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草地を通り過ぎて山麓の緑が生い茂る森に入ると、朝露に濡れたしっとりとした空気が森全体に広がっていた。目を覚ました鳥や獣が活動を始めたのか、時折遠くの方で鳴き声や葉擦れの音が聞こえてくる。
森を抜けて白霧山を登る頃には日も高くなり、快晴の空には大鷲が気持ちよさそうに風に乗り、滑空していた。目を細めてピィーっと鳴く大鷲を眺めながら、私は足の速度を緩めることなく山道を進んでいく。
最初は息が荒くなるほど急だった斜面も次第に平地と変わらない緩やかなものになった。やがて、私が落ちた穴付近に到着すると、今まであった後ろの気配がなくなったことに気づいて立ち止まった。
後ろを振り返えると、同じ速度で歩いてくれていたはずのシンティオが数メートル離れたところにいた。シンティオが向かって来るのを待ちながら、少し速足になりすぎたかなっと私は心の中で反省する。
「ルナ」
声を掛けるシンティオはいつもと変わらない穏やかな表情を浮かべている。けれど、その表情に反して瞳の奥には不満な色を宿していた。いつも穏やかで優しい彼が、急にピリリとした空気を纏っていると、恐れの感情を抱いてしまう。
「どうかした?」
咄嗟に鬱蒼と茂る木々へ視線を逸らすと、私はわざとらしく問いかけた。
シンティオは何も言わなかったけれど、こっちを見ろという視線がひしひしと伝わってきて痛かった。勿論、私は視線を戻す気なんてない。
やがて、シンティオの長めのため息と頭を搔く音が聞こえてきた。
「黄金のリンゴの件で心が急いておるのは我も分かってはおる。だが、昨日の昼からルナは様子が変だ! どこか上の空だし、昨夜は普段飲まぬ酒を飲んだみたいだし……今も我と面と向かって話そうともせず、一人で先に行ってしまう。…………我には相談できぬ内容か?」
弱々しい声に内心驚いて私が視線を戻せば、シンティオの穏やかだった表情が曇っていた。
様々な思いや考えに蓋をして、平静を装っていたのに、どうやら私はできていなかったらしい。
私は何度か口を開きかけて閉じた。どこからどう応えて良いのか分からなくて、首を横に振ると目を伏せる。
シンティオに心の内を吐露できればどれほど楽になれるか。けれど、現段階でこの関係に亀裂が入るようなことはしたくない。一度壊れた関係は修復に時間が掛かるし、元に戻らないことだってある。
この関係を保つためには私が変に意識することを辞めてしまえば良い。そうすれば、平穏無事にこの関係が続けられるんだから。
暫く沈黙が広がり、微風で揺れる葉音が嫌に大きく聞こえる。
私は深く息を吸うと目を開けて、柔和な笑みを作った。
「私が一人で考えすぎてるだけでシンティオは悪くない。気を遣ってくれてありがとう」
そう言うとシンティオの大きくて温かな手が伸びてきて、私の頭をクシャリと撫でた。
「ルナは一人でいろいろと背負いこみすぎなのだ。無理にとは言わぬ、我に言いたいことがあるなら遠慮なく言ってくれ」
私はシンティオの温もりを感じながら小さく頷いた。
私は自分が落ちた穴の方を指すと口を開いた。
「洞窟に戻りたいから、竜の姿に戻ってくれる?」
「任せるが良い」
シンティオは肩に掛けていた鞄を地面に下ろすと、服を脱ぎ始める。
私はシンティオを見ないように背を向けて少し離れた所で待った。
「ルナ」
声を掛けられて振り返ると、人間のままのシンティオが素っ裸で立っていた。いつの間にか距離を縮められ、目と鼻の先にいる彼を見て私は瞠目する。
ひぎゃあああああ、近い近い近い! 私のパーソナルスペースから出て行くんだ今すぐに! そして恋人に愛を囁く男のように熱い眼差しで手を握ってくれるな!!
いくら綺麗な顔で良い雰囲気を醸し出したって自分の身体を見てみろ、素っ裸だ。
うわあああん、自警団さーん、全裸の変態はこいつです!!
忙しなく思考は巡るのに喉に言葉が引っかかって何も言えなかった。
「言い忘れていたが実は月長石の力を使いすぎた。ルナには申し訳ないが、暫くは人の姿はとれぬ。我慢してくれるか?」
「え? ああ、はい」
私は上擦った声を上げた。
「指輪はまた落として無くすといけないから、巣に戻るまで其方が持っていてくれ」
シンティオは指輪のつけた手を差し出すと、掴んでいた私の手を誘導した。
指輪にそっと触れていると、初めて拾った時のデザインと異なることに気がついた。丸い銀色のリングには縫うようにして銀色の蔦が絡まっている。
こんなデザインだったか首を傾げながら、私はシンティオの指から指輪を外した。
月長石は強く発光した。
昼間とあって、初めての洞窟で見た時のように光で目が眩むことはなかった。それによって、私は先ほどの疑問の答えを目の当たりにした。
リングに絡まっていた銀色の蔦が、するすると伸びると革紐へと姿を変えたのだ。
ええ、これ革紐だったんだ!? そういえばシンティオが指輪をつけると革紐はいつも知らないうちに消えていたな。
あまり気にも留めていなかった点ではあったけれど、この月長石の指輪は石だけでなく、リングの部分にも凄い力が秘められているのだと知ることになった。
指輪を見つめていると、目の端で宝石のような何かがキラキラと輝く。顔を上げると、竜の姿に戻ったシンティオの鱗が輝いていた。
そこで私はあっと声を上げた。不思議なことに、いつもの胸の奥から這い上がって来るような気持ちの悪さがないのだ。
もしかすると昨日あれだけトカゲや蛇を見たから慣れたのだろうか。
心の中で少しの興奮を覚えているとシンティオに名前を呼ばれた。
「では、飛んで戻ろうか」
シンティオは尻尾を揺らしながら自分の鞄を拾い上げた。
「そうね、早く戻ろう。黄金のリンゴのために」




