利用しての高度確認はできない。
精密高度計の数値を見ながら、細かくスティックを押し引きしている。
すぐ下を流れる海面は、あまりの速さに……波打っているのに……まっ平な青い絨毯の様だ。
「(……202……少し早い?……)」
スタート時は、201ノットを超えてはいけない。
サクラは、少しだけスロットルレバーを引いた。
{『サクラ レースコースクリヤ スモークオン』}
レースコントロールからの無線が、イヤホンから聞こえる。
{『了解 スモークオン』}
サクラは、スロットルレバーの近くに付けてあるスモークのスイッチを入れた。
途端に吐き出された真っ白な煙が、後に伸びていく。
「(……200……よし……もうチョット上げて……)」
もう、スタートパイロンは目の前だった。
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「……サクラ選手、今スタートしました……」
「……左手も操縦桿を握りましたね……」
アブダビの時よりカメラが上に取り付けられたようで、顔はよく見えるがスティックはグリップの部分が見えているだけだ。
ただ、サクラが左手をスロットルレバーから離して、スティックの方に動かすのは見えた。
「……チェックのパイロンを通過して、左旋回……」
「……通過姿勢は良いですね。 旋回もキレがいいです……」
「……さあ、スラローム……」
「……良いですね。 良いリズムで旋回しています……」
「(……おねえちゃん がんばれ!……)」
MCと解説者が、何か話しているが……そんな事はよくわからず、志津子は両手を胸の前で握っていた。
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「(……くぅぅぅぅ……)」
スラロームを抜け、サクラは横のターンをしていた。
上を向いた視界に、次通過するパイロンが並んで見える。
それは、段々と正面に降りてくる。
「……くっ!……」
気合と共に、サクラはスティックを右に倒した。
「ミクシ」は弾けたように右に回る。
「(……よし!……)」
機体が水平になった所で、サクラはスティックを戻した。
直後、二つのパイロンが視界の左右に消える。
「……くっ!……」
再び気合と共に……今度は左にスティックを倒し、更に左のラダーペダルを蹴った。
「ミクシ」は左に回る。
「(……よし!……)」
機体が垂直になる寸前、スティックを戻し、直ぐにお腹に付くほど引いた。
頭を上げ、次に通るべきパイロンを見る。
「(……くぅぅぅぅ……)」
Gは掛かるが、ループの時ほど大きくない。
「(……よし!……行けるな……)」
上手く旋回しているのだろう……このままのGでパイロンの近くを通れそうだった。
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「……サクラ選手、可愛い気合と共に左バンク……」
「……今のパイロン通過は、上手ですね。 多分、殆どタイムロスは無いですよ……」
「……そうですね。 今のところ……エキスパートクラスと遜色ないタイムです……」
チャレンジクラスの1番手という事で、画面右下に表示されている参考タイムはエキスパートクラスのものだった。
「……いや……パワーが低くて、更に空気抵抗が大きな機体で、これは凄いことですよ……」
「……サクラ選手、横のターンが終わり……縦のターンの為の右旋回に向かいます……」
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1本だけ立ったパイロンが、サクラの右に消えた。
「(……ここで……)」
サクラは、スティックに付けたレバーを握った。
プロペラのピッチが増え、その不可に負けてエンジンの回転数が下がる。
「……くっ!……」
それを音に聞いて、サクラはスティックを右に倒した。
視界が左に回る。
「……ふっ!……」
機体が真横になる寸前、スティックを戻し、そして引いた。
「(……ぐぅぅ……あそこだ……ぅぅぅ……)」
Gによりシートに押し付けられながら、それでも首に力を入れて上を見る。
そこには、これから通過する……スタート時に通過したパイロンを逆から見ている……並んだパイロンが見えた。
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「……サクラ選手、縦のターンに入りました……」
「……パイロンの通過姿勢も水平でしたね。 これならペナルティは無いでしょう……」
「……さあGは?……」
「……良いですね。 ほぼ10Gをキープしています……」
画面に出ている数値は、9.5~10だった。
「……速度が随分落ちますね。 これは?……パワーが出てない?……」
「……どうでしょう? これまでのタイムから言えば、パワーが無いとは言えないと思いますが……」
画面には速度も表示されていて、それがどんどん下がっている。
「……Gは、変わりませんね。 これは?……」
「……おそらくサクラ選手が、速度に合わせて操縦桿を引いているのでしょう。 Gメーターを見ていると思います……」
「……これは……かなり小さな宙返りになりそうですね……」
そう……オーバーレイでエキスパートクラスの軌跡が表示されているのだが、「ミクシ」はそれに比べて低い高度で向きを変えようとしていた。
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「(……ぐぅぅぅ……見えた……)」
上を向いたサクラの視界に、上からチェックのパイロンが降りてきた。
「(……パワー……)」
サクラは、左手で握っていたレバーを離した。
プロペラピッチが減り、負荷の小さくなったエンジンの回転数が上がった。
「ミクシ」は、減速を止めた。
「(……ぐぅぅ……もう少し……)」
まだループの頂点を過ぎたわけでは無い。
サクラは、Gを保ったまま次に通過するパイロンを見つめていた。
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「……コンパクトにターンして……左ロール……」
「……良い角度でパイロンに向かってますよ……」
「……水平にして……今!……サクラ選手、2週目に入りました……」
「……速度が出てますよ。 スラロームに入る前のターン、膨れなければ良いのですが……」
そう……水平飛行からスタートする1回目と違って、2回目のスラロームは急降下した後に始まるのだ。
「……昨日は、ここで飛行禁止範囲飛行のペナルティ……実際は誤審だった訳ですが、それ程に際どいターンをしたんですね……」
「……そうですね。 速度が速すぎると、同じ10Gでターンしても旋回半径が大きくなってしまいますからね……」
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「……くっ!……」
チェックのパイロンが左右に視界から消えると同時に、サクラはスティックを左に倒した。
正面に見える……観客でいっぱいの海岸が右に回る。
「……くっ!……」
それが垂直になる寸前で、サクラはスティックを戻した。
直ぐにスティックを引く。
「ミクシ」は、左に垂直旋回を始めた。
「(……ぐぅぅ……)」
Gがサクラをシートに押し付ける。
「(……っつ! これ以上引けない……)」
10G以上になると……実際は、少し猶予があるが……失格になってしまう。
訓練により、体に感じる力でGを推し量る事の出来るサクラは、その限界にあるのを感じていた。
「(……ヤバい……次がキツイ……)」
旋回半径の大きくなった「ミクシ」は、スラロームに入る場所を行き過ぎようとしていた。
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「……これは……スラロームが苦しくなりましたね……」
画面の中で「ミクシ」は、大きく膨らんでスラローム最初のパイロンを回っている。
「……そうですね。 かなり大回りのラインになってしまっています……」
「おねえちゃん がんばれ!」
見ている志津子が、つい声を出して応援してしまう。
「……お! 上手く修正しましたね……」
「ミクシ」は2本目のパイロンを通過するときに、ギリギリを通過した。
「……あの状態から、よく修正できましたね。 これならタイムロスも大きくないでしょう……」
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「(……ぐぅぅ……よし!)」
Gに耐えながら、サクラは2本目のパイロンが頭上を過ぎるのを見た。
「……くっ!……」
空かさずスティックを左に倒し、左のペダルを蹴る。
左に見えていた空が回り、右に見え始めた。
エンジンカウルに隠れていた、3本目のパイロンが左上に見える。
「……ふっ!……」
サクラはスティックを戻し、引いた。
「(……くぅぅぅぅ……)」
次は横のターンだ。
比較的大きく旋回するのでGはそれほど大きくならない。
通過すべきパイロンは、左斜め上に見えていた。
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「……横のターンを終え……サクラ選手、縦のターンに向けて右旋回に入ります……」
「……疲れてきてますか? あの漏れる気合の声が、かすれている様に思います……」
「……あれ、何か可愛いですよね。 それに付いて尋ねたことがあるんですけど……あれって、無意識に出てるそうなんです。 可愛いですね、って言ったら、凄く照れてましたね……」
「……彼女、そんな所が日本人的ですね。 生まれは……確かハンガリーだったと思いますが……」
「(……そうだよー おねえちゃんは、かわいいんだよ!……)」
「……さあ、そんな気合と共に……サクラ選手、最後の縦のターン!……」
「……今回も、良い入り方ですね……」
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「(……ぐぅぅぅ……負けるな!……引け!……)」
全身に力を籠め、サクラは自身を励ましていた。
「ミクシ」は、そんな操作に答えてループを上っていく。
「(……ぅぅぅぅぅぅ……見えた!……)」
限界まで上を向いた視界に、上から逆さになったパイロンが降りてきた。
「(……よし!……パワー!……)」
サクラは、左手で握っていたレバーを離した。
プロペラピッチが減り、エンジンの回転数が上がる。
パワーを得た「ミクシ」は、未だ上昇姿勢にも拘らず減速を止めた。
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「……今回も、低い高度でターンをしました……」
「……そうですね。 アブダビの時は、かなり高く上がってしまってましたが……今回のラウンドは、随分と低い高度でターンできてます……」
「……何かが変わったのでしょうか?……」
「……聞いても、教えてもらえませんでした。 ま、そうですよね。 他陣営に知られたら、アドバンテージが無くなるんですから……」
「……さあ、ロールして……ゴールのパイロンまであと僅か……」
「……良いタイムが出そうです……」
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チェックのパイロンが、視界の左右に消える。
「……くっ……」
直後、サクラはスティックを引いた。
目の前は、観客で溢れているビーチだ。
そのために、そこは飛行禁止区域に指定されていた。
「(……ぐぅぅ……)」
レースは終わったというのに、サクラはGを堪える事になった。
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「……サクラ選手、ゴールしました!……垂直上昇でコースから離脱します……」
「……いやー 速かったですね。 ミスと言えるのが、2回目のスラロームの入り方だけじゃないでしょうか……」
「……そうですね。 さあ、どんなタイムが出るか?……」
「……ん? サクラ選手が、バイザーを上げましたね……」
今はコックピット内の映像が画面いっぱいに映されていて、その中でサクラは目を覆うバイザーを持ち上げた。
「おかあさん、おねえちゃんがうつった!」
志津子は、隣で一緒に見ている由香子に抱き着いた。
「そうね。 サクラさんだわ。 元気そうね」
由香子は、志津子の肩を抱いた。
「……いや、美人ですね。 あんなフライトを見せてくれた方が、こんな美人だなんて……これがギャップ萌えって言うんですかね?……」
「……彼女に言わせると、自身の美醜はフライトには関係ないそうですよ。 インタビューを見ていると、容姿の事に話が行く度に素っ気なくなりますからね……」
「……職業も、モデルじゃなくて実業家ですからねぇ……逆に容姿に自信があるのかも……っと、タイムが出ました!……」
「……59秒988!……凄い!……1分を切ってきました……」
「……1分を切った、となると……エキスパートクラスでも真ん中あたりのタイムじゃないでしょうか?……」
「……そうですね。 これは凄いタイムが出ました。 これは、後から飛ぶフローリアンにプレッシャーが掛かりますね……」
「……フローリアンは公式練習で1分003でしたから、これは凄いプレッシャーでしょうね……」
「……さあ、そのフローリアンがスタート位置に向かっています……」
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さしもの「ミクシ」といえども、垂直上昇を続けているうちに段々と速度を落としてきた。
さっきまでの興奮状態から抜け出したサクラは、ゆっくりとスティックを押した。
「(……ふぅ……)」
軽いマイナスGを発生させて、「ミクシ」は水平飛行に移った。
{『サクラ こちらレースコントロール カンヌアプローチに連絡』}
それを待っていたのか? 無線が入った。
{『レースコントロール 了解 ところでタイムは?』}
上手くいった、と思っていても……実際の成績は気になるところだ。
{『サクラ 59秒988 なかなか良いタイムでした』}
{『レースコントロール 了解 ありがとう』}
サクラは、コントロールとの通信を終わらせると……
「(……ぃやったぁーーーー!……)」
スティックから両手を離して「バンザイ」をした。