失速
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
扉の閉められた格納庫の中で、森山は「ミクシ」のエンジンを調べていた。
「(……おかしなところは無し……)」
森山の持つライトに照らされ、隅々まで磨かれた「ライカミングAEIO-580エンジン」は輝いていた。
『ハーイ! 森山さん……』
メインの扉の横にあるドアから、サクラが入ってきた。
後ろにメイがついている。
『……出来たって?』
『やあ、お帰り。 旅行は楽しかった?……』
森山は、持っていたライトを消してサクラを見た。
『……もっとゆっくりしてきても良かったのに』
『ん? 元々一泊の予定だったし、これが出来たって聞いたらね……』
サクラは、ちょっと苦笑を浮かべた。
『……居ても立っても居られなくなっちゃった』
『そうなんだよ、モリヤマサン……』
メイが、口を挟んだ。
『……そのメールを見た途端、「もう帰る」って言い出してね。 ちょと「ミクシ」に嫉妬したよ』
『はは、そりゃ同情するよ。 ま、飛行機に敵う男は居ないだろうから、それに慣れることだな』
森山は、口角を上げてメイの肩を叩いた。
『なによ、二人とも……』
サクラは、頬を膨らせた。
『……ちゃんと人と物との区別ぐらいつくわよ。 で? もう飛べるの?』
『ああ、飛べるぜ。 ただ、まあ……あくまでも動作するってだけだがな。 地上で十分テストしてから飛んだ方が良いだろう』
森山は、エンジンを「ポンポン」と叩いた。
『分かったわ。 それじゃ、今からテストしましょう。 「ミクシ」を出すわ』
サクラは、格納庫のドアに向かって歩き出した。
『ちょっと! 今から?』
メイの声が上ずった。
『メイ……諦めな』
森山は再びメイの肩を叩くと、「ミクシ」の車止めを外し始めた。
格納庫の前で、しっかり車止めを掛けられた「ミクシ」が……カウルを付けずに丸見えになっている……エンジンを唸らせていた。
{「どうだい? 今何回転?」}
コックピットに居るサクラのヘッドセットから、森山の声が聞こえる。
{「ん……油温、シリンダー温度、燃料圧……オールグリーン……」}
サクラは、エンジン計器に目を走らせた。
{「……回転数は2700」}
{「OK。 こっちの計器にも異常は無い……」}
テレメトリーで送られてくるデータが、森山の見ているパソコンに表示されていた。
{「……それじゃ、テストしよう」}
{「はい。 行きます……」}
サクラは、スティックに付けられた引き金状のレバーを握った。
途端にエンジン音が変わる。
{「……上手くいった! えーっと……2600?」}
{「こっちでも確認した。 上手く動いたようだ……」}
森山の声は、嬉しそうだ。
{「……ちょっと効きすぎか?」}
{「そうですねぇ……」}
サクラは、レバーを握ったまま首を傾げた。
{「……確かアブダビの時は、2650だったから、ちょっと下がりすぎ? 『そこにメイは居る?』」}
{『居るよ……』}
英語の呼びかけに、メイは無線に出た。
{『……何かな?』}
{『確かアブダビの時は、2650だったよね?……ちょっと煩いね……』}
サクラは、レバーから手を放し、更にスロットルレバーを引いた。
エンジンは、アイドリングで回りだす。
{『……今は2600だけど、これはどうなの? パワー落としすぎかな?』}
{『ん~……今すぐには返事が出来ない……』}
困惑したような声が聞こえた。
{『……あの時は、コース全てをその回転数で飛ぶことを条件に計算したんだ。 それが今回は、ループの時だけ、っていう条件になる。 計算し直さないと、分からない』}
{『はぁ……そうなの……それじゃ、今は……』}
サクラは、溜息を吐いた。
{『……何もできない、って事ね。 仕方がない。 今日は止めよう……』}
サクラは、ミクスチャーレバーを手前に引き切った。
ガソリンの来なくなったエンジンは、静かに止まった。
{「……森山さん、今日はもう終わりにするわ」}
{「ああ良いよ。 ちゃんと機能することが確かめられたんだ。 後はセッティングだけだ……」}
森山は、無線を切って「ミクシ」に近づいた。
「……お疲れさん。 整備をしておくよ」
「良いの? それじゃ、お願いします」
サクラは、キャノピーを開けて立ち上がった。
「……はーい! 高槻さん居る?」
スクールのドアを無遠慮に開け、サクラは中を見渡した。
『サクラ……流石に、もうちょっと礼儀を付けてくれ』
デスクの後ろで、タッカーが頭を抱えていた。
『あら、タッカー社長……私、株主ですけど?』
そう……結局タッカーは、サクラからの資本を受け入れたのだった。
『そうだけどさぁ……やっぱりサクラは上流階級の人間だろ? 常識を身に付けないと……』
『はいはい、お小言はもう十分……』
サクラは、タッカーの言葉を遮った。
「……居た居た。 高槻さん、ちょっと良い?」
「ん? いいけど……」
高槻は、自分の机から立ち上がった。
「……何かな? 訓練だったら、今は無理だぜ。 予定でイッパイだ」
『俺の前では、英語で話してくれ……』
タッカーが割り込んできた。
『……ユウイチ、ちゃんと断るんだぞ』
『失礼ね、まだ何も言ってないじゃない……』
サクラは、振り向いてタッカーを見た。
『……大した事じゃないわよ』
『で? 俺に何の用かな?』
高槻は、サクラの前に立った。
『レースの練習をしたいんです。 ムラオカさんに連絡付けていただけませんか?』
ちょこっと首を傾げて、サクラは高槻を見た。
『ムラオカの爺さんか?……』
高槻は、腕を組んだ。
『……そうだなぁ……今、使えるかは分からないが、連絡はしてみよう。 交渉は自分でしてくれるか?』
「ありがとうございます。 連絡を待ってます……」
サクラは、ぴょこっと頭を下げると……
「……じゃね、タッカー社長」
タッカーに手を振って、ドアを開けた。
『英語で話せって言っただろぉ。 最後、なんて言ったんだ?』
デスクの後ろでタッカーは立ち上がった。
しかし……
『グッバイ』
サクラは、構わず外に出て行った。
古ぼけた住居や倉庫が囲む広い庭に、真っ赤な「アウトバック」が入ってきた。
運転席からベンが降り立つと、車の前を回って助手席を開けた。
『此処で良いんだよね……』
ベンは、手を取ったサクラに尋ねた。
『……どこにでもある様な農家だけど』
『ここで良いよ……』
サクラは、ベンに手を引かれて車から降りた。
『……ここがムラオカさんの家だよ』
『ヤア! 良く来たね、サクラ……』
母屋のドアが開き、ムラオカが顔を出した。
『……タカツキから聞いてるよ』
『お久しぶりです、ムラオカさん……』
サクラは、駆け寄って右手を出した。
『……またお願いして良いですか?』
『ああ、構わないさ……』
ムラオカは、サクラの手を取って「ふんわり」笑った。
『……そいつが婚約者かい?』
『ええそう。 メイナードよ……』
サクラは、少し横によけた。
『……メイ、こちらが空を貸してくれるムラオカさん』
『初めまして、メイナードです……』
メイは、右手を出した。
『……お目に掛かれて光栄です』
『よせやい。 こんな老いぼれにおべっかなんて……』
ムラオカは、メイの手を握って目を細めた。
『……ムラオカだ。 見たどおりの百姓さ。 お前さんは……』
ムラオカは、メイの顔を見つめた。
『……うん。 良い顔をしている。 サクラ、いい男を見つけたな』
『ちょっと、ムラオカさん。 私、顔で婚約したんじゃないんだけど』
サクラの頬が、少し膨らんだ。
『そうじゃないよ。 言い方が悪かったか?……』
ムラオカは、メイの手を放してサクラを見た。
『……いい顔ってのは、美醜じゃないんだ。 こいつは……』
ムラオカは、親指でメイを指した。
『……これまで苦労もして、それでも芯を曲げずに生きてきた。 そんないい男の顔をしている。 そういう意味だ』
『ん? そうなの?……』
サクラは、メイを見つめた。
『……憎らしいほどハンサムだってことは分かるけど』
『ちょ、ちょっと……面と向かって、そんな事言わないで……』
メイは、顔を手で覆った。
『……まあ、昔は大変なこともあったさ。 でも今は、そんな苦労も忘れられるほど幸せだから』
『そう……それが私の所為だとしたら、嬉しいけど』
サクラは、ニッコリした。
『もちろんだよ。 僕は、サクラの傍にいることで幸せなんだ』
メイは、サクラに向かって微笑んだ。
『やれやれ……』
ムラオカは、両手を肩の高さに上げた。
『……二人とも若いな。 かみさんと付き合いだした頃を思い出すぜ』
『ムラオカさんと奥さんは、どんな出会いだったんです?』
サクラは、ムラオカを見た。
『そうだなぁ……ま、中に入ってくれ。 かみさんがコーヒーを淹れてるはずだ。 ゆっくり話そう』
ムラオカが脇にズレ、サクラとメイはドアを潜った。
緩やかな起伏のあるキャベツ畑の上を「ミクシ」は飛んでいた。
コックピットに座ったサクラは、前方に見える2対の巨大なパイロンを見て「ミクシ」を誘導している。
「(……よくまあ、あんなデッカイのをつくったねぇ……)」
そう……それら……エアーで膨らませた……パイロンは、高さが100メートルあり底辺の直径が30メートルもあるのだ。
「(……安全のために、高度を高くしたいのは分かるけどさ……よし200ノット……)」
サクラは、速度計の数値を確認し……
「(……てっぺんに合わせて……)」
手前と遠くのパイロン頂点を見通した高さに「ミクシ」を合わせた。
これで「ミクシ」はキャベツ畑から100メートルの高さを飛んでいることになる。
「(……まずは、奥のパイロンでパワーダウンだね……)」
サクラは、何をしようとしているのか?
つまり……どういうタイミングでパワーを下げるレバーを握れば一番良いのかを、実験して調べるのだ。
{『メイ、始めるよ』}
サクラはマイクのスイッチを入れて、地上でビデオを撮っているはずのメイに言った。
{『了解、気を付けてね』}
間髪を入れずに、メイからの返事が返った。
{『大丈夫だよ。 良いデータを取って帰るから』}
サクラは答えると、マイクのスイッチから指を離した。
一対のパイロンが、左右に視界から消えた。
「(……今!……)」
サクラは、左手の人差し指でスティックに付けたレバーを引いた。
途端にエンジン音が変わる。
「(……くっ!……)」
それを確かめる間もなく、サクラはスティックを引いた。
「(……ぐぅぅぅぅぅ……)」
「ミクシ」はループに入り、サクラはシートに押し付けられた。
「(……ぐぅぅ……ぐぅぅ……10……)」
息をするのも苦労する中、サクラはGメーターを見ながら10Gを保つようにスティックを引き続けた。
「ミクシ」は、やがて宙返りの頂点付近に近づいた。
「(……ぐぅぅ……ぅ……あれ? Gが抜けた?……)」
サクラは、いきなり体が軽くなるのを感じた。
「(……って、ヤバい! ストールした……)」
そう……過大な迎え角をとった主翼から、耐えきれずに気流が剥離してしまったのだ。
Gを作り出しているのは、主翼の揚力なので……当然のように、失速状態ではGは発生しない。
「ミクシ」は、背面のまま高度を下げ始めていた。
「(……パワー!……)」
サクラは、左手で握っていたレバーを離した。
さっきまでくぐもった音を出していた森山チューンの「AEIO-580」が、轟音を立てて回り始める。
「(……引いて……ラダー蹴って……左!……)」
サクラの操作により「ミクシ」は、スナップロールをした。
「(……よし! これで……)」
「ミクシ」は、今は機首を下げて急降下していて、正面にさっき通過したパイロンが見えた。
「(……くっ!……)」
高度に余裕はない。
サクラは、スティックを引いた。
「(……ぐぅぅぅぅぅ……)」
再びサクラは、シートに押し付けられた。
{『サクラ! サクラ! 大丈夫!?』}
ヘッドセットから、焦った様子のメイの声がする。
「ミクシ」は、今は十分な高度で緩く旋回していた。
{『ハイ! 大丈夫だよ、メイ……)』}
サクラは、マイクのスイッチを押して答えた。
{『(……ちょっと焦っちゃったけどね)』}
{『はぁ……無事で良かったよ。 どうする? 一旦切り上げて空港に帰ろうか?』}
{『そうねぇ……』}
サクラはコックピットを見渡し、スティックを細かく動かした。
「ミクシ」は、サクラの操作に合わせてユラユラと反応した。
{『……「ミクシ」は、特に異常は見られないけど……』}
サクラは、暫し考え……
{『……やっぱり「ミクシ」が心配だから、帰ろうか』}
{『そうだね。 見えないところにストレスが掛かっているかもしれない。 今回のデータは、上手く取れたから……帰って精査しよう』}
{『了解。 先に帰ってるね』}
サクラは「ミクシ」を空港に向けた。