カンヌ下見
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
フラップとランディングギヤを出した「サイテーションサクラ」は、カンヌ国際空港に進入していた。
『あそこが、今度レースが行われる入り江だよね』
右の窓から外を見ていたサクラは、目の前に座っているメイに言った。
『ん?……』
後ろ向きに座っているせいで、メイは大きく左に体を捻って外を見た。
『……そ、そうだね。 あそこの……小山に囲まれたような入り江がカンヌの街だから、そこがレース会場になるね』
『狭いね。 アブダビ以上に急旋回をしなくちゃいけないよね?』
サクラは、首を傾げた。
『そうだね。 実際に見ると、その狭さが分かるね。 寄ってよかった』
メイは、サクラに向かって頷いた。
二人は……せっかくだからと……アブダビからの帰りに次のレース会場を下見しようと、カンヌに寄って行くことにしたのだ。
『サクラ様、間もなく着陸いたします。 ベルトの確認をお願いいたします』
ローザの声が、スピーカーから聞こえた。
『ん! もう着くね。 さて……どんな所かな?』
サクラは、腰に回したベルトを引いた。
無事に入国できたサクラとメイは、空港内のカウンターに来ていた。
タマーシュとローザはサイテーションサクラの所に居て、他の使用人…… アンナ、ドーラ、そしてマールクは、今日泊るホテルに向かっている。
因みにイロナは……森山とメアリも……ドバイから直接ハンガリーに向かっていた。
『レンタルは、ここで良いのかな?』
サクラは、カウンターの中に立っている男に聞いた。
『軽飛行機のレンタルならここで間違いないよ、可愛いお嬢さん……』
男はウインクをした。
『……予約はあるかい?』
『ヴェレシュ サクラで予約がしてあるはずだ』
メイが、サクラの前に割り込んだ。
『おやおや、彼氏が怒ったね……』
男は、大げさに首を竦めた。
『……社交辞令だよ。 私も妻帯者だからね。 で、ヴェレシュと……』
男は、カウンターの下からファイルを取り出した。
『……これだ。 ええ、チェロキーを予約されてますね。 この辺の遊覧飛行かな』
『うん、そのつもり』
サクラは、メイを退けて男の前に立った。
『OK。 書類を揃えるから、少し待って……』
男は、ファイルを持って後ろのドアを開けた所で振り向いた。
『……ところで、誰が操縦するのかな?』
『私よ』
サクラは、素っ気なく返事をした。
『お嬢さんが? ふむ……』
男は、首を傾げた。
『……ま、良いでしょう。 後でライセンスを確認します』
『ライセンスは、持ってるわ』
やや憮然としたサクラの声を背中に、男は裏に入っていった。
『……パーキングブレーキ……OK……』
『……サーキットブレーカ……メイ、チェックして』
ファイルを見ながら、サクラは右隣りに座っているメイに言った。
『ん? 良いよ……』
メイは、目の前にあるふたを開けた。
『……ん~ うん、全部しっかりと入ってる』
『ありがと。 次は?』
サクラは、ファイルの上に指を走らせた。
二人は、何をしているのかと言うと……レンタルしたチェロキーという軽飛行機の飛行前チェックをしているのだ。
『……ミクスチャー、フルリッチ……スロットル……4分の1インチ開ける……』
サクラは、センターコンソールに手を伸ばして、そこにはえているレバーを操作した。
『……えと……プライマーは……確かこの子は午前中も飛んだらしいから、しなくていいね……』
エンジンの中が「カラカラ」にかわいているときには、少量のガソリンをシリンダーに送り込んで始動性をよくするのだが、今回は「飛んだばかり」ということで、そこはパスする。
『……んじゃ、掛けられるね』
サクラは、サイドウインドウに付いた小さな窓を開け……
『クリヤー!』
外に向かって叫んだ。
{『F-VSKL チェロキー カンヌグランド B5にて停止』}
誘導路を走ってきたサクラに、管制から無線が入った。
{『カンヌグランド F-VSKL B5で停止』}
サクラは、「チェロキー」を停止線で止めた。
目の前に滑走路がある。
「(……さて、チェックリストの続き……)」
そう……離陸前は、また新たにチェックがあるのだ。
『……パーキング、引いて……』
サクラは、計器盤の下に手を伸ばした。
『……よし、と……次は、操縦装置のチェック……』
サクラは、ラダーペダルを踏み、操縦輪……チェロキーは、操縦桿でなくて旅客機のようなハンドルで操縦する……を回したり押し引きした。
「(……OKだね……次は……)」
『……トリム、離陸位置……』
サクラは、天井に付いている小さなハンドルに手を伸ばした。
『……こんなものかな……』
ハンドルのそばに小さな表示器があり、そこの目盛をサクラは離陸位置に合わせた。
『……計器チェック……』
目の前の計器盤には、高度計や昇降計、ジャイロコンパス等、沢山の計器がある。
サクラは、素早く全ての計器を確認した。
『……OK……次……フュエルセレクター……OK……オイルプレッシャー……グリーン、OK……』
サクラは、次々とチェックリストを辿っていく。
『……マグネトー、チェック……1800rpmにして……ライト……100rpmダウン……レフト……100rpmダウン、OK……キャブヒート、チェック……ん、少し下がる、OK……エンジン計器……オールグリーン……スロー、チェック……』
サクラは、スロットルレバーを一番手前まで引いた。
『……600rpm……安定してるね、OK……』
サクラは、スロットルレバーを少し開けて1000rpmに合わせた。
「(……よーし、飛べる……)」
サクラは、パーキングブレーキを外した。
「(……フラップチェック……OK……)」
改めてフラップが上がっている事を確認して、サクラはマイクのスイッチを入れた。
{『カンヌタワー F-VSKL RW04離陸準備完了』}
{『チェロキーサクラ カンヌタワー RW04 クリヤード フォー テイクオフ』}
「(……ん?……なんだって?……チェロキーサクラ?……)」
怪しげなコールを聞いて、サクラの頭の中を「はてなマーク」が飛び回った。
{『F-VSKL チェロキーサクラ カンヌタワー 通信は聞こえたか?』}
無言が続いた所為で、タワーから確認の通信が聞こえた。
「(……そうだよ! VSKLってヴェレシュ・サクラじゃないか……ひょっとして、ヴェレシュが噛んでる?……)」
{『F-VSKL チェロキーサクラ カンヌタワー 通信は聞こえたか?』}
{『カンヌタワー F-VSKL 聞き取れなかった もう一度頼む』}
念のためにサクラは、もう一度聞いてみることにした。
{『チェロキー・サクラ カンヌタワー RW04 クリヤード フォー テイクオフ』}
さっきよりもゆっくりと発音した言葉が返った。
「(……やっぱりサクラって言ってるよ。 これはきっと……お父様の差し金だよね……っと、返事しなくちゃ……)」
いい加減、離陸しないと迷惑がかかる。
{『カンヌタワー チェロキーサクラ クリヤード フォー テイクオフ』}
サクラは、ブレーキから足を離してスロットルレバーを進めた。
目の前に、アスファルト舗装された滑走路が伸びている。
「(……760メートルしかないんだよね。 割と短いね……)」
そう、今から離陸するRW04は、メインの滑走路でなくサブの滑走路なのだ。
そのため、日本で言えば農道空港にあるような短い滑走路だった。
『……ブレーキ踏んで……トランスポンダ……アルト……』
チェックリストは、まだ続いている。
『……フュエルブースター、ON……ランディングライト、ON……パワー、1500rpm……オールグリーン……』
最終的に計器盤を見て異常がないことを確認して、サクラは滑走路の終点を見た。
『……ランウェイ、クリヤー……メイ、上がるよ!……』
サクラは、スロットルレバーを一番前に進めて、ブレーキから足を離した。
『……Vr』
速度計が、60ノットを指した。
『Vr』
メイのコールを聞いて、サクラは操縦輪を引いた。
チェロキーは、機首を上げ浮き上がった。
『……V2』
80ノットになったところで、メイがコールする。
『V2、了解……』
サクラは、更に操縦輪を引いた。
チェロキーは、本格的に上昇し始めた。
正面にやや高くなった丘が見える。
「(……ALT300……そろそろ旋回するかな……)」
ある程度上昇するまでは、滑走路の延長線上を飛ぶ必要があるのだが……
「(……飛び越えられると思うけど……ま、良いか……右、OK……)」
早めに旋回することにして、サクラは右方向に危険がないか確認した。
『ライトターン』
メイに向かって宣言して、サクラは操縦輪を回した。
さっきの丘を左に見ながら、更に上昇する。
「(……ん! あれかな?……)」
丘の向こう側は少し低くなっていて、ビッシリと赤い屋根が並んでいる。
そして、その街並みが海に向かって下がっていったその先に……
「(……うわー!……狭い……)」
数えきれないほどのヨットが係留されたハーバーと、それに繋がる……入口を防波堤に守られた……丸い入り江が在った。
「(……ALT1000……この高度で良いね……)」
入り江を飛び越して、サクラは水平飛行するようにトリムを調整した。
『たぶん、今の入り江だよね……通り過ぎちゃったから、戻るね』
サクラは、操縦輪を左に回した。
左にバンクをする事で左翼が下がり、左の席に乗っているサクラは、下がよく見えるようになった。
『かなり狭いよね』
90度程旋回したところで、入り江がしっかり見えた。
『これでも、幅は1.2キロあるらしいよ……』
メイは、サクラの体越しに……大きく張り出した胸が、やや邪魔をするが……左のウインドウから外を見た。
『……奥行きはその半分位だけど』
『そうなんだ。 アブダビとそれ程変わらないんだね……』
そう……アブダビの会場は、幅が1.5キロほどだったので、そこまで違うわけではない。
『……何で狭く感じるんだろう?』
『ん~……丘が近くまで迫ってるから?……』
旋回が進んで、入り江は前方に見え始めたので、メイはシートに座り直した。
『……もしくは、海岸近くまで家が迫ってるから?』
『そうなのかなぁ?……』
サクラは、操縦輪を右に回してバンクを戻した。
『……ん~、あ、あそこがヘリポートだね』
入り江を囲む防波堤の先端に、Hマークが見えた。
『そうだね。 という事は……』
メイは、頷いた。
『……あの防波堤が臨時の滑走路になるかな?』
『どうだろう?……』
サクラは、首を傾げた。
『……灯台があるよ? ま、避けて離着陸する事は出来るけど……』
再びサクラは、操縦輪を左に回して旋回を始めた。
『……カンヌ空港を使うかもしれないし。 ペーターさんが、どう考えるかな?……』
サクラは、チェロキーを水平飛行にした。
『……さて、と……どうする? まだまだ時間はあるよ? メイが操縦する?』
『うん、代わろう。 アイハブ コントロール』
メイは、操縦輪を握った。
『ユーハブ コントロール』
ニッコリして、サクラは操縦輪から手を離した。
空港のカウンターの裏にある事務所の中で、男は電話を受けていた。
『……はい、サクラ様は無事到着されて、予定通りチェロキーサクラで遊覧飛行中です』
外で見せた様子とは随分違って、腰が低い。
『……はい勿論です。 機体は午前中にしっかりと試験飛行をして、不具合の無いことは確認してあります』
サクラが教えられていた「午前中飛んでいた」というのは、そういう事だったのだ。
『……それは、大丈夫です。 それにしても……サクラ様は、お綺麗になられました』
男は「ふぅ」と息を吐いた。
『……と、とんでもない。 私は、これでも妻帯者ですので……』
慌てたように、男は首を振った。
『……それにメイ様が、隣で守っておられました。 あの仲の良さを見れば、そんな事を思うことなど……5パーセント位?』
男の声は、段々と小さくなった。
『……あ! 冗談です。 冗談ですってば! それでは、お帰りなったときに連絡いたします』
男は受話器を置いて、額に流れる冷や汗をハンカチで拭いた。