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白霧山に発生した霧は夕暮時になるとすっかり消え失せていた。昼間とは対照に視界は開け、今は広大な黄昏の空を見渡すことができる。
私は空を見上げて雲の流れから今後の天気がどうなるのかを読んでいた。ただ、町と違って山の天気は変わりやすいから自分の予想がその通りになるかは少し不安だ。
「心配せずとも霧は発生せぬ。安心するが良い」
横にいるシンティオは手を止めたままの私を見て優しくそう言う。
その言葉を聞いて生返事をすると、私は下を向いて再び止めていた手を甲斐甲斐しく動かし始めた。
シンティオに抱きつかれてめちゃくちゃ嘔吐いた後、私は失神して倒れてしまった。その後どうなったかは分からないけれど、目が覚めると白い竜と初めて出会った洞窟の中で横たわっていた。
ここまで運んできてくれたのは有難い。そして――あの絵にならないお姫様抱っこできっと運んでくれたに違いない。
私の着ていた服は自分の吐しゃ物で汚れてしまっていて、酷い異臭を放っていた。新しい服に着替える羽目になり、今は汚れたそれを池で洗濯している最中だ。
横にいる白い竜は私から受けた汚れをとうに落とし、うつ伏せに寝そべってこちらを呑気に観察している。
時折石鹸から出るシャボン玉を追っては鋭い爪で割る。それに飽きると今度は両肘をついて頭を持ち上げ、私に向かって口を開いた。
「思ったのだが、ルナは一応年頃の娘なのだろう? もう少し恥じらいというものを持った方が良いと我は思う」
私は反応して僅かに身じろぐと、ギロリとシンティオを横目で睨んだ。
「誰のせいで醜態晒したと思ってるんだ、誰の!」
このところ気品ではなく下品な行動が先行してしまっていることはよーく分かっている。寧ろ淑女な振る舞いをしたい自分の思いとは反比例していろいろとやらかしていることは事実。
私だって好きでこんなことしているわけじゃないし、もとはと言えば爬虫類が嫌いだと知っているのに抱きついたシンティオが悪い。
シンティオは一瞬だけ目をぱちくりさせてから思い出したかのように声を上げる。
「嗚呼、昼間の件は悪かったと思っておる。ルナがなかなか帰って来ぬから寂しくて……見つけた時は感極まってしまって配慮がない行動をした。そのことについてはルナの気が済むまで謝る。本当にすまんかった。我が言いたいのはそれについてではなく、ただ――」
シンティオはバツの悪そうな様子で口を噤んだ。私が目配せしてその先を促すと、彼は深いため息を吐いた。
「……いくら服が汚れて着替えないといけないとはいえ、下着姿のまま新しい服を探すのはやめた方が良い。その、我は雄なのだ。そして其方も自分が雌という自覚を持ってくれ」
そういえば、いつもシンティオは私が着替える時はそっぽを向いたり目を瞑ったりして見ないようにしてくれていた。今回はたまたまシンティオが水浴びから帰って来たところで出くわしてしまい、事故と言えば事故になる。
「ああいう格好は人前でするものではない」
当たり前だ! 人前で下着姿になるなんてするわけないだろう。というか、ただでさえ嫁ぎ遅れなのにそんなことすれば無作法で教養のない娘の烙印を押されて、まだ結婚できるかもしれないという少しの希望も完全に消え失せること必至だ。
しかし、今回は『人前』ではなく『竜前』とでもいうべきか。見られたと言っても私からすれば人語が喋れる爬虫類に見られたという認識だった。
雄は雄でも人間じゃないんだし、最近は昔飼っていた犬のパトラッシーに似てて扱いやすいところもあるから私にとってシンティオはペットみたいな存在。下着姿を見られても特段気にすることじゃない。
「うーん、シンティオの前なら別にいいかなって。減るものでもないし」
すると、揺れていたシンティオの尻尾が反応してピンと立った。
「ルナ、そんなこと言っているが我は……我は、其方を好いておるのだぞ? つまりそれはその……」
最後の方の言葉は尻すぼみになって何を言ったのか全く聞き取れなかった。餌やり係という位置づけで好意を持ってくれていることは嫌というほど知っている。
というか何故今その話題に話が逸れるんだ。挙動不審になっているのでとても不思議だったけれど、言われたからには私もシンティオへの想いを伝えなければ。
「私もシンティオが好きだよ」
パトラッシーみたいで可愛いから。と付け加える前にシンティオに遮られる。
「そ、それは誠か!?」
瞳を爛々と輝かせて喜色満面だ。何となく、白くて柔らかい小麦のパンの時よりも嬉しそうな気がする。懐いてもらっていることに関しては嫌ではなかったのでそれ以上は何も言わず、私は池から服を上げて水気を切った。
「洗濯も終わったし、これを干したら夕食にしましょう」
洞窟に戻り、前回その一角にロープを張った場所へ洗濯物を干す。
服を探す時にリュックの中から全てのものを取り出していたので、あらかじめ用意していた旅灯と火打石で簡単に灯りをつける。暗い洞窟に温かな光が灯った。
サンおばさんがリュックに詰め込んでくれていたものは山入に必要な道具に加えて一風変わったものが入っていた。それは薬を作る際に必要な道具が一式揃った薬箱。その他にも乾燥させた珍しい薬草や薬品の瓶詰めが割れないよう厚めの布でくるまれている。どうりで重かったわけだ。
薬師として設備万全なことは嬉しいけど、山入に必要な代物じゃないわよこれ。というか、放浪薬師なら旅慣れているはずなのに、なんでこんな余分なものを私に持たせたんだ。
ツッコミを入れたいのは山々だけれど、後ろにいた白い竜が今にも小麦のパンと干し肉が入っている袋を全部かっさらう勢いで手を伸ばしてきたので、私は反射的にバチンと叩いて阻止した。
「我を食べ物に群がるハエと一緒にするでない!」
「……じゃあコソ泥?」
「コソ泥と一緒にするでない!」
前にもこんなやり取りがあったことを互いに思い出して笑うと、私はシンティオと一緒に白くて柔らかい小麦のパンと干し肉を食べることにした。




