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その日は私・ルナにとって人生で最も絶望した一日だった。
五年前に母が他界し、彼女が営んでいた薬草店をそのまま受け継いだのが十八の時。香油や薬草茶など幼い頃から母の側でつくり方を骨に刻み込むようにして学んできた私は更に医療行為が可能な薬師免許を奮励努力の末に取得した。今ではこの町に一軒しかない薬屋として重宝されるようになっている。
店の経営も薬草店の頃より安定し売り上げも上々、結婚の約束をした恋人もいる順風満帆な人生。このまま幸せな家庭を築いて最期はたくさんの子供や孫に看取られてベッドの上で安らかに永遠の眠りにつくんだろうな、大往生万歳! なんて考えていた。
「おまえとの結婚は無かったことにしてくれ」
神様というものは本当に意地悪だと思う。
その一言で時が止まってしまったかのように感じた。あまりの急なできごとに私の唇から声が漏れることはなかった。否、声を出す余裕なんてない。できることはただ、じっと目の前にいる男を茫洋とした瞳で見つめるだけ。
数日前まで将来を語り合い、結婚の約束までしていたはずの最愛の恋人。忙しい昼間に呼び出されて町の広場に来てみれば恋人の横には彼の腕を絡めとり、豊満な胸を押しつけるようにして寄り掛かかる女がいた。彼女は最近隣町から越して来たばかりの美しい娘だった。
魅惑的なブルネットのウェーブがかった長い髪に陶器のように滑らかで白い肌、整った顔立ち。いやが上に、まさぐりたくなる艶かしい身体つきだ。彼女が歩けば若い男衆は皆、頰を赤く染めて振り返った。勿論鼻の下を伸ばしきって。かく言う私の元恋人も、現在進行形でだらしなく鼻の下を伸ばしている。
「悪いな、俺は彼女と結婚することにしたんだ」
愛おしそうにブルネット女を見つめ、柔らかな笑みを湛える。数日前までその眼差しは私に向けられていたはずなのに。手のひらを返した元恋人は穢らわしいものでも見る様な目つきで私を一瞥した。
「おまえみたいな何の魅力もない女と我慢して付き合うの疲れたわ。まあ、商人としてはいい女だけど、女に求めるべきは安らぎだろ? おまえは俺が欲しくてお得意の香油やら薬やらを使って惚れさそうとしたんだろうが詰めが甘かったなあ」
元恋人はここら一帯を牛耳る商業組合長の息子だった。よくうちの商品を買いつけに来てくれて、その時にサンプルの香油を使ってもらったり、お茶の試飲をしてもらったりはした。
……いやいやいや、ちょっと待って! 大事な商品を私用目的で使ってないし、そんな如何わしい商品あるわけない!! というか、最初に口説いて来たのはそっちなんですけど……記憶喪失も甚だしい。
呆れた発言によって哀しみは消え、彼への気持ちは一気に氷点下へと冷え込んだ。元恋人は私の商品のレシピ目的で近づいてきたんだと今更ながら気がつく。思い返せばデート中教えてくれってしつこかったし、それ以外の記憶がないに等しい。勿論、大事なレシピの秘密は教えていない。
そして元恋人が『何の魅力もない』というのは自分で言って悲しきかな、事実だった。
私は痩せぽっちで肉付きが悪くヒョロヒョロなのだ。錆色の髪なので見惚れる美しさでもないし、整った顔立ちでもない。どう頑張ってもグラマスなブルネット女には勝てない。完敗一つ。
しかし、私の絶望がここで終わるなら人生最大の絶望にはならなかった。この後の元恋人のあり得ない発言で奈落の底へと突き落とされる。
「たった今おまえにこの町での業務停止を執行する。おまえの店は俺の婚約者が明日から薬草店として経営するから出てってくれよな」
目の前に差し出されたのは業務停止並びに立ち退きの証書。しかも機材やレシピ、何もかも置いていくという項目まである、なにこれせこい。
こんな無茶苦茶な行為がまかり通ってしまうのも、元恋人の商業組合がこの辺りを治める領主様から自治権を付与されているからだった。すべからく組合員は市政に関与する権利が認められる。町の条例から近隣の山の採掘権まで全ての決定権を持っているのだ。ついでに組合長の息子となれば自ずと権力の順位は二位。私を慕ってくれている他の組合員が訴えてくれたとしても棄却されるだろう。
生活していけなくなるのは困る、なんて生ぬるい事態じゃない。商業組合から商売に必要な証書を発行してもらえなければ、たとえ他の町へ移ったとしても店は開けない。その証書も最終的にサインするのはこの男だ。今の私に勝ち目などない。完敗二つ。
もし店を続けるなら他の領へ移るという手もある。が、生まれ故郷を捨てる選択肢は私にはなかった。
真面目に働いて来たのにこんな一瞬で住所不定無職になるなんてあんまりやしませんか。ええ? 神様!?
震える拳を握り締め、青ざめて立ち尽くしていると、元恋人は何か閃いたようにニタニタ笑いながら人差し指を立てた。
「証書の発行をしてやってもいいぞ! ただし――黄金のリンゴを持ってきたらな」
黄金のリンゴ。それはこの町の東奥にある雲よりも遥かに高い白霧山の中腹にあるとされる伝説の果実。食べればこの世の全てが手に入るとされている。しかし、そんな眉唾物の話に乗る馬鹿はいない。最後の最後まで私のことを馬鹿にしやがった元恋人はブルネット女の腰に腕を回すと、もう行こうと言って立ち去ろうとする。
目を閉じた私は暫しの沈黙の後、元恋人が私に対して向けた言葉を思い出して微苦笑を浮かべた。『商人としていい女』という言葉は、強ち間違っていないかもしれない。
「分かった。取ってくるわ、黄金のリンゴを!」