アブダビラウンド(4)
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
「……ふぅ……」
格納庫前で「ミクシ」のエンジンを切ったサクラは、キャノピーを開けながら大きく溜息を吐いた。
『お帰り、サクラ……』
機体の横にメイが来た。
『……お疲れさま』
『ただいま……』
サクラはヘルメットを脱ぎ、軽く頭を振って乱れた髪を整えた。
『……ちょっと失敗しちゃったわ』
『パイロンヒットの事かな?……』
メイは、ヘルメットを受け取ろうと手を出した。
『……あれは、仕方が無いよ。 それにね、サクラのあとに飛んだフローリアンもやっちゃてるよ』
『へ? そうなの?……』
ヘルメットを渡しながら、サクラは間の抜けた声を上げた。
『……パイロンヒットを?』
『そうだよ。 サクラは飛行中で分からなかったと思うけど……』
メイは、受け取ったヘルメットを脇に抱えた。
『……ご丁寧にも、2本切っちゃった』
『あら……』
サクラはシートベルトを外して、コックピットから体を引き出した。
『……それじゃ、飛行中止?』
『そうなるね。 タイムは記録されないから……』
メイは、サクラが翼の上に足を下ろすのを見ている。
『……彼が、最下位になるだろうね』
『ご愁傷様ね……』
サクラは、差し出されたメイの手を取った。
『……もっとも……そんな事で順位が上がっても嬉しくないけど』
『サクラは、そう言うよね……』
メイは、サクラがちゃんと降りるのを確かめると……
『……それじゃマールク、押そうか』
「ミクシ」を格納庫に向かって押し始めた。
格納庫の中をパーティーションで区切った作戦会議室。
その中に置かれたコースの模型の前に、サクラ達は集まっていた。
『どうかしら?明日の決勝。 今日の飛行を見て、改善できるところがあれば言って』
サクラは、テーブルを囲む皆を見渡した。
『特には、無いんじゃないかな?……』
森山が口を開いた。
『……パイロンヒットはあったが、あれは風が悪かった訳だしな』
『そうだね。 でも風が強いのは、悪いことばかりじゃないからね……』
メイは、サクラを見た。
『……ループが、風のお陰で上手いこと捻じれたから。 あれで僅かだけどタイムが縮んだよ』
『あれは良かったな。 それで面白い話がある……』
森山が、ニヤッと笑った。
『……俺は、日本語の実況を聞いてたんだが……あのループは、サクラが意図してやってるんだと思ってたぜ。 ただ風の影響を忘れてたんだ、って知ったら……あの解説者、どんな顔をするだろうな』
『笑うことはないでしょ、森山さん。 結果オーライだったんだから』
サクラは、頬を膨らせた。
『うん、確かに笑う事じゃないね……』
メイは、頷いた。
『……今日は上手くいったけど、何時も上手くいくとは限らない。 気を付けてねサクラ』
『……ハーイ……』
サクラの頬は、膨らんだままだった。
『……一つ気になることが有るんだが』
落ち着いたところで、森山が言った。
『ん? 何、森山さん』
サクラは、森山を見た。
『サクラちゃんのループ……あれ随分高く上がるよな……』
森山は、模型を手にもって動かした。
『……頂点が他の機体より高い』
『仕方がないんです。 10Gを越さないように引いてるんですけど、あれが精いっぱい』
サクラは、首を振った。
『どうだろう? パワー有りすぎか?』
森山は、サクラを見た。
『え! とんでもない。 パワーが有ることはいいことですよ』
サクラは、拳を上下に振った。
そんな事を認めたら、森山の努力を無にしてしまう。
『いや……これも実況で言ってたことなんだが……』
森山は、困ったように模型を置いた。
『……パワーが有ることで、ループの半径が大きくなってるそうだ』
『確かに「ミクシ」は、上を向いてからの速度の低下が小さいですが……』
サクラは、首を振った。
『……それだけの事で、パワーを否定するのは違うと思います』
『ちょっと待って……』
メイが、二人の間に入ってきた。
『……今の言葉に解決策が有るんじゃないかな?』
『ん? どういうこと?』
サクラは、メイを見た。
『「ミクシ」が、上昇中に速度が落ちない、って事……』
メイは、模型を持ってループをさせた。
『……こんな風にね』
『加速はしないわよ』
サクラは、呆れたように言った。
メイの動かす模型は、上昇で速度が上がったのだ。
『それは失礼。 ま、分かりやすくしただけだよ』
メイは、苦笑を浮かべた。
『まあ、それは置いておいて……』
森山は、メイから模型を取った。
『……メイは、どうすれば良いと思うんだ?』
『それだけど……速度が落ちるようにすれば良いと思うんだ』
メイは、サクラを見た。
『どうやって?……』
サクラもメイを見た。
二人見つめあうことになる。
「(……こいつ……無駄にハンサムだな……って言うか、虫も殺せない優しい顔……って、もしかして……)」
『……ひょっとしたら……パワーを殺す?』
『サクラも気が付いたようだね。 そう……』
メイは、頷いた。
『……ループ直前にプロペラピッチを増やす。 そうすれば、プロペラの抵抗で回転数が下がる』
『なるほど。 パワーは、トルク掛ける回転数だから』
聞いていた森山が、頷いた。
『ちょっと待って……』
ここまで発言せずに聞いていたメアリが、口を挟んだ。
『……簡単に言うけど、それ難しいわよ。 タイミングも難しいけど、いったいどれ位ピッチを変えればいいの? 特に増やしすぎたら、ループの頂点で失速するわ』
『それは練習……って、もうできないや』
そう……もう明日には決勝なのだ。
それを思い出したサクラは、肩を落とした。
{『ハリム こちらレースコントロール 離陸して待機空域に行くように』}
{『レースコントロール こちらハリム 待機空域に行く 離陸のためタキシー』}
公式練習があった翌日、サクラはエンジンの回っている「ミクシ」のコックピットで、無線を聞いていた。
今日は、チャレンジクラスの決勝とエキスパートクラスの予選が行われるのだ。
すでにエキスパートクラスの一回目の予選は終わっていて、これからチャレンジクラスの決勝が始まる。
公式練習のタイムでサクラは4番目となり、3番目のタイムだったハリムとの対戦となっていた。
因みに5番目のタイムだったのは、サクラと同じくパイロンカットを一回したミカエルだった。
『サクラ、回転数には気を付けてね』
コックピットのわきに立っているメイが、外まで伸ばしたインカムのマイクで言った。
『うん、分かってる。 マイナス50回転だよね』
サクラは、メイを見て頷いた。
『OK。 それで少しはループが小さく回れるはずだから』
メイが親指を立てた。
そう……昨日、話し合いが終わってから、メイは再びスパコンを使って、取り敢えず最適な回転数を探ったのだ。
{『サクラ こちらレースコントロール 離陸して待機空域に行くように』}
サクラのヘッドセットに無線が入った。
{『レースコントロール こちらサクラ 待機空域に行く 離陸のためタキシー』}
サクラはメイに向かって親指を立てると、スロットルレバーを進めた。
待機空域に向かいながら、サクラはスロットルレバーの隣にあるピッチレバーを操作した。
「(……50回転少なく……って言うと……2650かな……)」
ピッチレバーを動かすと、スロットルレバーの位置を変えずとも、エンジン回転数が変わる。
「(……こんなものかな?……試してみよう……)」
サクラは、左右に「ミクシ」を急旋回させた。
「(……ん~……少し変わったかなぁ……)」
{『サクラ こちらレースコントロール どうかしたか?』}
突然無線が入った。
どうやらサクラがいきなり蛇行したので、問題が起きたと思ったようだ。
{『レースコントロール こちらサクラ 問題はない』}
細かく説明することはないと、サクラは素っ気なく返信した。
{『サクラ 了解 そのまま待機位置に向かえ』}
{『レースコントロール 了解』}
どうやら問題にはならないようだ。
「(……やれやれ、ビックリした。 それにしても……この回転数だと、素のエンジンと同じくらいのパワーなんだよな。 何か森山さんに申し訳ないな……)」
そう……回転数を下げたことにより、森山がチューンしたプラスアルファの部分が使われないことになったのだ。
「(……森山さんは、トルクで稼いでるから良い、って言ってたけど……)」
ま、今回は仕方がないね、とサクラは先行して飛んでいるハリムの機体を追った。
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青地に紅い桜の花びらの舞っている、そんなラッピングの小型機が、リビングのテレビ画面に映っていた。
「おおきくうつってて、みやすいね……」
画面から目を離すことなく、志津子は隣に話しかけた。
今日は土曜日ということもあり、志津子の父親である敦が隣で一緒にレースの実況を見ていた。
実は、敦がパソコンの画面をリビングのテレビに繋いだのだった。
「……おねえちゃん、きょうはどうかな?」
「どうだろうね。 昨日は、パイロンにぶつかったんだろ? それが無かったら、もっと上の順位だったそうだから……期待できるよ」
答えながらも、敦は画面から目が離せないでいた。
「そうだよね。 おかあさん! はやくこないと、おわっちゃうよ!」
志津子は、台所に向かって声を上げた。
そう……母親の由香子は、夕食の下準備をしているのだ。
「はいはい、すぐに行くわ」
返事をしながら、志津子がリビングに現れた。
「やっときた。 おかあさんは、ここ」
志津子は、自分の隣のクッションを「ポンポン」と叩いた。
「……さあ、サクラ選手、もうすぐスタートです」
実況アナウンサーの声が聞こえる。
「はい、先ほどのハリム選手が、59.221秒でしたから……サクラ選手には、十分チャンスがありますよ」
解説者が繋いだ。
「そうですね。 昨日の公式練習で、サクラ選手は58、335秒でしたから……パイロンヒットさえなければ……えっと……3位のタイムですから、ハリム選手より早かったんですね」
「今のハリム選手のタイムより早かったんですから、公式練習と同じ飛びが出来れば勝てるでしょう」
「そうですね。 さあ、サクラ選手……今、スモークを出しました」
「いいラインに乗ってますよ」
真っ白なスモークを引いて、「ミクシ」はスタートパイロンに向かって真っすぐに飛んでいた。
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二つ並んだスタートパイロンは、今日は揺れていない。
「(……高度OK……速度……199、OK……水平OK……)」
見る見るうちに近づくスタートパイロンを前に、サクラは計器盤を見渡した。
「(……よし!……)」
スタートの条件は満足している。
サクラが改めて気合を入れた瞬間、「ミクシ」はスタートパイロンを通過した。
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「……今! サクラ選手スタートです」
「左手も操縦稈を握りましたね。 サクラ選手、いつもの様に両手持ちです」
コックピット内にもテレビカメラが付けられたのだろう……画面は大きくパイロットの姿が映り、隅に外から見た機体が写っている。
それによって、パイロットの操作と機体の動きが分かるのだ。
「くっ!」
小さく気合が聞こえると同時に、画面の中ではスティックが左に倒され、すぐに戻された。
機体全体を捉えた画面で、「ミクシ」が左に90度回転した。
上を見ているのだろう……ヘルメットが上を向いている。
スティックが引かれた。
画面の中で、「ミクシ」のコックピットの上をパイロンが通過する。
「くっ!」
スティックが右に倒され、「ミクシ」は右に回転した。
再びパイロンが頭上を通過する。
「くっ!」
再度の気合を吐き、スティックは左に倒された。
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スラロームの三本目のパイロンを大きく回り、一旦水平にした「ミクシ」のコックピットの中でサクラは、次に通過する対になったパイロンを見つめていた。
「(……よし!……)」
目標にしていた背景に見えるビルを確かめ、サクラはスティックを倒し右旋回を始めた。
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「サクラ選手、右旋回をして……今!パイロンを通過」
「ん? これは……傾いていたかもしれません」
「そうですね……少し水平に戻るのが遅かったように見えましたが……」
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「(……クソ!クソ!……失敗した……)」
コックピットの中でサクラは、悪態を吐いていた。
「(……なんてぬるい操作してんだよ!……気合を入れろ!……)」
「くっ!」
そんな事も一瞬……
サクラはスティックを引いた。
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「さあ……サクラ選手、縦のターンです」
画面は切り替わって、今は外からの画像が大きく映り、コックピットは小さくなっていた。
「ミクシ」は、機首を上げて上昇を始めた。
「お? これは……」
解説者が、声を上げた。
「……昨日に比べて、小さくループしますね」
「そうですね。 先ほどのハリム選手と比べても、殆ど同じ高さです」
画面には、さっき飛んだハリムの軌跡が合成されて映っている。
「この画像処理は凄いですね。 二人の違いがよく分かります……しかし……Gは大丈夫ですね……という事はサクラ選手、昨日よりパワーを落としていますね」
流石はプロである。
解説者は、カラクリを見破った。
「どういう事でしょうか?」
「きっとサクラ選手は、パワーがありすぎてループが大きくなっている事に気が付いたんでしょう。 エアロバティックならば、それは有利なんですが……小さくターンをしたいレースでは、それでは不利になります」
「つまり、サクラ選手は意図的にパワーを落としている、と?」
「そう思います。 ただ、これまでスロットルレバーに手を触れてないので……スタート時からフルパワーではないのかもしれませんね」
「それは……かなり難しいのではないですか? 昨日から練習するチャンスは無かったはずですから」
「そこは分かりません。 彼女には、有能なスタッフが付いているのでしょう」
「ねえ、おとうさん?……」
画面から目を離さず志津子は尋ねた。
「……なにいってるか、わかった? わたし、ぜんぜんわからない」
「ごめん。 お父さんにもさっぱり」
こちらも画面から目を離さずに敦が答えた。
「難しいことはいいのよ。 サクラさんが上手に飛んでる、って事だから……」
由香子は、志津子の肩を抱いた。
「……しっかり応援しましょ」
「うん! おねえちゃん、がんばれ!」
画面の中では、長いスモークを引いた「ミクシ」がスタートパイロンに向けてターンをしていた。