アブダビラウンド(3)
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
『ついにレースが……中断されていたレースが始まりました……』
マイクを持った男が、カメラマンを連れてエプロンを歩いていた。
『……死亡事故を切っ掛けに、およそ2年の中断を挟み……再びここアブダビからシーズンの始まりです……』
男は、エプロンの端に立つ……青地にサクラの花びらが舞う模様の、簡易格納庫の前に来た。
『……今日から始まるレース、その公式練習の一番手にふさわしい……サクラ選手です』
『はい、サクラです。 くじ引きで決まったんですけどね、一番に飛ぶことになりました……』
マイクとカメラを向けられ、サクラは微笑んだ。
そう……公式には今日からレースが始まり、そしてサクラの会社によるインターネット配信も始まったのだ。
『……くじ引きですからね。 けして変な忖度は無いですよ』
『いやー サクラ選手は美しい方ですから、この順序は妥当ですよ……』
カメラは、サクラの顔をアップにした。
『……映画スターが、宣伝のためにレース機に乗る、って言われても納得してしまいます』
『レースには、容姿は関係ないですからね。 全ては各自のテクニック、そしてチーム員の努力に掛かってますから……』
サクラは、困ったように眉をひそめた。
『……そういう風に、俗な言い方はやめてください』
『これは失礼いたしました……』
インタビュアーは慌てて頭を下げ、カメラもバストアップの位置まで下がった。
『……改めて、このレースに掛ける思いなどを、お願いします』
『そうですね。 中断からそのまま終わってしまうと思われた……このレースが再び始まったことを喜んでいます。 出来れば、私もいずれマスタークラスで飛びたいですね。 そのためにも、チャレンジクラスで勝利したいです』
サクラは、真っすぐにカメラに向かって話した。
『サクラ選手、ありがとうございました。 がんばってください』
インタビュアーは一礼をすると、カメラマンを連れて立ち去った。
{『サクラ こちらレースコントロール 離陸して待機空域に行くように』}
格納庫の前の「ミクシ」のコックピットに収まったサクラは、無線を聞いた。
「(……よし!……)」
サクラは気合を入れると、キャノピーの外に向かって頷いた。
それを見て森山とマールクが、車止めを持って離れる。
{『レースコントロール こちらサクラ 離陸します』}
既に観客が近寄れないように、誘導路に続く通路の両側にフェンスが張られている。
サクラは、スロットルレバーを進めた。
フェンスの外に居る観客の顔が、「ミクシ」を追って……シンクロして……動くのが面白い。
その中に、チラホラと日の丸を振っているのが見える。
「(……こんなところにも、応援してくれる人が居るんだ……日の丸を描いといて良かった……)」
そう……「ミクシ」は今回から、垂直尾翼に「日の丸」を描いていた。
離陸したサクラは、待機空域で旋回していた。
キャノピー越しに上空を見ると、別の「エクストラ330LX」が同じように旋回していた。
「(……フローリアンも来てるね……)」
そう……なるだけ飛行条件が同じになるように、チャレンジクラスに出る者は固まって……連続で公式練習を飛ぶのだ。
サクラが待機空域を離脱するのに合わせてフローリアンが高度を下げ、次の選手がその上にやって来るだろう。
{『サクラ こちらレースコントロール レースコースクリア スタートしろ』}
全ての準備が出来たのだろう……
{『レースコントロール サクラ スタートします』}
サクラは、コースに向けて降下を始めた。
加速しないようにスロットルを調整しながら、サクラは「ミクシ」をコースのある入り江に向かわせた。
「(……高度300フィート……180ノット……このまま……)」
入り江に入る手前にハーバーのある小さな島がある。
そのため、高度はレースでの30メートル以下にする訳にはいかない。
入り江に入ってから高度を下げると、その位置エネルギー分だけ速度が早くなる。
その分を見越して、サクラは少し遅めに侵入していた。
「(……もう少し……)」
小島を超えて高度を下げながら、サクラは右にスタートパイロンを見ながらタイミングを計っていた。
「(……この辺で良いかな……)」
サクラは、スティックを右に倒した。
「ミクシ」は滑らかに右旋回を始めた。
「(……よし……)」
ほぼ90度回った所で、サクラは旋回をやめた。
正面にスタートパイロンが見えている。
「(……高度……よし……速度……200、よし……)」
パイロンは通過すべき高さにだけ色が付いているので、それを参考に高度を合わせればいい。
速度は、計器盤につけたデジタル表示を見て合わせる。
もうスタートパイロンは目の前だ。
{『サクラ スモークを出せ』}
コントロールから指示が来た。
見栄えを良くするためのスモークだが、しかし……もし出さずにコースを飛んだら、大きなペナルティを受けてしまう。
{『スモークオン』}
サクラは、スロットルレバーの近くに森山がつけたスイッチを入れた。
「ミクシ」の機首下側にある排気管から真っ白な煙が吐き出され、後に伸びていった。
二本並んだスタートパイロンの左側に、スラロームをする赤いパイロンが見えていた。
そのパイロンたちは……昨日は小動もせずに真っすぐ立っていたのに……今は、ゆっくりと左右に揺れていた。
「(……揺れてるよ。 風が吹いてる……)」
そう……今日は風が強く、その風がパイロンを揺らしていたのだ。
しかも周りに立っている高層ビルの所為で、風の強さが一定でなかった。
「(……上手く通ってくれよ……)」
斜めに通過することにしているので……それでなくても狭いパイロンの間が、パイロンが揺れているため更に狭くなっていた。
「(……くっ! 来るな!……)」
スタートパイロンを通過しようとするとき、左側のパイロンが風に吹かれて近寄ってきた。
しかしサクラにはどうしようもない。
「(……やっちゃったかな?……)」
もしかしたらヒットしたかもしれない、が……
「(……切り替えて行く……)」
過ぎたことを考えても仕方がない。
サクラは、スロットルレバーを前に倒し、左手を右手で持つスティックの下側に添えた。
直ぐ左前に赤いパイロンが見える。
「(……くっ!……)」
サクラは、スティックを左に倒し、同時に左ラダーペダルを蹴った。
それも0.2秒少々……
「(……くっ!……」
サクラはスティックを戻し、右のラダーペダルを踏んだ。
「ミクシ」は、主翼を垂直に立てて飛び始めた。
さっきの赤いパイロンは、今は頭上に見える。
「(……くっ……)」
サクラはスティックを引いた。
「(……ぐぅ……)」
途端に立ち上がるG ……
しかしそれも一瞬……
「(……くっ!……)」
サクラはスティックを右に倒した。
「ミクシ」は右にロールをする。
時間にして0.5秒足らず……
「(……くっ!……)」
サクラはスティックを戻し、ラダーペダルを右から左に踏み替えた。
スティックを引く。
「(……ぐぅ……)」
再びGがサクラを襲い、二つ目のパイロンが頭上を通り、三つ目のパイロンがエンジンカウルの下に消える。
「……くっ!……」
無意識のうちに漏らした気合の声と共に、サクラは「ミクシ」を左にロールさせた。
「(……ぐぅ……)」
これでスラロームは終わり。
垂直ターンの手前にあるパイロンに向かうため、この旋回はさっきまでより余計に旋回をしなければならない。
「(……ぅぅぅ……そろそろ……)」
しかも目標が無いので、感覚で旋回を止めて向かうことになる。
もっとも、そのために昨日から練習しているのだし、イメージトレーニングもしている。
サクラは、さっきまでとは違ってゆっくりと……比較してであり、旅客などに比べると十分早い……バンクを戻した。
「(……ん……まあまあ良い所かな……)」
直線飛行を始めた「ミクシ」は、無難な方向を向いて飛んでいた。
右前に二つ並んで立つ青いパイロンが見える。
「(……ここから……)」
サクラは、背景に見えるビルを見て……フリーフライトの時に確かめた……右旋回を始めた。
「(……よし……)」
見る見るうちにパイロンは近づき、その間がハッキリしてきた。
「……くっ!……」
気合と共に、サクラは「ミクシ」を水平にする。
直後、「ミクシ」はパイロンの間を通過した。
「……くっ!……」
サクラは、スティックを引いた。
「(……ぐぅぅぅぅぅぅ……)」
「ミクシ」は宙返りをはじめ、サクラはシートに押し付けられた。
「(……ぅぅぅぅ……まだ……)」
件の……桜吹雪の……フライトスーツに対G効果があるとは言っても、精々体感を数G減らせるだけだ。
しかも、なるだけ早くターンを終わらせるために、ルール上決まっている10Gギリギリを狙ってスティックを引き足していく。
サクラは目の前が暗くなりそうなGを感じながら、それでも顔を上げて降下すべきコースを見ていた。
「(……ぅぅぅ……もうすぐ……)」
頭上から水平線が降りてくる。
「(……ぅぅぅ……よし!……)」
並んだパイロンがエンジンカウルに隠れた瞬間、サクラはスティックを戻しロールを始めた。
「(……ズレてる……)」
90度程ロールしたあたりで、サクラはコースが左にズレていることに気が付いた。
「(……ヤバいよ。 ループ中に風に押されてたんだ……)」
そう……今日は横風が強く吹いていたのだ。
うっかりと、それを忘れていたサクラは、風に対する修正をしていなかった。
「(……間に合うか?……)」
サクラは、スティックを左に倒したままで、少し手前に引いた。
それにより「ミクシ」は、右に向きを変えた。
「(……斜めに入っちゃう……)」
そう……ズレたところからパイロンを狙ったせいで、まるでスタートパイロンを通過するときのように、斜めにパイロン間を通ることになった。
「(……こいつらも揺れてるよ……)」
並んだパイロンは、仲良く風に揺れている。
「(……高度OK……)」
もう、十分高度は下がっている。
サクラは、ロールを止めてスティックを引いた。
「(……くぅぅ……よし水平……)」
短時間Gが立ち上がり、「ミクシ」は水平になった。
「(……寄ってくんな!……)」
パイロン間を通過するとき、スタートの時とは違って右のパイロンが近づいてきた。
正面に赤いパイロンが見えている。
「(……あいつの右側……ん?……もう向いてるよ……)」
そのパイロンの右側を垂直旋回で通過するために、少し右に旋回しなければならなかったはずなのに、既に進行方向が右を向いていた。
「(……ラッキー!……)」
ケガの功名か?……さっき斜めにパイロン間を通ったお陰で、旋回をする必要が無くなっていた。
「……くっ!……」
サクラは、スティックを左に倒し、左のラダーペダルを踏む。
「……くっ!……」
機体が垂直になった所でスティックを戻すと少し引き、右ラダーペダルを踏んだ。
赤いパイロンが頭上を通る。
「……くっ!……」
サクラは、スティックを右に倒して機体を水平にした。
目の前に対になったパイロンが有る。
「(……よし! ドンピシャ……)」
ここは、練習通り上手く飛べたようだ。
「……くっ!……」
パイロン間を通過したとき、サクラはスティックを左に倒し、左のラダーペダルを踏んだ。
「ミクシ」は、大きく左旋回を始めた。
「(……くぅぅぅぅぅぅ……)」
さっきまでに比べたら、比較的Gは小さい。
「(……ちょい抜いて……ちょい足して……)」
サクラは、次の……ナタリーに指摘された……追加されたパイロンを通過するために、細かく旋回半径を調整する。
「(……よし、良いところに来た……)」
パイロンが、正面に見えた。
「(……意外と揺れてない……)」
このパイロンは、風に揺れている様子が無かった。
何故か?
さっきまでと飛行方向が90度変わっているので、サクラから見て揺れが左右でなく前後になっていたのだった。
「(……今のうちに……)」
理由を考えている暇はない。
「……くっ!……」
サクラは、「ミクシ」を水平にした。
直後「ミクシ」は、パイロンの間を通り抜けた。
「(……ちょい抜いて……もう少し……足して……足して……)」
二周目に向けて、サクラはスタートパイロンに向けて細かく修正しながら「ミクシ」を誘導していた。
「(……一本しかないよ……はぁ……ヒットしてたんだなぁ……)」
そう……その向かっているスタートパイロンは、二本立っているはずが一本しか無い。
サクラがスタートするときに、主翼を当てて切り飛ばしていたのだった。
軽い布で出来たパイロンは、機体が僅かでも接触すると破けてしまう。
そうすると、空気で膨らんでいるパイロンは萎んでしまい、立っていられなくなるのだった。
「(……あいつの左を通る……)」
悔やんでいても仕方がない。
残った右側のパイロンを頼りに、二周目を始めなければならなかった。
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「……さあ、サクラ選手が二周目に入りますが……スタートパイロンは一本しか立ってません……」
ライブで流れているネット放送が、志津子の前にあるパソコンから流れている。
そう……学校から大急ぎで帰ってきた志津子は……時差のお陰で……サクラのフライトをライブで見ることが出来ていた。
「(……ぶつかっちゃたんだよね。 おねえちゃん、どうするんだろ……)」
画面の中で、サクラの「ミクシ」がパイロンに近づいている。
「……レース中には、パイロンを直せませんからね。 この場合は、其処にパイロンが有る、と思って飛ぶんです……」
放送はローカライズされていて、日本語で解説が入った。
「(……あ、そうなんだ。 おねえちゃん、がんばれ!……)」
志津子が見ているうちに、「ミクシ」はパイロンのすぐ横をとびぬけた。
「……さあ、今残ったパイロンの左側を通って、二周目だ……」
「良いコースですよ。 一周目も上手くスラロームに侵入しましたが、今回も同じコースを飛んでいます」
「そうですね。 先ほどは、風によって近づいてきたパイロンをヒットしてしまいましたが、スラロームはスムーズに行きましたよね」
画面の中の「ミクシ」は、翼を縦にしてパイロンのすぐ傍を通っている。
「(……あ、おねえちゃんが、うつった……)」
腕のいいカメラマンなのだろう……コックピットがアップで写された。
真っ赤な髪がヘルメットから零れ、胸が大きく前に張り出している。
「……さあ、縦のターンに向かいます……」
ズームは戻され、「ミクシ」が対になったパイロンに向かっているのが映った。
「さっきは、上手く機体を捻ることで、次のパイロンに機体を向かわせましたが、あれは凄かったですね」
どうやら解説者はサクラの失敗を、意図して飛んだものと勘違いしているようだ。
「あれは、難しいんですか?」
「ええ、あんな風に機体を捩じりながらループをするのは、大変難しい操作になりますね」
「そうなんですね……さあ、サクラ選手、エレベーターを引いてループに入った!」
「ミクシ」は、大きく機首を上げた。
「……サクラ選手、上手くGをコントロールしています……」
画面の下隅に表示されているGメーターは、9.5~10を指している。
「この機体は、エンジンのパワーが大きいんでしょうね。 随分と上昇してるようです……」
そう……上を向けば速度が落ちるはず……そうすれば、更にエレベーターを引くことが出来る……つまり早くターンが出来る……それなのに「ミクシ」は速度があまり落ちないので、結果としてサクラはエレベーターを引き足すことが出来ないのだ。
「……これは、ターンに時間が掛かってしまいますね」
「ちょっと勿体ないですね。 っと……頂点を過ぎて、ロールを始めました」
「やはり、一回目と同じように捩じっています。 良いコースですよ」
ロールしながら急降下した「ミクシ」は、並んだパイロンの間を飛びぬけた。
画面の中では、「ミクシ」がゴールに向けて最後の左ターンをしていた。
「(……もう少し……おねえちゃん、がんばれ!……がんばれ!……)」
応援する志津子の体感としては、長い時間……実際は数秒……
「さあ、今!……サクラ選手、ゴールしました!……」
「ミクシ」は、一本残ったスタートパイロンの側を通過した。
「……タイムは……58、335秒です。 これが、これから飛ぶ選手の参考タイムとなります」
「いや、パイロンヒットをしてますから……2秒足されてしまいます」
そう……パイロンヒットのペナルティは、2秒なのだ。
「あ、そうですね。 という事は、60,335ですか」
「そうなりますね。 ま、パイロンヒットが無ければ58,335ですから、それが参考にはなるでしょうね」
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サクラは、スティックを引いて「ミクシ」を上昇させた。
「(……ふぅ……終わった……)」
左手をスロットルレバーに戻しながら、一つ息を吐く。
「(……パイロンヒットしたのは、悔しいな……)」
{『サクラ こちらレースコントロール 空港に帰りなさい』}
さっきまで黙っていた無線が入った。
{『レースコントロール 了解 空港に向かう』}
サクラは、機首を空港に向けた。