53
「ニコラ!?」
思わず上擦った声で名前を呼ぶ。ここに立っている彼は、お屋敷勤めでお仕着せを着た小間使いの少年ではない。
アンスさんの秘書だと言っていたからてっきり小間使いの延長だとばかり思っていたのに。今の彼は声を掛けることが憚られるくらい、立派な役人だった。
ニコラは驚愕している私を見てにっこりと笑う。
「いろいろと準備に時間が掛かりましたけど、間に合って良かったです。先ほどの演説は個人の感情が先走ってて聞き苦しい点もありましたが、場の空気も少々変わったので結果オーライだと思います」
ニコラが登場して安心したのも束の間、辛辣すぎるダメ出しをくらって私は凹んだ。
だったら早く来てよ、と恨めし気に見ていると、元恋人が口を開いた。
「アンソニー・マクシミリアン・ギリングズ? 何故領主様の名前が出てくる? 彼は今行方不明で件のことなど知る由もないし、関係ないだろ。ごっこ遊びはお家に帰ってからするんだな」
元恋人はこの年端もいかぬ少年が、役人であるはずがないと思っているらしい。
私が仕込んだ役者とでも思っているのか、わざと威圧感を与えるように腕を組んでニコラを見下ろした。
不遜な態度を取られているニコラは怯む様子もなく、元恋人を眇める。
「いいえ。アンソニー様は全てご存知です。あなたが商業組合長であるお父上の代理になったのを良いことに、取引で過剰な手数料を取っていたことも。職権を乱用して気に入らない商人の店を潰したり、賄賂を支払わなかった求職者に対して仕事を紹介しなかったりしていたことも。……今日の賭けもそのうちの一つですよね?」
おおう、元恋人はそんな汚いことをしていたのか。というかお腹真っ黒過ぎて、付き合っていた時どうして少しも気づかなかったんだろう。
恋は盲目という言葉以前に私には人を見る目がないようだ。トホホ……。
話を聞いた聴衆が騒ぎ始めて、元恋人に不審感を募らせていく。
それを察した元恋人は慌てて反論した。
「違う! 何かの言いがかりだ!! それにこんな青臭いガキが役人なわけないだろ!!」
「こちらはアンソニー様があなたがた商業組合に宛てられた手紙ですのでお受け取り下さい」
元恋人を無視して淡々と述べるニコラの隣には、いつの間にか同じ格好をした男が立っている。彼は革張りの鞄から一通の手紙を取り出すとそれを元恋人に差し出した。
眉間に皺を寄せる元恋人は男と手紙を交互に見てからそれを掠め取り、封を切って中の内容を確かめる。
何が書かれているのか私は気になって元恋人の反応をじっと待った。すると、手紙の文字を追っていた目が突然見開かれ、顔からはまるで音をたてるように血の気がサーッと引いていった。
皆に分かるようにニコラは手紙の内容を説明する。
「そこに書かれている通り、あなたがた商業組合に付与していた自治権は我が領主の元に返還されました。これで何もできませんし、今までの不正は全て取り調べますので覚悟して下さい。アンソニー様のサインと領主が使う書面にしか印刷されないギリングズ家の紋章が何よりも証拠です」
印刷技術は近年目覚ましい発展を遂げているが、一般には普及しておらず、それを使えるのは王侯貴族だけ。この書面に印刷された紋章と領主様のサインによって、ニコラが本物の役人であることは示された。
ステージの前方にいた組合の男たちが息を呑むのが分かった。先程まで横柄な態度を取っていたのに皆縮こまっている。
しかし、未だ状況を理解できない者が一人だけいた。
「こんな偽装工作までするとは流石ルナだ! 多めに見てやっていたが、ここまで見くびられちゃあ俺も我慢できない」
いやいや。別に見くびってはいないし、相変わらず被害妄想が酷い。
私に妄想癖があるとか言ってたけど寧ろあなたに妄想癖があるんだよ! と声を大にして言いたい。
遠い目をして突っ込んでいたら「危ない!」という声が耳に入った。
聴衆から悲鳴の声が聴こえ、我に返った時には遅かった。
目の前にスローモーションで激昂した元恋人の拳が私の顔面目掛けて飛んでくる。
うええん、親父にもぶたれたことないのに……て、死んどるがな。
既に嫁ぎ遅れだし、これで顔が大変なことになったら今度こそ私には明るい未来はないんだろうな。
拳をかわせる距離ではないし、護身術なんて身につけていない私には成す術がない。
腹を括って目を瞑り、痛みが来るのを待ち構えた。
しかし、いつまで経っても鈍い痛みは来なかった。
なんなら温かいものに包まれるのを感じる。
不思議に思って目を開けると、私を庇うようにしてシンティオに抱き締められていた。
「シ、シンティオ? どうして?」
「我は件の関係者ではないからここには立たないと言った。だがルナに危険が及ぶとなれば話は別だ」
目を白黒させているとシンティオは私の左手を取って指輪を撫でる。
「月長石に我の力を流し込んでおいた。万が一ルナに危険が及ぶことがあれば我を飛ばして守れるようにと」
シンティオは私の頬を撫でて目を細め、それから無事だったことに安堵の息を漏らす。
彼の仕草にドキドキしてしまうが、自分のおかれた状況を思い出す。
そう、ここは広場のステージの上。皆が見ているのだ。
私は慌ててシンティオから離れると、赤面する顔を背けながら尋ねた。
「そ、そう言えば私を殴ろうとした彼は?」
丁度シンティオの背後から男の情けない呻き声がした。
身体を傾けて確認すると、ニコラと同じ服装の役人が元恋人を後ろ手にねじりながら床に押し倒している。
被っていた黒の帽子はステージ上に転がっていて、漸く彼の顔を拝むことができた。
目の下に傷のある、強面スキンヘッドの壮年男性だった。
どちらかというと、ヤのつく仕事の方が似合っている気がする。
「流石は補佐さん動きが速いですね!」
「褒めてないでさっさとそこのロープ持ってこい」
ニコラはパチパチと手を叩くと、ステージの端に置かれていたロープを補佐さんに渡した。
そうか、彼があの補佐さんなのか。
……えっ、補佐さん!?
ストレスでてっぺんハゲの面積が激しく悪化しているというあの……。
彼の頭は毛の一本も生えてないつるっつる。そうか、手遅れになってしまったのか。
私が憐みの視線を向けていると、顔を上げた補佐さんとばっちり目が合ってしまった。
慌ててシンティオの後ろに隠れていると、一際響く馬の蹄鉄音が聞こえてきた。




