アブダビラウンド(1)
ここでは「」で括られたセリフは日本語 『』で括られたセリフは日本語以外です。
{ }で括られたものは無線通信を表します。
中東アブダビにあるプライベートジェット用空港……そこのエプロンにサクラは立っていた。
砂漠の国と言っても流石に1月はそれほど暑くはなく、日本の5月程度の気温で過ごしやすい。
『今日も風が強いわね……』
隣に立ったイロナは、頭に巻いたスカーフを押さえた。
『……飛びにくいんじゃなくて?』
『そうだね。 でも、皆同じ条件なんだから……』
サクラは、イロナを見た。
『……これに慣れないとね。 あ、ナタリーが降りたね……』
目の前の滑走路に、黒い塗装の小型機が着陸した。
『……さあてっと。 私も、もう一度飛んでこようかな』
レースのアブダビラウンドが行われるまで、あと1週間……
サクラがアブダビに乗り込んできたときには、ナタリーは既に来ていたのだった。
夕方になり、借りている格納庫に「ミクシ」を仕舞ったサクラは、隣の格納庫に居るナタリーの下に行った。
『ねえ、ナタリー……』
ナタリーは、腰に手を当てて黒い「エクストラ330LX」を見ている。
サクラは、ファイルを取り出した。
『……これで間違いないのかな?』
『ん? どれ?』
ナタリーは、手を下ろして振り返った。
『これ。 今度のレースコースなんだけど……』
サクラは、ファイルを差し出した。
『……何だかオシュコシュのコースに似てない? 間違えてオシュコシュのコースをプリントしたんじゃないよね』
そう……来週から行われる、今年1回目のレースのコースは……侵入方向こそ違っているが……去年のオシュコシュで飛んだデモコースによく似ていた。
『大丈夫だと思うわよ。 ほら……』
ナタリーは、ポケットから折りたたまれたプリントを取り出した。
『……私の手に入れたのと同じよ』
『ホントだ……』
サクラは、ナタリーの手元を覗き込んだ。
『……んじゃ、これで良いんだね。 でも、何故こんなに似てるんだろ?』
『私が決めたんじゃないから分からないけど……多分、皆久しぶりのレースだから……トチらないように……間違えないように、見慣れたコースにしたんじゃないかしら』
ナタリーは、サクラの顔を見た。
『そんな事かなぁ?……』
サクラは、視線を感じてナタリーを見た。
『……でも、これじゃ私たちデモを飛んだ者が有利だね』
『あら? そう思う?……』
ナタリーは、微笑んだ。
『……よく見て、パイロンの数が増えてるわよ』
『ん~ そう言われてみれば……』
サクラは、首を傾げた。
『……縦のターンまでは同じようだけど……その後の横のターンの途中に青パイロンが立ってる?』
『そう……そこで上手く旋回を合わせないと、大きくタイムを落とすわよ……』
ナタリーは、ウインクをした。
『……これって、意外とデモコースを飛んだ者は、引っかかるかもね』
『そ、そうかも……ナタリーに聞いてよかったかもしれない』
サクラは、ポカンとナタリーを見た。
遂にレースの行われる一週間が始まった。
これまでだだっ広かったエプロンには、カラフルな装飾のされた簡易格納庫が並んでいた。
「(……やっとここまで来た……)」
その中の一つ……青地に赤い桜の花びらが舞っている装飾……新参者故か、一番端……の前にサクラは立っていた。
『サクラ……』
メイが、格納庫列の方から歩いてきた。
『……ここにいたんだ。 もう直ぐパイロットミーティングがあるよ』
『ん。 何だか感慨深くてね……』
サクラは、メイと一緒に歩き出した。
『……やっとレースができる』
『そうだね。 サクラの夢が、サクラの力によって実現した』
メイは、横を歩くサクラの横顔を見た。
『私だけの力じゃないよ。 沢山の仲間たちが頑張ったんだ……』
サクラは、メイの顔を見た。
『……勿論、その中にメイも居るからね』
『ありがとう。 そう言ってもらえると嬉しいよ』
メイは、サクラの肩に手を回した。
格納庫の前に、白や黄色、シルバー、紺……カラフルで大胆なカラーリングの小型機が並んでいた。
その中の一機……青地に赤い桜の花びらのカラーリング……そう「ミクシ」のコックピットに収まり、キャノピーを開いたままサクラは無線を聞いていた。
横には森山とマールクが立っている。
{『マーティン こちらレースコントロール フリーフライトタイムアップ 空港に帰れ』}
{『レースコントロール 了解 空港に帰る』}
今日は、レースコースを自由に飛べる日だった。
エキスパートクラス14人、チャレンジクラス6人、合わせて20人が飛ぶのだ。
一人当たり10分に制限しても、午前午後それぞれ一回しか飛べない。
そのため皆、制限時間をいっぱい使って、コースに慣れようとしていた。
{『サクラ こちらレースコントロール 離陸して待機空域に行くように』}
フライト順はくじ引きで決めたので、エキスパートクラスとチャレンジクラスの区別なく順番が来る。
「(……よし! 来た……)」
『無線が来たよ。 行くね』
サクラは、森山とマールクに言って、キャノピーを閉めた。
森山とマールクは、車輪止めを持って離れた。
{『レースコントロール こちらサクラ 離陸します』}
{『マティアス こちらレースコントロール レースコースクリアー』}
サクラの通信に被さるように無線が聞こえた。
「(……あれ?……通じなかったかな……)」
{『レースコントロール こちらマティアス コースに侵入する』}
戸惑うサクラを置き去りに、無線は話されている。
「(……ま、いいか……)」
{『アルバティーングランド N821CG リクエスト タキシーRW13』}
離陸が遅れると、待機空域に到着するのが遅くなるかもしれない。
今コースに侵入したマティアスの時間が終わるまでに着かないと、フリーフライトの時間が短くなってしまう。
サクラは、サッサと離陸することにした。
{『 N821CG アルバティーングランド タキシー許可 RW13手前でタワーに連絡』}
この一週間はレース機に遠慮しているのか、一般の機体が飛んでこないので、管制は直ぐに答えた。
{『アルバティーングランド N821CG タキシーRW13 RW13手前でタワーに連絡』}
サクラは、アイドリングで回っていたエンジンの回転を上げた。
「(……周りが囲まれていて、狭いね……)」
サクラは、待機空域からレースコースを見ていた。
コースは人工的に作られたビーチとヨットハーバーに挟まれた場所に設定されていて、何棟かの高層ビルが立っている。
今は白い機体が、スモークを引きながらパイロンを回っていた。
「(……ビーチの方は飛行禁止エリア……)」
そちら側に高層ビルが建っているので、当然だろう。
「(……ハーバーの近くを、ハーバーを右に見てスタート……)」
サクラは、計器盤正面に貼り付けてあるコース図を確かめた。
「(……これなら、低く近づいても大丈夫だね……)」
そう……そっちがこの入り江の入口だから、水面が広がっている。
「(……スタートして、スラローム……左、右、左と旋回して……右旋回して縦のターン……これ飛行禁止エリアが近い……)」
丁度縦のターンをする所が、高層ビルの正面になっている。
「(……低く降りたら、パイロンに沿ってビーチの近くを通る……青パイロンで左のターン……途中にも青パイロンがあるから、上手く旋回を合わせて間を通らなくちゃ……)」
そう……途中にあるパイロンにより、単純に一定半径で飛べばいい、という事ではなくなっている。
「(……で、スタートに戻る……)」
{『マティアス こちらレースコントロール 時間だ 空港に帰れ』}
飛んでいたエキスパートクラスのマティアスが、時間切れになったようだ。
{『レースコントロール 了解 空港に帰る』}
マティアスの機体は、急上昇した。
「(……よし! 私の番だ……)」
{『ハンネス こちらレースコントロール 離陸して待機空域に行くように』}
意気込むサクラだが、無線は次のパイロットへの指示だった。
{『レースコントロール こちらハンネス 離陸する』}
パイロットからの返事が聞こえた。
直後……
{『サクラ こちらレースコントロール レースコースクリアー』}
待望の無線が入った。
{『レースコントロール こちらサクラ コースに侵入する』}
サクラは、スロットルレバーを引いて「ミクシ」をコースに向けた。
ハーバーを右に見て「ミクシ」が飛ぶ。
「(……時間は有るんだから、先ずは安全に一周しよう……)」
そう……フリーフライトは10分有る。
二周するのに1分程度しか掛からないのだから、最初からコースを攻める必要はないのだ。
サクラは速度を180ノットに落とし、高度も50メートルと高くした。
チェッカーフラッグ柄のポールが2本、「ミクシ」の両翼の下に消える。
「(……よし! スロットル フル……)」
サクラは、左手で握っていたスロットルレバーを進めて、その手をスティックに添えた。
「(……くっ!……くっ!……)」
先ずスラロームなのだが、その並んだ赤いパイロンは僅かに……嫌らしいことに……右にズレている。
サクラは、スティックを右に倒し直後左に倒した。
これにより「ミクシ」は、左翼を下にした「ナイフエッジ」状態でスラロームの最初のパイロンの右側に向かうことになった。
「(……もうちょい!……もうちょい!……)」
右ラダーペダルを踏んで「ミクシ」を支えながら、サクラは近づくパイロンを見つめた。
「(……よし!……)」
パイロンが左下に見えたところで、サクラはスティックを引いた。
「(……くうぅぅ……)」
「ミクシ」はパイロンを巻くように曲がり、途端に立ち上がるGに、サクラは堪えた。
しかし、それも一瞬……
「……くっ!……」
サクラは、スティックを戻すと右に倒した。
遠くに見えていた高層ビル……横倒しに見えている……が左に回り反対向きに倒れた。
「……ふんっ!……」
左ラダーペダルを踏んで、機体が下がるのを防ぎ……
「……くっ!……」
空かさずサクラはスティックを戻し、お腹に付くほど引いた。
「(……くうぅぅ……)」
再びGにより、サクラはシートに押し付けられた。
それも一瞬……
「……くっ!……」
サクラは、スティックを戻すと左に倒した。
横倒しの高層ビルが、今度は右に回った。
「……ふんっ!……」
右ラダーペダルを踏んで、機体が下がるのを防ぎ……
「……くっ!……」
空かさずサクラはスティックを戻し手前に引いた。
「(……くうぅぅぅぅぅ……)」
再びGにより、サクラはシートに押し付けられた。
「ミクシ」はスラローム最後のパイロンを回り、機首を反対側の岸辺……ビーチの方向に向けた。
「……くっ!……」
サクラは、引いていたスティックを戻し右に倒した。
「(……はぁ……)」
一瞬ではあるが、「ミクシ」は水平飛行に入り、サクラは息をついた。
右前に二本並んだ青いパイロンが見える。
「(……何処まで行く?……)」
次は、そのパイロンを水平に通過した後、縦のターンをする。
何処かで右旋回をして、それに向かわなければならない。
何も目標がないので、サクラは取り敢えずヤマカンで旋回することにした。
「(……そろそろ良いかな?……)」
サクラは、スティックを右に倒し、右ラダーペダルを蹴った。
「ミクシ」は右旋回をする。
「(……遅かった!……)」
旋回が遅かったのだろう……「ミクシ」が二本のパイロンの間を向いたとき、そのパイロンの間は狭く見えるようになっていた。
「(……ま、練習、練習……このまま飛んでみるかな……)」
そう……今はあくまでも練習の時間だ。
失敗も経験になる。
サクラは、そのまま「ミクシ」をパイロンの間に向かわせた。
「(……あちゃー……高く飛んでなかったら、パイロンヒットしてるよ……)」
余裕を持って高く飛んでいたので「ミクシ」は何ともなくパイロンを通過したが、どう見ても機体はパイロンの上を飛んでしまった。
「……くっ!……」
ただそんな事を考えている暇はない。
サクラは、スティックを引いて宙返りを始めた。
「(……くうぅぅぅぅぅ……)」
当然のようにGがサクラをシートに押し付ける。
「……くふっ……くふっ……くふっ……」
着こんでいる対Gスーツのお陰で、血液が下がることによる貧血のような症状は起こさないが、呼吸はしにくくなる。
サクラは、細かく息を吐いて酸欠になるのを防いだ。
苦しくなって、ついスティックを戻そうとするのを我慢しながら、サクラは首を大きく上げて「ミクシ」の降下地点を見つめていた。
「(……くっ……も、もうすぐ……)」
そこには対になった青いパイロンが、逆さまに見えている。
そしてそれが正面に見たとき……
「(……ロール……)」
サクラは引いていたスティックを戻し、左に倒した。
「ミクシ」は背面降下の姿勢から左ロールを始めた。
水平飛行を始めたところで「ミクシ」は、並んだ青いパイロンの上を通過した。
前方には一本の赤いパイロンと、その先に対の青いパイロンが見える。
「(……あいつの横を通って、青パイロンから左旋回……)」
右にビーチを見ながら、サクラはコースを確かめた。
「(……ビーチの上は飛行禁止エリアだから、赤パイロンのスレスレを飛ばなくちゃ……)」
そう……ビーチには、沢山の観客が……まだ練習だというのに……集まっていた。
「(……水平……OK……)」
赤パイロンの上を緩やかな左旋回で回り、サクラは対になった青パイロンの間に向けて「ミクシ」を水平飛行させた。
直ぐに青パイロンは近づき……
「……くっ!……」
パイロンの上で、サクラは左旋回を始めた。
「(……あそこ……)」
横のターンとは言っても、機体は殆ど真横に倒れている所為で、進行方向は頭上に見える。
サクラは宙返りの時と同じように、頭を上に向けて、更に上目遣いで次の青パイロンを見ていた。
だんだんと対になった青パイロンが正面に見えてくる。
「(……よし、ここだ!……)」
サクラは、パイロンが完全に正面になるまえに「ミクシ」を水平にした。
そう……対になった青パイロンを通過するときは、機体は完全に水平飛行をしていなければならない。
その為この横のターンは、途中で旋回を中断することになる。
「(……よし! 通過……旋回……)」
水平飛行をするのは一瞬で、直ぐにサクラは左旋回を再開した。
「(……あそこがスタートパイロン……)」
再び上を向いたサクラはついさっき……ほんの30秒前……通過したチェッカーフラッグ柄のパイロンを見ていた。
それを通過して二周目が始まるのだが……
「(……取り敢えず、仕切り直すかな……)」
サクラは、一旦コースを飛ぶのを止めることにした。
「(……コースに不安はないから、正規の高度で飛ぼう……)」
特にコースに問題はない。
サクラは最初に決めた通り、改めてスタートを切り直すことにした。
ビーチのそばに立っている高層ビル。
その最上階の一室に、メイはメアリと共に居た。
近くに置いた無線機から、エアバンドの交信が流れている。
『此処は良い場所だね、姉さん。 コース全体が良く見える』
『そうね。 流石はヴェレシュだわ。 ここって、前の住人に譲ってもらったそうよ。 いくら払ったか? 考えたくないけど』
『そうだね。 そこは考えないでおこう……っと、サクラがコースに侵入してくる。 姉さん、ビデオカメラをお願い』
『了解。 しっかり撮っておくわね。 あなたもしっかり見て、対策を考えるのよ』
『分かってるよ。 サクラが僕に、タクティシャンを任せてくれたんだ。 最高のコース取りを見つけてみせるよ』