インフルエンザ
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サクラは、目の前でトレーラーに積まれる「桜吹雪」のコンテナを見ていた。
中には勿論「ミクシ」が分解されて入っていた。
これからカンヌに向けて運ばれるのだ。
「(……はぁ……結局、ドンピシャの設定は出来なかったなぁ……)」
そう……土日の休み以外は毎日テスト飛行をしたのに、中々「ピッタリ」の回転数が見つからなかったのだ。
「(……下げ過ぎると失速するし……下げ足りないと効果が無いし……良い回転数が見つかったと思っても、次の日どころか数時間後にはダメになってるし……)」
「準備できたぜ、サクラちゃん……」
森山が、歩いてきた。
「……ん? まだ悩んでるのか?」
「だって……」
サクラは、森山を見た。
「……せっかく森山さんの装置を付けたのに……使えないなんて」
「いや……別に使えないわけじゃない。 少しは効果があっただろ?」
そう……最終的に取り敢えず、アブダビの時に使った「-50回転」に設定したのだ。
効果は少ないが、それでも一々サクラがピッチレバーを調整しなくても良い。
「そうだけどさぁ……それなら、最初からその回転数で飛べばいいじゃない……」
サクラは、「ぷくっ」と頬を膨らせた。
「……面白くない」
「面白くないって……ま、今回は諦めな。 次回、東京ラウンドでは使いこなせるかもよ」
森山は「ぽんっ」とサクラの肩を叩いて、トラックに向けて歩いて行った。
キングシティで「ミクシ」を見送ってから1週間後、サクラはカンヌ国際空港の隅にある格納庫に居た。
格納庫の中には「ミクシ」がジグに据えられ、主翼を取り付けるのを待っている。
「(……キングシティよりは暖かいけど……それでもチョット寒いね……)」
3月のカンヌは、最高気温が16℃程度と東京よりは少し暖かいのだが……
「(……もう少し着てくれば良かったかな?……あ、来た来た……)」
サクラが肩をさすっていると、森山とマールクが主翼の乗った台車を押して入ってきた。
『ん? どうした? 寒いか?』
森山が、目を細めた。
『ん……ちょっとね。 ま、動けば暖かくなるから』
『俺は寒く感じないんだが?……』
森山は、サクラの前に立った。
『……無礼を承知で言うが……ちょっとオデコを出してくれるか?』
『無礼、って何?』
サクラは首を傾げながら、前に掛かる髪を持ち上げた。
『いや……サクラ様の体に触るのはな……俺たちの等級では、禁止されてるんだ……』
森山は、右手を伸ばした。
『……触っても良いか?』
『別に良いですよ。 って……私って熱があるのかなぁ』
『それを確かめるんだよ……』
森山は、そっとサクラの額に触れた。
『……あぁ、熱い。 こりゃ、ヤバい』
『え? ヤバいって?』
サクラは、ポカンと森山を見た。
『かなり熱があるぜ。 マールク!……』
森山は、振り向いた。
『……すぐにイロナを呼んでくれ』
『分かった!』
マールクは、台車を置いて走り去った。
『あははぁ……そんな……あ……何だか目が回ってきた……』
サクラは、その場に座り込んだ。
「……気持ち悪い」
「今、毛布を持ってきてやる。 横になってろ!」
森山は、「ミクシ」の傍に置いてある……傷がつかないように掛けておく……毛布を取りに走った。
息を切らして、走るように歩いてきたメイは、ホテル最上階のドアをノックした。
『ハイ、早かったわねメイ……』
すぐにドアは開き、イロナが顔を出した。
『……ハンガリーから来るのに、世界記録かしら?』
『悪いけど、今は冗談に付き合ってられないよ。 サクラは?……』
何時になく、メイはイロナにつっけんどんに返し、横をすり抜けた。
『……はぁ……寝てるのか』
そう……部屋の真ん中に置かれたベッドの上に、サクラは居た。
『薬が効いて、少し前に眠ったわ……』
ドアを閉めたイロナが、傍に来た。
『……メイが来るまで起きてようと頑張ってたみたいだけど。 流石に無理だったようね』
『そんな事で頑張らなくてもいいのに……』
メイは、サクラの顔を覗き込んだ。
いつもならメイを見返す、青味がかった灰色の瞳は緩やかに閉じられていて、長い睫毛が影を作っていた。
『……インフルエンザなんだよね? いったい何度位の熱があったのかな?』
『呼ばれて私が行ったときは……39度くらいだったかしら……』
イロナは、宙を見上げた。
『……それから更に上がって……最高は40度くらいになったわね』
『それは高いな……』
何時の間に入ってきたのか?……ツェツィルが居た。
『……ちょっと精密検査が必要だな』
『ツェツィル。 いつの間に?……』
いきなり聞こえた声に、メイは振り返った。
『……それに精密検査って? たかがインフルエンザで?』
『たかが、なんてインフルエンザを馬鹿にしちゃいけない……』
ツェツィルは、サクラの顔を見た。
『……それにサクラは……知ってるよな? サクラは、意識不明の重傷を負ったことが有る。 分かるか? 意識不明って事は、その時に脳がダメージを受けた、って事だ……』
ツェツィルは、視線をサクラからメイに移した。
『……ここは慎重になるべきだ』
『ああ、その事は聞いた……』
メイは、頷いた。
『……分かった。 それで? これからどうする?』
『設備の整った病院に運ぶ。 イロナ?』
ツェツィルは、離れていたイロナを呼んだ。
『ハイ。 高機能救急車を呼んだわ』
イロナは、スマホから顔を上げた。
『流石に早いな。 それでこそヴェレシュだ』
ツェツィルは、満足げに頷いた。
「(……あれ?……知らない天井だ……)」
「ふっ」とサクラは目を覚ました。
「(……どうしたんだっけ?……って、何か体がだるい……)」
体を起こそうとしても、上手く動かない。
「(……はぁ……確か……メイが来るからって、待ってたんだよな……)」
起きるのを諦め、サクラは耳を澄ました。
「(……誰も居ないのかなぁ?……って、ここはどこだ?……まさか?……)」
サクラは、ゆっくりと右手を胸にあて、左手を下に下ろした。
「(……ある、こっちはない……だよね……)」
サクラは、安どの表情を浮かべた。
「(……良かった、死んで転生なんかじゃなかった……)」
どうやらサクラは、転生すると性別が変わると思っているようだ。
『おや? 目が覚めてたな』
男の声が近づいてきた。
『その声は、ツェツィルね……』
サクラは、声のする方に顔を向けた。
『……今はどうなってるのかしら?』
『サクラは、丸一日寝ていた。 さて……体温計だ。 これを咥えて……』
ツェツィルは、細い棒状のものをサクラの口に差し込んだ。
『……サクラが寝ている間に、精密検査をしておいた。 良かったな。 特に異常は無かった』
『フェヒヒフヘンハ?』
『物を咥えたままで喋っても、何を言ってるか聞き取れないなぁ……』
ツェツィルは、片方の口角を上げた。
『……まあ、何を言いたいのかは分かるけどな。 サクラも、インフルエンザ如きで精密検査なんてしなくてもいいのに、何て思ってるんだろ?』
『……』
コクコクと、サクラは頷いた。
『まあ、これが普通の奴だったら、放っておくんだけどな。 それだけサクラは特別ってことだ……』
ツェツィルは、「ふぅ」と息を吐いた。
『……お前はヴェレシュにとって、たった一人の後継者なんだ。 アルトゥール様からの命令だよ。 それに高熱が出たって事だったからな、脳に何か障害が発生してないかを調べたかったというのもある。 さて、もう体温計を取ってもいいぜ』
『そうだったのね……』
サクラは、体温計を口から抜き取った。
『……お父様の心配は、理解できるわ。 でも……ツェツィル? 貴方は、私をモルモットかなんかと見てるわけ? なに? その「調べたかった」っていうのは』
『いやいや、そんな事はない。 そこは主治医として、患者を心配するのは当然だろ?……』
ツェツィルは、首を振った。
『……それに、細密検査をすれば合法的にサクラの体型を計れるじゃないか……あっ!』
『ツェツィル! 出ていけ!』
サクラは枕を……頭の下から抜き出し……投げつけた。
カンヌから東に5キロほどの、東西5キロ、南北3キロ程の大きな湾。
そこの真ん中を「ミクシ」は飛んでいた。
「(……ん! 調子良いじゃない……流石は、森山さんだね……)」
サクラがインフルエンザで休んでいた間に、森山たちは「ミクシ」を組み立てておいたのだ。
しかもメアリが、テスト飛行までしていた。
「(……私の調子は、いまいちだけど……)」
そう……やっとインフルエンザの隔離期間が終わったのだが、サクラは体の重さが気になっていた。
「(……ダメだ……このままじゃ危ない。 帰ろう……)」
サクラは、カンヌ空港に「ミクシ」を向けた。
「随分早かったが、どこかおかしなところでも有ったか?」
格納庫の前でエンジンを止め、キャノピーを開けてヘルメットを取ったサクラに森山は尋ねた。
「ううん、「ミクシ」は絶好調だった。 けど……」
サクラは、ベルトを外した。
「……私自身の調子が良くないから、帰ってきた」
「そうか……ま、病み上がりだからな。 ゆっくり調整すればいいさ」
森山は、ヘルメットを受け取った。
「そうはいってもねぇ……レースの開幕まで、あと1週間しかないんだよね……」
サクラは、主翼の上に足を下ろした。
「……あんまりのんびりしててもねー」
「焦ってもしょうがないさ。 事故を起こしたら、それどころじゃなくなるからな」
森山は、サクラに向かって手を差し伸べた。
「分かってる。 十分気を付けてるわ」
サクラは、森山の手を取って主翼から降りた。
サクラの目の前には、大きな入り江が広がっていた。
左手にはヨットハーバーがあり、右に視線を向けるとマンションだろうか? 十数階建ての建物が入り江を巻くように並んでいる。
正面遠くに向こう岸があり、その後には丘が並んでいた。
『ちょっと寒いね……』
サクラは、コートの襟を立てた。
『……意外と風があるんだ』
水面は一面に風波が立っていて、近くの木立は梢を揺らしていた。
『そうだね。 大丈夫かい? また体調を崩すと、レースに出られなくなるよ』
メイは、サクラの肩を抱いた。
『それは嫌だな……』
サクラは、メイの腰に腕を回した。
『……もう明後日からレースだもんね。 やっと良くなったんだから』
『ああ、やっと始まるね。 パイロンの設置も佳境だ』
そう……二人の見ている入り江には、そこかしこに台船が浮かべられ、その上で沢山の作業員が働いていた。
『これはサクラ様。 ご視察で御座いますか?』
ライフベストを着てヘルメットをかぶった男が近づいた。
『……っ!……』
メイが、サクラを後ろに下げた。
『……誰だ!』
『これは失礼いたしました!……』
どうやらハンガリー人のようで、男は頭を下げた。
『……突然で失礼いたしました。 私はここの監督をしている者で御座います』
『あら、そう……メイ、もういいわ……』
サクラは、メイの後ろから出た。
『……私を知ってるって事は、あなたはヴェレシュの者?』
『はい、 フランツィシュカ様に命じられて来ております』
直立不動で男は答えた。
『お姉さまから? そう……』
サクラは、頷いた。
『……あなたの名前は?』
『は! 名乗ることをお許しいただき有難う御座います……』
男は、深々と頭を下げた。
『……ヨージェフと申します。 レースのコース関係のリーダーをしております』
『ヨージェフね……』
サクラは、右手を出した。
『……ヨージェフ、貴方の働きがレースの成功に繋がってるわ。 しっかり働きなさい』
『おお……有難う御座います!』
ヨージェフはサクラの手を握って、何度も頭を下げた。