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58 ブルネット女6


 

*****


 貴公子が現れたという一報が届いたのは、私が居間で宝石商が持って来た新しいアクセサリーを選んでいる時だった。


 小間使いを使って頻繁に薬屋の前を通らせていたから間違いない。

 私はアクセサリーを選ぶのも忘れて自室に引っ込んだ。

 机に向かい、手紙をしたためるとそれを小間使いに渡して命令する。


「これを明日の朝、あの方に」

 順調にことが運べば、この屋敷や婚約者とも明日でさようなら。

 成り上がりの屋敷は貴族の屋敷に比べれば高が知れている。私に与えてくれた部屋も一つしかなかった。

 貴公子の屋敷ともなれば、立派なお屋敷に沢山の部屋、豪華な調度品に囲まれて幸せに暮らせる。

 私は机の上にある小瓶を指先で撫で、紅潮した顔でいつまでもそれを眺めていた。




 翌朝、いつも以上に肌の手入れと化粧を施した私は商館にいた。

 理由は昨日買わなかったアクセサリーが、やっぱり欲しくて堪らなくなったから。

 婚約者は最近忙しくて屋敷に帰って来ない。可愛く拗ねればきっと宝石商をもう一度呼んでくれる。


 廊下を歩くものの、組合員の誰とも顔を合わせない。麦の買いつけに忙しくて、事務作業をする暇もないのかもしれない。

 考えを巡らせながら、執務室のある突き当りを曲がると、人影が視界に入った。


 それは男ではなく女の、しかもとても貧相なシルエット。

 意識して見れば、なんとそれは唐変木だった。

 一体何をしにここに来たのか。見た目はひょろひょろなくせに、神経だけは図太いんだから。だけど、そうしていられるのも今のうち。

 きっと貴公子から見放された途端、惨めな姿で悲泣するの。

「うふふ。今からあの人は私のものになるけれど、悪く思わないでちょうだいね。あなたの分まで私が幸せになってあげる」

 私は颯爽と横切って、執務室中に入った。


 すると部屋の中では、婚約者が怒り狂っていて、机に拳を打ちつけていた。

 理由を訊くとあの女がわざわざ嫌味を言いにここに来たのだとか。そして眉唾物の黄金のリンゴの決着は明日になったらしい。

 一先ず彼を宥めるものの、なかなか機嫌は直らない。

 そうこうしているうちに貴公子との約束の時間が迫っていたので、私はアクセサリーを諦めて水車小屋へと急いだ。



 水車小屋は放牧区域のところにあるから馬車では行けない。舗装されたギリギリまでを馬車で移動し、残りは自分の足で丘を登った。

 本当は町で会いたかったけど、人気の少ない場所で会えば誰の目も気にせずに愛し合えるでしょう?

 貴公子が私に溺れていく姿を想像するだけでぞくぞくと鳥肌が立つ。


 震える腕で自分自身を抱き締め、丘を登りきると、水車小屋には既に貴公子が待ってくれていた。

「ごきげんよう。約束よりも早く来てくれて、とても嬉しいわ」

 傍へ寄ると、貴公子は美麗な顔をこちらに向けた。朝焼けの太陽のように輝く黄金の瞳が、私だけを見つめる。まるで世界が私たち二人だけもののように感じてしまう。


 その熱い視線によって、私の口から溜息が漏れた。

「嗚呼、やっぱり私の運命の人」

 つい出てしまった言葉に、彼は無表情のまま目を細めた。

「……何を勘違いしておるか知らぬが、其方が望む権力も財も何一つ持っておらぬ。我は運命の相手ではない。そもそも人間のいう運命など、我らと違って羽のように軽い」

「隠さなくてもいいのよ。あなたが高貴な身分であることくらい、私の目にかかれば一目で分かるわ。そしてあなたは商業組合長の息子と違って、私を幸せにしてくれる」


 彼は長い溜息を吐いて俯き、眉間を揉んだ。

「話にならんな。まずは人を侮蔑する態度は改めた方がいい。そして大事にしてくれる相手を蔑ろにするな。あの男は其方に惚れておる。甘やかしてくれるし、其方の望む幸せを与えてくれているではないか」

「あなたと一緒になれる未来のためなら、今あるものを捨てても構わないわ」

 貴公子は眉間を揉むのをやめ、さっと顔を上げる。そしてはっきりと私に言った。

「我は其方のことなど少しも興味がないし、その自慢の容姿も全くそそらぬ」

「……は?」

「その美しさも若さも永遠ではない。枯れる時が必ず来る。その時までに内面を磨かねば、其方は破滅する」

 私はただただ目を瞬かせて首を傾げる。


「何を言っているの? 外見の美しさこそがこの世のすべてでしょう? 内面なんて磨くに値しないわ。外さえ磨いていればどんな男も私の前に跪くもの」

 今日だって、気に入られるように彼好みの清楚な衣装に身を包んでいるし、肌の手入れは念入りに行っている。


 貴公子は悲し気に瞳を閉じると首を横に振った。

 その姿は屈辱だった。私の美貌を否定して拒絶するなんておかしい。

 私は悔しくて下唇を噛み、掌に爪が食い込むほどきつく握りしめた。

 しかしよく考えれば、彼が私に靡かないのも当然だった。

 何故なら、彼はニルヌの香水で唐変木に魅了されているから。

 そんな相手に何を言ったって無駄だ。私に興味がないのもきっとそのせい。


「大丈夫。私の望む未来はこの手の内にあるわ」

 私はポケットに忍ばせていた小瓶を取り出した。

 事前に匂いを嗅いでみたけれど、葡萄酒のようなアルコール臭と甘い匂いが仄かに香るだけだった。普通の香水と違ってきつい香りではない。


 私にずぶずぶな彼の姿を一刻も早く見たくて、衝動的に頭の真上で小瓶を逆さまにした。

 丁度教会からは鐘の音が鳴り響く。

 これが鳴り止む頃には、貴公子は私のものになる。

 最後の一滴まで香水を浴びると、小瓶を地面に投げ捨てた。

 そして両手を広げて彼が私の胸に飛び込んでくるのをじっと待つ。


 けたたましい鐘の音もやみ、長閑な風景に合った川のせせらぎと水車の水音が聞こえ始めた。

 ――それからややあって。

「其方は何がしたいのだ?」

 彼は私に夢中になるどころか、怪訝そうな表情を浮かべていた。



 どうしてニルヌの香水が効かないの!?

 面食らっていると、足元から何かが這い上がってくるような不気味な感覚がする。

 自ずと視線を下げると私の足元には無数のクモが寄り集まっていた。


 子供時代を過酷な農村で過ごす羽目になった私にとって虫くらい平気。だけど、私はクモが大の苦手だった。

 触れるのも、視界に入れるのも嫌なくらい、アレはおぞましい生き物だ。

 それなのに大小様々なクモが這い上ってくる。


 服の外と中……下手をすれば下着の中にまでクモが入り込んでいるような感覚がする。私が後退れば、それに合わせてクモたちも一緒に移動する。

 払っても踏んづけても、その量は一向に減らない。それどころか身体を這う薄気味悪い感覚が濃くなっていく。


「ヒィッ! いやっ、離れなさいよ!! い、いやああああっ……!!」

 クモから逃れたい一心で、必死に身を捩った。




*****


 どうやって屋敷に帰ったのかは覚えていない。

 気づいた時には、私の首から下は湯船に浸かっていた。

 水捌けのよいタイルの上に、背の低い大樽が設置された浴室。


 広い場所とは言えないが、数人のメイドが私の身体を綺麗に洗ってくれた気がする。

 湯の温度は適温であることに加え、首後ろは疲れないようにクッションが置かれている。彼女らの気配りが窺えた。

 後ろの方から聞こえてくる忙しない物音に耳を傾けながら、私は自分の足先をぼーっと見つめる。

 瞼が重いし、このままもうひと眠りしようかしら。そんなことを考えていた。


 私の意識が漸く覚醒したのは耳元でジョリジョリという不気味な音を聞いた時だった。

「何をしているの!?」

「お嬢様、危ないので動かないで下さ……あっ!」

 背後にいた若いメイドの言葉を無視して起き上がる。

 後ろを振り向けば、凄惨な光景を目の当たりにした。


 メイドはカミソリを握り締め、その足元には自慢の長いブルネットの髪が無残にも散らばっているのだ。

 メイドの髪は醜い赤毛。ならこのブルネットは誰のもの……?

 恐る恐る頭に手を伸ばせば、剃りたてのチクチクとした感触がする。両手で頭のどこを触っても同じ感触しかしなかった。

 私は慌てて樽から出た。事実を確かめたかった。

 入口に置かれているテーブル上の凸面鏡を手に取ると、鏡の中を覗き込む。

 そこには女の命を失った哀れな私の姿があった。

 言葉にならない悲鳴を上げ、メイドをギロリと睨む。


「おまえよくもっ!!」

「申し訳ございません。身につけていたものは全て燃やし、身体も綺麗に致しました。ですが御髪のクモを取ろうとしたら、卵のう持ちがおりまして。取る前に破れてしまい、中から大量の子グモが発生したのです。それに、クモの糸も沢山絡んでいて……こうするしかなかったのです!」

「こうするしかなかったですって? 子グモを一匹一匹捕まえて、私の髪から採れば良かったのよ!! 単に楽がしたかっただけしょう?」

「いいえ決してそんな! お嬢様はクモを耳にするのも見るのもお嫌いだから、確実に排除するために……」

「煩い!」

 振り上げた手を下ろそうとすると、私とメイドの間にメイド長が割って入って来た。


「お嬢様、一先ずお召し物を。そのような恰好ではお風邪をひいてしまいます。ここにはまだクモがおりますので身体に障ります。お部屋にカツラをご用意しておりますので移動しましょう」

 彼女はさりげなく視線を下に向ける。

 まだ私の切られた髪の毛は床に散らばっているから、クモが這い回っていると言いたいのだろう。

 つられて下を見れば透明の小さな子グモがそこここと徘徊している。忽ち背筋が凍り、私はメイド長からガウンを受け取って羽織った。



 浴室を出ようとすると、私の髪を切ったメイドが話掛けてくる。

「お嬢様、お召し物は燃やしましたがこちらはちゃんと保管しております」

 メイドはエプロンで手を擦りあわせると、棚の上に置いていたものを持って来た。

 差し出されたそれを目の当たりにした途端、全身が強張った。

 小瓶の中で、半透明のラベンダーが不気味に輝いている。


「そんなもの私に見せないでちょうだい!!」

 私は恐怖のあまり、小瓶を叩き落としてしまった。

「あっ」という言葉を上げた時には遅かった。中の液体がぶちまけて床一面に広がる。



 私は息をするのも忘れて、水から上がった魚の様に口をパクパクと動かした。

 最早、一言も発せられなかった。

 そして液体に呼び寄せられるように、それは天井や壁に空いた僅かな隙間から、甲高い声を上げながらにやってきた。

 尖った鼻先に長い尻尾。穀物を食い荒らす褐色の害獣、ネズミだ。

 室内には大量のネズミが押し寄せ、クモと同じように私やメイドたちに纏わりついてきた。


「いやああああああああああ!!」

 地獄と化した室内で、女たちの悲鳴が響き渡った。





******


 あの後、駆けつけた執事や従僕たちによってクモもネズミも駆除された。

 現場に居合わせたメイドたちはショックで寝込んでいる。

 私も疲労困憊だった。しかし、立て続けに起きた強烈な体験が頭の中に焼きつき、食事も喉を通らなければ一睡もできない。


 ベッドに横になるのも億劫で、椅子を窓の傍に置き、その上で三角に膝を折って座っている。カツラのブルネットの髪を引っ張りながら、ぼーっと星を眺めていた。


 静かに瞬いていた星を掻き消すように、強烈な朝の光が空を包み込んでいく。気づけば遠くの景色、屋敷の外の通りが肉眼で分かるくらい、明るくなっていた。

 朝になって眠りから覚めた町の人々が活動し始めた。挨拶を交わす声や、生活音が聞こえてくる。

 商人たちは店を開け始め、遠方から仕入れた品を運ぶ馬車が市場を目指し、女や娘たちは洗濯籠を持って共同洗い場へと向かう。変わらぬ風景だというのに皆が幸せそうに通りを歩いていく。


 周りは幸せそうなのに、どうしてこの私だけが苦杯をなめる思いをしなければならないの?

 私を騙した老婆のせい。そして私を陥れるためにわざわざあんな薬を作り、老婆に売らせた唐変木のせい。

 今不幸なのは全部あの女のせいよ!!


「許さないわ……」

 ぽつりと憎しみの籠った声で呟くと、朝を告げる教会の鐘の音が耳に届いた。

「そういえば……今日は黄金のリンゴの決着だって言っていたわね」


 全てが手に入る、願いが叶う黄金のリンゴ。

 あれが本当に存在するなら――。

 私は口端を吊り上げ、高笑いをしながら髪の毛を毟る。

 これしかない。私の心を救ってくれるのは。


 リンゴの力を使って、唐変木の目の前で何もかも奪ってやる。

「うふふ。待ってなさい……必ず私の手で絶望のどん底へと叩き落してあげるわ」

 こうして私は私だと悟られぬよう、いつも以上にみすぼらしい恰好をして、町へと繰り出した。



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