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57 ブルネット女5

 


 屋敷に戻った私は婚約者のいる書斎へ足を運んだ。

 床は書類がたくさん散乱している。入口のテーブルに置かれた軽食にも手をつけず、ティーカップの中のお茶は既に冷え切っているようだった。


 婚約者は額に手を当て、帳簿を睨んでぶつぶつと呟いていた。彼から発せられる重たい空気が部屋全体に立ち込めて辛気臭い。


 私は豚から受け取った書状を、机の上にぽんと投げるように置いた。

 それに気がついた婚約者は、充血した瞳をこちらに向けた。

 私は肩に掛かった自慢のブルネットの髪を後ろに流し、腰に手を当てる。

「全部私が話をつけて来たわ。あなたが心配することなんて何もないの」

 彼はまごつきながらも丸まった書状を広げて目を通す。内容を読み終えて上げた顔は、歪んでいて唇が微かに震えている。



 書状の内容は、大司教様のお墓の修繕費を免除する代わりに悪魔の黒い爪の宿った麦を村から買いつけて教会へと運ぶこと。

 ここではあの恐ろしい麦を買いつけること自体が罪になる。でも今はお役人も商業組合長も領主様に関心が向いている。隙をついて行動するなら絶好のチャンスだ。


「なんてことをしてくれたんだ。悪魔の黒い爪が宿った麦を村から買いつけるだ? そんなことをすれば領主様に罰せられる。それに――」

 その後続く言葉は親父にバレたら叱られるだの、失望されるだのと自分の保身ばかりの内容だった。

 未来の商業組合長様ともあろうお方の、器の小ささに思わず呆れてしまう。

 私はあんぐりと開けた口を閉じると、咳払いをする。


「恐れる領主様はずっと行方不明で、その手掛かりすらないのよ。あなたのお父様だって領主様が見つからない以上、この町に帰って来ないでしょ?」

「それはそうだけど」

「なら心配することなんて何もないじゃない。簡単よ、領主様が発見されてお父様が戻って来る前に麦束を教会地下へと運んでしまえばいいの」

 それでも婚約者は首を縦に振ろうとしなかった。


 内心、痺れを切らした私は妖艶な笑顔を張りつける。

 傍に寄って跪くと、彼の膝の上に手と顎を乗せ、憂いを帯びた瞳を上目がちにじっと見つめた。


「私はあなたの力になりたいだけ。この話をのまないなら、それこそ資金繰りにあえいでいることが表に出るわ。そうなると組合員や町の人達にあなたはどう思われるかしら? 私、お父様と比べられて、あなたが苦しむところなんて見たくないわ。それよりも司祭様の話をのめば、村の救世主になれるのよ。うまくいけばあなたの株だって上がるはず」

「村の救世主……いや、そんなのは救世主じゃない」

 婚約者は頭を振った。自分の欲望と良心の狭間で揺れ動いている。

 だけど彼のプライドの高さや承認欲求は人一倍。どちらに傾くかなんて簡単な話。

「あなたなら偉業を成し遂げられる。これは人助けだし、こんな状況を放置する領主様の方がよっぽど問題よ。迷うことなんてないの」

「そうだな。これは人助けだ。うまくやれば、俺をよく思わない奴らも見直すだろうし。結果、俺に支持が集まれば、邪魔な役員を罷免できる。主導権を完全に握ってしまえば、もう誰も文句言わない」


 彼は成功した自分の姿を想像したのだろう。目を細めて口角が吊り上がっている。

 それから真新しい紙を一枚取り出すと、羽ペンにインクを浸して文字を書き始めた。


 作業の邪魔になるから、私は書斎を後にする。

 扉のノブを握り、上半身を捻ると猫なで声でお願いをした。


「ねえ。一つ欲しいものがあるんだけど――」





 それから数日後、婚約者も商業組合も村からの麦の買いつけで慌ただしくなった。

 毎日長蛇の列が押し寄せて捌くのが精一杯。これだけの麦を集めて、豚が何をするのか少し興味があるけど、そんなこと知る必要ない。


 ニルヌの香水が手に入ればそれでいいんだもの。

 破格の金額だったけど、機嫌の良い婚約者は二つ返事でお金を用意してくれたわ。

 全てはこれを手に入れるために司祭に媚びを売り、婚約者を持ち上げたんだから。

 当然といえば当然よね。


 私は身支度を整えると薬屋へと向かった。

 営業中の看板が掛かった扉を開けて中に入れば、この前出会った老婆がカウンターで肘をついて椅子に座っている。

 お客が来たというのに「いらっしゃいませ」の一言もない。

 棚の商品は名称ごとに綺麗に陳列されているし、店の中も清掃が行き届いていて清潔。だけど、接客が壊滅的。


「ちょっと! お客が来たんだから接客の挨拶くらいしてちょうだい」

 腰に手を当てて半眼で老婆を睨むと、老婆は目を丸くする。

 まるで私の存在に今気がついたような顔だった。

「おや。あんた来てたのかい」

「さっきから視界に入っていたと思うけど? 兎に角、お金の用意ができたから薬を出して」


 私は牛革の鞄から丸まった一枚の証書を取り出した。

 平生、証書を発行して清算する時は大金と相場は決まっている。縛っていた紐を解いて紙を広げると、老婆は目の色を変えた。

「なんて大金……!」

 身を乗り出すようにカウンターに上り、両手をわきさきとさせている。

 遂にはこちらへと飛び掛かってくる始末だ。


 私は涼しい顔でひらりとかわすと、手を頭上高く掲げた。

 背の低い彼女ではジャンプしても届かない。

「嗚呼、まったくなんて意地汚い!」

「これが欲しいなら、早く薬を持ってきて。嫌なら別に破り捨てても構わないわ」

「ああ分かった。分かったからそれは破らないでおくれ!」


 老婆は一度カウンターの奥の部屋へと引っ込むとすぐに小瓶を手にして戻ってきた。

 差し出された小瓶を指でつまみ、光に当てながら覗き込む。

 初めて見たニルヌの香水は半透明のラベンダー色で、美しい輝きを放っていた。

 思わず感嘆の声が出る。

「どんな宝飾品よりも美しいわ……だけど思ったよりも少量なのね。これじゃあ支払う金額の半分以下ってところかしら」

「なんだって!?」


 唐変木がこんな少量しか作っていないわけないじゃない。

 あの魅力の欠片もない、残念な女が貴公子をものにするなら、もっと大量に使ったに違いないわ。


「もっとあるでしょう? ぼったくろうなんて考えはやめといた方が良いわよ。というより、私みたいな上客を逃したら買い手がつかないんじゃない?」

 老婆はムッとするとカウンター奥へと引っ込んだ。そしてもう一本、ニルヌの香水を持って来た。

 頭の中はお金のことでいっぱいなのだろう。表向きは私に嫌悪しながらも、ちゃんと言うことを聞いてくれる。


「これで全部さね。もう叩いたって何も出て来やしないよ」

 老婆はフンっと鼻を鳴らしながら腕を組む。

「……分かった。二本で手を打とうじゃないの」


 お預け状態になっていた証書をやっと手にした老婆は、不気味な笑い声を上げ始める。

 証書に頬擦りをして笑うのだから、重症かもしれない。


 本当はいつ貴公子が現れるのか尋ねたかった。

 数人の組合員が、彼と唐変木が白霧山へ向かうのを見たと証言しているから、黄金のリンゴ探しでもしているのだろう。

「ウケケケケ! 早く金貨を手にしたいよ」


 この老婆の状態では無理だと悟り、私は逸る気持ちを抑えながら店を出た。



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