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私は商館の執務室に単身で乗り込んでいた。
執務用の長机の席につく元恋人は現れた意外な人物に表情を強張らせている。
横に控えている小間使いの少年も同様の表情を浮かべていた。
「久しぶりだね。爽やかな朝だっていうのにその死骸でも見たようななっさけない顔は何?」
私は微笑みながら元恋人の表情を指摘する。
まあ彼がこんな顔するのも無理もないだろう。だっていつもならマッチョな厳つい組合員が商館の入口で仁王立ちしていて、要注意人物の私は今いる執務室はおろか商館の中へ入ることすらできないのだから。
「……おまえ、どうやって入った?」
テンプレのような質問をされて私は小首を傾げてみせる。
「そんなこと言われたって、誰もいなかったから入っただけなんだけど。そもそも職務怠慢の従業員を雇うなんて組合の沽券に関わるんじゃない?」
「相変わらずの減らず口だな。こっちは麦の取引が繁盛してて忙しいんだ。万事休すなおまえなんかに付き合ってる暇はない」
そうなのだ。今この組合は悪魔の爪が宿った毒麦を掻き集めている。組合員は麦束を運ぶ行商人の列を捌くことに必死で、他の取引が疎かになっていた。
それは警備の方も同じで、マッチョな組合員は大量の麦束を倉庫に運ぶためにほんの数分入口からいなくなる。私は出払っている隙を見て中へ入ったのだった。
「忙しそうなのは傍から見ていて分かるよ。だから決着の日を明日にしないか提案しに来たんだ」
元恋人は胡乱げに顔をしかめる。
「まだ期限まで残り数日ある。明日にしておまえに何の得がある?」
「早めてはいけないという制約はなかったはず。それに万事休すと決めつけるのは早計に失するわ。もしかしたら、私が伝説の黄金のリンゴを既に手に入れてるかもしれないでしょ?」
私が胸を張ってみせると、元恋人の表情はさらに険しくなった。
やはり眉唾物の黄金のリンゴなんて信じていないのだろう。何か小細工したんじゃないか、と疑っている。
私は腰に手を当て、もう片方の手を机の上に置いた。身を乗り出すようにして豪奢な椅子に座る元恋人を見下ろした。
「あらあら早められたら困ることでもあるの? それとも私に負けるのが怖いのかしら? 嗚呼、親の七光りに頼って今の地位にいるだけのあなたからすれば、私との賭けに負ければやっぱり父親は立派でも息子はどうしようもない馬鹿だっていう証明になるわよねえ。臆病者の商業組合長の息子さん、尻尾撒いて逃げるなら今のうちだよ」
彼はみるみるうちに顔を真っ赤にすると、やがてあしらうように鼻で笑った。
「はんっ、別に困るかよ。こっちは今繁盛してて忙しいだけだ。それよか困るのはおまえの方じゃないのか? なんせ明日には店を失い路頭に迷い、身売りでもしないと生計が立たなくなるんだからなあ。ま、そんな貧相な身体じゃ客なんて取れないだろうがな」
後頭部に手を当てて値踏みするような目でこちらを眺めてくる。私はその視線を無視して机から離れると、くるりと背を向けた。
「それじゃあ明日の広場で。昼を告げる鐘の音が鳴った時に決着をつけましょう」
「分かった。早速町中に広まる様に手配しよう」
元恋人は側にいた小間使いの少年に指示すると彼は素早く駆け出して行った。
「……邪魔したわね。もうここに来ることもないと思うから」
私は執務室を出るとふうっと一息吐いた。
これでいい。わざと扇動することで元恋人が私の話に乗ってくることは凡その見当がついていた。問題だったのは商館の中へ入れるかどうかだったけど、これも麦の取引で大忙しだったおかげで難なくクリアできた。
……そろそろ悲運で可哀想な私に神様が渋々ではあるけれど味方してくれているのかもしれない。
渋々でも嫌々でも何でもいい。ありがとう神様。
そして敵地の中枢に単身で乗り込むなんて我ながらよくやったと思う。私は達成感でとても気分が良くなった。
とはいえ計画はまだ始まったばかりだし、敵地にいることに変わりはない。
私は改めて気を引き締めると再び歩き出した。
アンスさんの計画は私と元恋人の賭けの決着日に商業組合と教会の悪行を暴いてしまおうというもの。賭けの結果を見物しに広場へ町の人々が集まるだろうから、そのついでに暴けば問題が一気に片づく。
そしてここで大事な私の任務の一つは賭けの日を明日のお昼に早めること。
町の外まで続いていた行商人の行列は減りつつある。賭けの決着日を待っていては麦が小麦粉にされてしまい、押さえたところで万が一にも持ち出されてしまえば手の施しようがない。
まだ麦束の状態なら悪魔の爪を見れば毒麦だって分かるし、対処がしやすいのだ。
今回の計画で二人は領主様の屋敷から大事なものを持って来る必要があるらしい。町と屋敷を往復するのに馬を飛ばして四日掛かるが、早馬なら二日で済む。
どこから手配したのかニコラは早馬を二頭借りてきていた。アンスさんの足はほぼ良くなっていて、二人は昨日の早朝に町を立った。
後はニコラとアンスさんが領主様の屋敷から戻って来るのを待つだけだ。
そんなことを思いながら廊下の角に差し掛かると、清楚な身なりをしたブルネット女に出くわした。
あっ、と思わず声が漏れ出る。彼女は目を細めると真っ赤な唇の端を吊り上げた。
前はもっと品の良い頬笑みだった気がするのに、シンティオの話を聞いたせいかフィルターが掛かって卑俗なものに感じてしまう。
彼女は澄んだ声で私に言った。
「うふふ。今からあの人は私のものになるけれど、悪く思わないでちょうだいね。あなたの分まで私が幸せになってあげる」
ん? もう元恋人はあなたに骨抜きにされておりますが、今更なんのことですか?
よく分からなくてぽかんと間抜けな顔を晒していると、ブルネット女は美しい自慢の髪を靡かせながらどこかへ行ってしまった。




