3
*****
頭の中がぐるぐると回っている感覚を覚えながら私は呻き声を上げた。
目を開いても世界は揺れ、状況判断が難しい。身体に感じるのは全身の痛みと、柔らかく湿り気のある土。幸い、激痛はなく、どこも折れてはいなかった。
徐々に視界がはっきりしてくると、ふらふらと上半身を起こして上を見た。落ちた穴の先、木々の間からは濃紺の星空と銀色の満月が少しだけ垣間見えた。結局私はこんな時間まで気を失っていたらしい。
空と月があんなに高い位置に感じるのは初めてだった。射し込む微かな光によって足元は仄かに分かるくらいで目が慣れたにしては頼りない明るさだ。
よじ登って穴から出られないか調べると、下の堆積はそこまで柔らかくないけれど、上に行くほど柔らかかった。地質上無理に登れば上の脆い土砂が崩れて生き埋めになる可能性がある。これでは元の場所へ帰れそうにない。客観的な考察をしていた私はそこではっと我に返った。
え、帰れない? ということは――私はふかふかのベッドの上で死ねないと?!
うわああ、こんな穴の中で死ぬなんて嫌だああ! こんな寂しい人生の終わり方は嫌だああ!!
誰か捜索願いを、と淡い期待が過ったけれど黄金のリンゴの期限は一か月。それまで誰も探しには来ないだろう。それにこの山に来る人間なんて平生殆どいない。いたとしても精々お尋ね者くらいだ。もし助けられたとしても金銭の要求は明らか。ついでに自分の身の安全の保障などどこにもない。
――終わった。私の人生は終わった。このまま食料も尽きて干からびて、植物の根っこのような姿になって土の肥やしになるんだ。
頭を両手で抱えてめそめそしていると、不意に空気の流れを肌で感じた。上ばかりに焦点を当てていて気がつかなかった。後ろへ身体を向ければ、そこは暗闇が広がっている。そして静かに風の鳴り響くような音が聞こえた。
空気の流れがあるということはどこかに出口もあるはずだ。だったら早く探してここから出ればいい。鞄ごと落ちたこともあって中に入っていた旅灯に火打石で火をつける。
周りがさっきよりも明るくなって空間が鮮明になった。落ちた穴は土砂でできていたが背後に広がっている空間は洞窟になっていて、岩で覆われていた。これなら土砂が崩れてくることもなさそうだ。
一先ず、生き埋めとか飢えで死ぬことはなさそうだ。……良かった良かった。
心の底から安堵したが、その安らぎは一瞬で吹き飛んでしまう。一歩踏み入ると洞窟の奥の方で大きな何かが動いた。同時に生温かな風がこちらにやって来る。風の音と思っていたけれどこれは何かの息遣いだった。
再び何かが動くと、今度は闇の奥から黄金の双眼がこちらをじっと見つめている。その目を見た途端、私は腰を抜かした。あの特徴的な瞳は、他の生き物は持たない。
嫌でも私の記憶に焼き付いているあの縦長の黒目の形からしてあれは――
「ヘ、ヘビッ!!」
しかも超特大サイズ!! 大蛇だあああ!! こんな大きいの見たことない。新種の人喰い蛇か何かですか!!?
「娘よ」
うわあああ、しかも人語喋るしいいい!! もうこれ私の幻聴か? どこまでが現実、というかまだ気絶してるの? だったら即刻夢から覚めるんだ私!!
「娘よ、我は欲しい」
「い、いや。お腹が減ってるならそこの川でウシガエル捕まえてくるんで勘弁してください! お願い食べないで!!」
って、こんな提案したところで登れないから川に行けないし、登れたら命乞いなんかしてないわ!!
「我を蛇と一緒にするでない!!」
「じゃ、じゃあ爬虫類でよろしいでしょうか?」
「トカゲとも一緒にするでない!!」
ピシリときつい口調で言うと、引きずるような音と共に相手がこちらにやって来た。旅灯の灯りで相手の顔が暗闇からゆっくりと浮かび上がる。それは大蛇ではなかった。
黄金の瞳にちょっと汚れで黒くくすんでいる真っ白な竜。この世界の何処かに竜族はいると言われているけれど、それこそ私にとっては黄金のリンゴより眉唾物だった。ええ、数分前までは。
いやあ、高尚な竜を蛇って言ったのは謝りますけど蛇じゃなくてもどっちにしても爬虫類じゃないですか。爬虫類嫌いとしてはもう全身鳥肌ものじゃないですか。
「娘、我は欲しい」
え、やっぱり人肉をご所望? こちとら死ぬわけにはいかないんだけど、大目に見てくれません?
内心冷静な言葉を述べてはいるものの、実際は恐怖で慄いていた。腰を抜かしたままの私は立ち上がれず、両腕を使って落ちた穴の方へと後ずさる。額に脂汗が滲み、身体は小刻みに震えていた。
「娘よ」
「なななな、なんでしょう?!」
「そこ、ムカデが出やすいから気を付けよ。噛まれるぞ」
ヒィィ!! って、え。ムカデ? ご忠告どうもありがとうございます?
「……ムカデの対処法は知ってるから大丈夫よ」
白い竜は漸く私と話が通じたことに満足して目を細めると、怖がらせてすまぬと詫びの言葉を入れてまた暗闇の中へと顔を引っ込めた。姿が見えなければ、瞳が気になるにせよそれ以上の恐怖は覚えなかった。
「其方はふかふかのベッドの上で死ぬのだろう? だったら我が食べたら願いが叶わん。そもそも人など食わぬ。我が欲しいのは……その鞄の中にある薬草だ」
「へっ、薬草?」