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夕刻を知らせる教会の鐘が鳴り響いた。私は目を擦りながら上半身をゆっくりと起こした。
泣きながら眠ったせいで目が腫れている。きっと鏡に映れば酷い顔だろう。
視線を閉め切った厚いカーテンの隙間の先に向けると太陽はとうに沈み、残った僅かな光だけが空を照らしている。今は夜を告げる一番星が燦然と輝いていた。人通りも夜となっては喧噪な昼間と違い静まり返り、家路へ急ぐ人が数人いる程度だった。
残りの太陽光が消えてしまう前にランプに明かりを灯さなければ。私は床に足をつけると薄暗い中、ランプが置いてある部屋の隅まで歩いた。手早くランプに明かりを灯すけれど、その範囲はたかが知れている。
部屋全体を明るくするには壁に掛けている蝋燭をつけなければいけない。
そう思いくるりと方向転換した途端、私の心臓は大きく跳ねた。
店に帰って鍵も閉めずにそのまま寝入ってしまった非は私にある。強盗に押し入られても不用心な私がとやかくいう権利はないに等しい。ただ強いて言わせてもらうなら、盗むなら寝ている間に金品を盗んで行ってくれた方が良かった。
一体どうして現在進行形で目の前にニコリともしない無表情で皺だらけの老婆の顔が浮かび上がっているでしょうか、神様?
未だ寝ぼけていた私の頭は相手の顔をじっと見つめる。やがて、あることを思い出して目を見開いた。
「サンおばさん!?」
サンおばさん、もといサンドラ。おばさんと言っているけれど血の繋がりはない御年七十の老婆である。彼女は母が死んだ直後にふらりとこの町に現れた放浪薬師だ。私に薬師の才があると見込んで知識を教えてくれた師匠でもある。
なんでここにサンおばさんがいるの? だって、おばさんは『余生を聖地で過ごしてぽっくり死ぬんだ』とか言って去年の今頃に聖地巡礼の旅に出たのよ。なのに、どうして……?
混乱する頭の中で何度も整理して出た結論は一つしかない。私は口元に手をあてて青褪めると一歩後ろに下がった。
「……もしかして死んで戻って来た? 私を道連れにするために?!」
「勝手に人を殺すんじゃないよ。いつまで脳みそ寝かせてるんだい。アタシャちゃーんと生きとるがな」
サンおばさんは突っ立っているだけの私からランプを奪い取ると、必要なぶんだけ壁掛け蝋燭の火をつけていく。小柄なので背伸びをして蝋燭に火をつけ終えると、腰に手をあてて良しと言って大きく頷いた。
部屋はさっきよりも明るくなり、隅々まで見えるようになった。
「まったく、良くもまあ鍵もかけずに熟睡していたもんだよ。入ったのがアタシじゃなかったらどうするんだい。ちょっとばかし賞味期限が切れたとはいえ、ルナはまだ年頃の娘なんだ。狼に襲われるかもしれない自覚をお持ち!」
最初の部分はとても余計ですが、心配のお言葉ありがとうございます。
相変わらず元気そうなサンおばさんに私は感謝を述べる共に、何故ここに戻って来たのかを尋ねた。
「積もる話はいっぱいあるだろうけどね、ご飯を作ったから食べながら話そうじゃないか」
イッヒッヒと歯をむき出しにして不気味な声で笑う。その言葉に私はぱっと笑顔になると大きく返事をした。――得意の腹の虫で。
店として使っている部屋の奥には扉があり、そこから先は生活スペースとして活用している。一階は台所と居間、地下へと続く貯蔵庫などがあり、二階は客室と寝室がある。
言葉の通り、サンおばさんは沢山の料理を作ってテーブルに並べてくれていた。
湯気の立つカブのスープに蒸したジャガイモとそれにかかったヤギのチーズ。そして子羊の骨付き熟成肉と白くて柔らかい小麦のパン。
随分と豪華な品数に驚いていると、久々に会ったんだからこれくらいはしないとね、と茶目っ気溢れるウィンクをしながらサンおばさんは席に着く。私も席に着くと早速料理を堪能し始めた。
「帰って来る途中、行商人の連中に聞いたよ。あの商業組合長の息子に捨てられて賭けをしているんだってね。私の可愛い弟子を酷い目に遭わせるなんてあの青二才に下剤でも飲ませて広場の木にくくりつけて醜態を晒してやりたいくらいだよ!」
サンおばさんは怒りを露わにすると骨付き肉にガブリと噛みついた。
この話は町中どころか隣町、いや領内にまで広まっていそうで怖い。私は小麦のパンを齧りながら俯いた。
人の噂も七十五日って言うけどあとまだ約六十五日もあるなんて……。一体どこまで拡散されるのよ。沈静化する前に他領にも広がるのだけはやめて欲しいわ。
「それでも流石はアタシの愛弟子さ! アタシの薬のレシピはちゃんと誰にも漏らさず守ってくれたみたいだね」
葡萄酒を飲んで赤くなった顔を綻ばせる。滅多に褒めてくれないサンおばさんに褒められて私は思わず顔を上げてはにかんだ。酒も進んで上機嫌になったところで、最初の問いに私は話を戻ることにした。
「サンおばさんはどうして町に戻って来たの? 聖地で余生を過ごすんじゃなかったの?」
「嗚呼それかい。聖地で豪遊してぽっくりしたかったんだけどアタシの顔を知っている奴がいて死ねなくなったんだ。だからまた旅を始めたんだよ」
目の前にいる放浪薬師はとある国のお妃様の不治の病を治したとかで上流階級の間ではかなりの有名人。いろんな国の上流階級が集まる聖地でバレてしまえば注目の的となるのは間違いない。きっと心は休まらなかったのだろう。
私が聖地でのサンおばさんを想像していると、彼女は話を切り出した。
「タイミング良くアタシが帰って来たんだ。暫く店番をしてあげるよ。じゃないとこの町の連中は困るだろう」
サンおばさんの言うことはもっともで皆、私が店を閉めているせいで困っているに違いない。それこそ私がいない間に万が一でもあのブルネット女が薬草店を開いてしまえばお客は確実に取られてしまう。そんなことはご免だ。
「分かりました。では暫くお店を預けますのでよろしくお願いします。あと、労働の対価は売上の一割ということで」
「イッヒッヒ。交渉成立だね。ほんじゃあまずは――」
サンおばさんはニヤリと意地の悪い笑みをした。
「この料理の材料代、銀貨一枚よこしな。私は一割しか払わないよ」
私は苦虫を噛み潰したような顔をした。通りでいつになく料理が豪華だったはずだ。抜かりない老婆に私は肩を竦めた。