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朝霧が立ち込め、しっとりとした空気に包まれる白霧山。その麓の森を抜ければなだらかな草地が広がり、牛や羊の放牧区域となっている。それを下った先に、私の暮らしている大きくも小さくもない町があった。
森から少し離れた草地には樹齢のわからないどっしりとした大木がぽつんと佇んでいて、そこはよく牛飼いや羊飼いが休憩に使っている場所だった。
私は抵抗する最後の砦としてその大木にしがみつくと眼下に広がる長閑な町並みを恨めしい気持ちで眺めていた。通常なら帰ることができて歓喜しているはずなのに、今は一刻も早くシンティオの巣に帰りたい。
何故このような状況に陥っているのか。言うまでもなくトカゲの尻尾のこともあるけれど、後ろから外套をなびかせながら走ってくるシンティオに原因があった。
昨日、シンティオは私のために洗濯ものを畳んでくれたり、部屋の掃除をしてくれたりとそれは甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。まるで女王蜂に仕える働き蜂だ。
どこも悪くないと言っても「我がするから其方は休め」の一点張りだったのでたまには良いかなと思って甘えることにした。けれど、それがいけなかった。
意外にもシンティオは料理ができるらしく、晩御飯を振舞ってくれた。塩と胡椒が効いた山菜のスープにいつの間にか獲って来ていた川魚の香草焼き。
どれも美味しくて夢中で食べていると、ほっぺが落ちる前に私は眠りに落ちてしまった。
そう、抜かりないシンティオは私がトカゲの尻尾採りを嫌がることを見越して、山菜のスープに三日月鳥に使った眠り薬を盛ったのだ。
目が覚めればシンティオに背負われて山を下っていた。結局、ミイラ取りがミイラになる体験を嫌って程味わうことになってしまった。
私は確信した。奴は爬虫類の皮を被った極悪非道な悪魔だと。いや、寧ろ脱皮したという方がここでは的確なのかもしれない。竜の時の可愛らしくあどけなかった態度が人間になると一変してやることが大胆かつえげつない。
もう少し手加減してくれてもいいんじゃないですかね?
顔面蒼白の私は暴れて地面に下りると、猛ダッシュで逃げて今の状況に至る。
「嫌だ! 絶対に嫌!!」
「ルナ、子供のように駄々を捏ねるでない」
あやすような声色で言うと、困ったという表情でシンティオは肩を竦める。
「トカゲの尻尾くらいシンティオが町に行って採って来てくれればいい。なんで私まで行かないといけないの?」
これは私の問題で、本当ならシンティオは関係がない。理不尽な言葉だとは十分理解しているけれど、このやるせなさをぶつけずにはいられない。
「我はルナの町のことを知らぬ。トカゲが生息するのは家の庭の石垣や教会の墓地だ。捕まえるにしても我の髪色は人目につくし、どこの馬の骨ともわからぬ我は町の人から泥棒か墓荒らしと思われるのが関の山だぞ」
もっともな言い分に、私は目を逸らしてやり過ごすしかなかった。
うっ……確かにその通り。万が一シンティオが自警団に捕まりでもしたら釈明に時間が掛かるだろうし、そうなるとリンゴを黄金にする時間も足りなくなるかもしれない。正直なところ、期限の半分が過ぎてしまっているのでこれ以上のタイムロスは避けておきたい。
私は降参とばかりに深いため息を吐くと大人しく大木から離れた。
「……分かったわ。町へ行きましょう」
シンティオはほっとした様に胸に手をあてると、もう片方の手を差し伸べてくれる。私がその手を取ると、彼はゆっくりとした足取りで草地を下り始めた。
「……とは言え、もしかすると人前では我は――」
「え、何か言った?」
「……いや、何でもない」
何か大事なことをシンティオが呟いたような気がしたけれど、白霧山から吹く風によって遮られてしまった。
町の門を潜ってから、私はシンティオの顔が如何に綺麗であるかを改めて思い知ることになる。
店へ向かっていると、老若男女問わず何人もの人がシンティオに見惚れているのだ。商人は品物の魅力を伝えるべき口を半開きのままにし、客も品選びの手を止めている。井戸端会議に花を咲かせていたご婦人方は甘いため息を吐き、歳若い十代の女の子たちに出くわせば、黄色い声を上げてはしゃいでいる。
もう隣の私の存在など掻き消されているのだろう。馴染みのある常連客も私に挨拶することを忘れてシンティオの姿を凝視しているだけなのだから。
シンティオはそわそわしながら周りを一瞥すると、口元に手を当て、声を潜めて私に質問を投げかけてきた。
「ルナよ、妙に皆からの視線を感じるぞ。我の服、そんなに時代遅れなのか?」
「いや、問題はそこじゃあないと思うよ」
皆あなたの顔面に魅了されているんですよ。
なんて言えば、今ですら挙動不審なのに悪化しそうなので言わないでおくことにした。
しかし、シンティオの服は軽く見積もっても三十年は流行が遅れているように見受けられる。町に戻れば周りが流行の服に身を纏っているせいで服の古さは顕著だった。
よく見ると服は身体のサイズに合っていないし、袖や裾は短いしちょっと野暮ったい。これじゃあちょっと勿体ない。
なんて思っていると前方の人物に目が留まり、私は閃くとニッと口角を上げてシンティオの腕を掴んだ。
「今からいいところに案内するわ。付いて来て!」




