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35 ブルネット女3



 結局、数年分の帳簿を調べたけれど、貴公子らしき情報は何も得られなかった。

 静かに帳簿を閉じた私はふうっと一息吐く。


 内容の殆どはここら一帯を治める領主様やその親族との取引。若い娘がいるのか、注文の品にはシルクの服や高価な装飾品が記されている。

 がっかりしたけれど、一つだけとても気になるものがあった。それは、帳簿の間に挟まれていた領主様から送られた数十通の手紙だった。


 手紙の内容は一貫して婚姻した姪から手に入れて欲しいと頼まれた品を探して欲しいというもの。そこに書き記されている品の金額を見て私は目を瞠った。

 この金額ならシルクの服が何着も買えるし、煌びやかな宝石をふんだんに使ったネックレスだって数本買える。

 私は喉を鳴らしてその品の名前を読み上げた。

「……ニルヌの香水」


 聞いたこともない香水の名前。

 破格の高値がつくなんて一体どんな香りがするのかしら。一度でいいから嗅いでみたい。だって私は貴族の娘だもの。同じ貴族の女がニルヌの香水を知っていて、私が知らないなんて気に入らないわ。その女よりも絶対先に私が香水を手に入れるんだから。

 ……そうと決まればここにいるよりも町のブティックにでも行ってみる方がいいわね。稀少な香水だから市場には出回らないと思うけど、何か情報くらいはあるかもしれないもの。


 部屋の外に意識を向けて私はそう思った。聞こえてくる喧騒は衰えることなく益々ヒートアップしていて、怒号が飛び交っている。

 これ以上ここにいても時間の無駄だと決めつけて、私は馬車に乗ってブティックへ向かった。





 行きつけのブティックは貴族や金持ちの商家の娘を相手にするような立派な店。

 いつも相手をしてくれる店員がこちらに寄って来たので私は香水について尋ねた。

「ニルヌという香水ですか? 申し訳ございませんが私は存じません」

 他の店員に尋ねてみても皆一様に首を横に振る。

「そう……分かりましたわ。ありがとう」

 落胆した私は深い溜息を吐いて踵を返す。



「お待ちになって」

 落ち着きのある澄んだ声に呼び止められて振り返ると、初老の女が店の奥からやって来た。

 彼女はこの店の女主人だ。普段は店に顔を出さないのに一体何だろう。


 女主人は私の近くにやって来ると、目尻に皺を刻んでこちらに微笑んだ。

「話は店員から伺っておりますわ。恐れながらくだんの香水は稀少なものですので、うちでは取り扱っておりません。申し訳ございませんわ」

 わざわざ謝りに来られては却って気が引けてしまう。顔を上げるよう求めると、女主人はゆっくりと顔を上げて、さっきよりも声を潜めた。


「商業組合長の息子に嫁がれる方ならば貴族の令嬢たちが使う香水を知っていて当然ですわ。あれがご所望ということは彼との仲をもっと深めたいのですね。あれは男にとっては強力な薬、嗅いだだけで相手は夢中になると言われていますもの」

 香水の真の効果を知って驚いた。領主様がどうして熱心に手紙をよこしていたのか、破格の値段をつけていたのか。あれは姪とその婚約者の仲を取り持つためだったからだ。


 改めて女主人を見ると、彼女は最初とは違って少し楽しそうに笑う。

「あの香水はなかなか手に入らない代物なんですけど、もしかしたら薬屋で手に入るかもしれませんわ。ルナさん、たまに香水を作って売っていますもの…………薔薇の香水でしたけど」

 私は薬屋でニルヌの香水が売られているということを知ってさらに衝撃を受けた。驚きすぎて女主人が最後何を言ったのか耳に入ってこない。


 そうだったの……あの年増がニルヌの香水を。

 それなら私の婚約者と付き合えたのもニルヌの香水のおかげってわけね。

 やっと納得したわ。ずっとおかしいと思ってたもの。

 どうしてあの残念な年増が私の婚約者と付き合えたんだろうって――。


 私は女主人の情報をもとに薬屋へ行くことにした。

 年増によって香水の威力は証明されている。香水さえ手に入れば、今すぐにでも貴公子を私のものにできるんだと胸が弾んだ。

 ブティックから薬屋は近いので、馬車はそのまま待機させた。通りを歩いていると、こちらに向かって歩いてくる年下の女の子たちが会話に花を咲かせている。と、思いもよらない内容が耳に入ってきた。


「ああ、ほんっとにカッコ良かったわ! どこかの貴族の令息なのかしら? キラキラして王子様みたいだったよね」

「えー、貴族が店員の真似事なんてする? でも、視察ならするのかな?」

「護衛もつけないってことはお忍びで来たのかもね」


 それが白銀の貴公子の話だとピンときた私は、回り込むようにして彼女たちの行く手を阻んだ。

「ねえあなた方。その話、もっと詳しく聞かせてくださらない?」

 優雅な笑みと小首を可愛らしく傾げてみる。こうすると老若男女問わず大半の人が私の言うことを聞いてくれるということを昔から知っていた。

 彼女たちは私を見るなりぱっと顔を赤らめて緊張しつつも、とつとつと話してくれた。


 その内容を聞いて私は一目散に駆け出した。振り向きざまに彼女たちに礼を言うと、そのままわき目も振らずに薬屋へと急いだ。


 あの貴公子はお忍びで薬屋に来ている。よりによってあの年増の店に来ているなんて。

 大変だわ、あの唐変木、今度は彼に香水を使うんじゃないかしら!?


 角を曲がると、目の前に植物の紋様が彫られた木製看板が飛び込んで来る。店の手前で立ち止まると息を整え、乱れた髪や服を直す。

 不安で堪らないけれど、こんな姿を万が一貴公子に見られたら不躾な女だと思われてしまう。いつも通り美しくしておかないと。

 背後に乱れた箇所はないか、振り向いて調べていると、ドアの開く音とだみ声が聞こえてきた。


「さ、今日はもうおしまいさね。帰った帰った!」

 前を向くと、強面な顔の老婆が客を追い返している最中だった。

「でもまだ彼と一言もお話できていないわ」

「そうよ! さっきの王子様みたいな方が戻って来るまで待つんだから」


 どうやら貴公子はもう店にはいないみたいだ。店員はこの老婆だけらしく、年増が白霧山に行ってここにいないことを思い出した私は心の底から安堵した。


「一目で良いからあの彼に会いたいの!」

 客のうち一人が周りの意見を代弁するように叫ぶけれど、老婆は冷たくあしらった。

「ここはお嬢さんがたが延々とくっちゃべる喫茶店じゃないんでね。待つだけならとっとと帰りな!」

 仁王立ちで鋭い目つきの老婆に客たちは怯み、後ろ髪を引かれる思いで帰っていった。

 小さくなっていく集団を見送ると老婆はフンと鼻を鳴らす。

 そして、私の気配に気がついていたのか今度は私を睨みつけてきた。

「あのっ……わ、……しっ!」

 走ったせいでまだ呼吸が乱れているのか、老婆から放たれている威圧感から来る恐怖のせいなのか、うまく喋れない。


「……何か用かね?」

 煙たがるような口調で尋ねる老婆に私は困った表情を浮かべて微笑んでみせた。

「ここに幻の香水があるって聞いて訪ねてきましたの」

「は?」

 ニルヌの香水なんて野暮な事は口にできない。庶民が知らない香水だとしても、淑女である私が公衆の場で言っていい言葉ではない。

 それとなく伝えてこの老婆に理解してもらわなければ。


「つまりその、上流階級の者にしか手が出せない魅了の薬のことですわ」

 顔を顰めて思案していた老婆は暫くすると、理解したのかポンと手を叩く。

「ああ、あれか! あれは今品切れ中だけど、明後日以降なら用意できるよ」

「それは本当!?」

「勿論さ。あれは買い手がつかないし、こっちもどうしようか悩んでいたんだよ」

「分かったわ。お金を用意するからそれを売ってちょうだい」


 香水がいくらするのか領主様の手紙を見て知っている。今更聞くまでもないし、この老婆も身に余るほどの大金が手に入るのだから文句なんて言わないはずだ。

 老婆は話が成立したとみると、私を残して早々に店の中へと引っ込んでいった。

「愛想のない店員ね」


 唐変木の年増が雇ってるだけあるわ、と心の内で呆れ返った。けれど、その感情は胸の奥から湧きあがる興奮によって掻き消される。

 だって領主様の姪よりも先に香水が手に入るんだもの。あの金額なら婚約者に甘い言葉を囁いて強請れば出してもらえる。


 これで全てが完璧になるんだわ!

 意気揚々として屋敷に戻ると、執事ではなく婚約者が私を出迎えてくれた。しかし、いつもの甘い視線ではなく、どんよりした暗い視線を私に送る。


「どうしたの?」

 婚約者は言うか言わないか躊躇った後、重たい口を開いた。

「それが――」

「……え?」


 この後告げられた婚約者の言葉に私は頭が真っ白になった。



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