96.決戦―ラストバトル(3/3)
「――あ?」
エノクの両目から血の涙が滝のように流れている。続いて、肉塊で塞がれていた致命傷の刀傷がすべて開き、血の塊がばしゃりと床に落ちた。
「なんだこれは……生体融合メカニズムの実装に誤りでも……いやそんなはずはない! 僕が失敗するはずが……」
肉の巨人が一歩、二歩と後ずさる。
「馬鹿な! 僕は動けと命じていないぞ! 何故勝手に……がっ!」
両手が自らの首を締めるかのように、頭部のあるべき場所に生えたエノクの身体を締め上げ、あらゆる骨が砕ける音を響かせた。
「げはあっ!?」
「……そうか……そういうことなんだな」
ここに至って、俺は目の前で繰り広げられている光景の真相を悟った。
意に沿わず黒鎧にされた者達が、フレッシュ・ゴーレムの素材にされた者達が、自らの力で復讐を果たそうとしているのだ。死に際に反逆を試みた黒鎧――巨漢の冒険者のように。
恨みの対象がわざわざ『手の届く範囲』に来てくれたのだから、全身全霊、全存在を懸けてでも報復を為そうとするに決まっている。彼らには今この瞬間しかないのだから。
「実験動物が! 図に乗るなァ!」
黒い影が帯状に伸び広がり、フレッシュ・ゴーレムの四肢に絡みつく。そして力尽くでエノクから手を引き剥がした。
「はぁ……はぁ……く、くはははは! 止められないとでも思ったか。この能力は実験体の暴走に備えた拘束装置でもあるのだからな!」
影に縛られたフレッシュ・ゴーレムが、一歩ずつゆっくりと近付いて来る。抵抗を続ける肉体を影が無理やり動かしているのだ。
そのとき一枚のカードがフレッシュ・ゴーレムの足元に落ちた。
「は――?」
「え――?」
かしゃん、かしゃんと、金属質のカードが実体化しては床に落ちる。発生源はフレッシュ・ゴーレムの身体のあちらこちらだった。どれも希少価値のあるカードではない。コモン、アンコモン、ごくまれに銀のレアカード。みんなありきたりで当たり前の才能だ。
銅色ばかりなのは当然だ。あんな異形にされてしまった人達は、ありきたりで当たり前の、どこにでもいるようなごく普通の人達だったから。
「何をしている。何のつもりだ。実体化させてもカードのセットは解除できないと知っているだろうに。お前達のカードは今も僕の制御下にあるんだ」
エノクは理解できないとばかりに顔をしかめている。
だが、俺は理解した。彼らが何を求め、訴えているのかを。
「無意味な抵抗は笑って許すつもりだったけど、意味不明の行動は腹が立つな。こんな愚鈍共は『叡智の柱』に加えなくて正解だったよ」
「愚鈍はお前だ。こんな簡単なことも分からないのか」
俺は《ワイルドカード》を実体化させ、その表面を軽く撫でた。
コピーするのはばら撒かれたカードの一枚。恐らくは、犠牲になった冒険者が持っていた宝物のようなレアスペル。
「《リインフォース》」
魔力を込めた量に応じて肉体を強化・補強するスペルに、搾り滓のような最後の魔力を注ぎ込む。
砕けた足首の骨も、最低限の補強のおかげで歩ける程度の強度を取り戻した。腕力も高められ、どんな武器を使ってもフレッシュ・ゴーレムの肉を切り裂ける程度の威力は出せるだろう。
それだけの強化だが、それだけで充分だ。
「憎たらしいクソ野郎を俺達のカードで倒してくれ――そう言ってるんだ!」
《ワイルドカード》でコモン装備カードのシンプルな《直剣》をコピーし、フレッシュ・ゴーレムの脚に斬りつける。
「貴様っ、僕の脚になんてことを!」
「テメェの肉じゃねぇだろうが!」
渾身の力で《戦斧》を振り抜き、足首に深々と食い込ませる。
次々にカードをコピーしてはフレッシュ・ゴーレムに一撃を浴びせ、その度に新たなカードが実体化して雨のように降り注ぐ。
もっとだ、もっとやってくれ、俺達の分まで。そんな声が聞こえた気がした。
装備カードは直接叩き付け、スキルカードは《始まりの双剣》と併用し、エノクの偽りの肉体を切り崩す。
知らないカードがあった。既にストックしているカードがあった。見たことはないが存在は知っていたカードがあった。取るに足らないとエノクが切り捨てた力の数々が、エノクから全てを削り取っていく。
「やめろ……やめろやめろ、やめてくれ……! やめろぉ!」
肉の大部分を削り取られたフレッシュ・ゴーレムが遂に倒れ、無数の肉片と化して砕け散る。
エノクは肉の下から満身創痍で這い出してきたが、もはやその姿からは威厳も脅威も感じられなかった。俺と変わらない程度の齢のはずなのに、まるで死にかけの老人を見ている気分だった。
「こんな、こんなはずは……あ、ありえない……」
這ってでも逃げ出そうとするエノクの首を掴み、強引に起き上がらせる。俺も限界が近い。これ以上悪あがきをさせるわけにはいかなかった。
「……俺の勝ちだ」
「そのようだね……そうだ、一思いに殺すといい。それが勝者の特権だ」
ついさっきまで現実逃避をして這い回っていたくせに、妙に物分りがいい。
観念して覚悟を決めたのか――なんて好意的に解釈してやるほど、俺は馬鹿でもなければお人好しでもない。
だから俺は、最大限の警戒を兼ねて、エノクを生き地獄に叩き落としてやれるカードをコピーした。
「祝福停止」
抵抗する力を失ったエノクの身体に《祝福停止》の光鎖が巻き付き、光を放って消滅した。
封印が完了した瞬間、エノクは怒りと絶望に顔を歪めた。
「な、何故だ! 何故殺さない! 何故殺してくれない!」
「誰が殺してなんかやるもんか。おおかた、死んだ瞬間に発動するような何かを仕込んでたんだろ。道連れにされるのは死んでもごめんだね」
首から手を離すと、エノクは糸が切れた人形のように床に崩れ落ちた。
エノクは錬金術師として完璧な人間を目指し、そのためにあらゆる手段を使い、大量の祝福をかき集め、理想を実現する一歩手前まで来ていた。
そんな男が研究の集大成を封印され、自らの能力も封じられた無力な状態を延々と味わわされるのだ。犯罪者として裁かれれば《祝福剥奪》は避けられないだろうから、文字通り死ぬまで喪失感に苦しみ続けることになる。
「殺せ……殺してくれ……完璧になるはずの僕が、何もかも失うなんて……」
何かを失ったときの苦痛は、それが大事なものであるほど、そして手に入れるまでの苦労が大きいほどに強くなる。エノクは今、死ぬよりも辛い苦痛に苛まれているはずだ。
空気中に漂う血生臭さにも構わず、俺は深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
「……終わった……」
心と体から戦いの熱気が急速に引いていく。
気がついたら体中が返り血でベタベタだ。早く洗い流したくて仕方がない。レオナとエステルと一緒に山葡萄亭に戻って、女将さんからホットワインを貰って、いつものベッドで泥のように眠りたい。
祭壇を降りる足取りの一歩一歩がとても重かった。《リインフォース》の効果が切れてきたせいか、負傷した足の感覚がだんだんと薄れてきた。そのくせ痛みだけは刻一刻と増しているからたまらない。
山葡萄亭に戻ったら丸一日休みを取ろう。レオナとエステルも休ませて、どこかに遊びに行くのもいいかもしれない。激しい消耗でぼんやりとした思考回路で、そんなことを漠然と考える。
祭壇を降りきったところで、土砂崩れのような凄まじい音が響いた。
「ああ……そういえばお前らもいたんだったな」
二体のクレイ・ゴーレムが格闘戦の末に相打ちとなり、全く同時に崩壊して土塊に戻っていく。
しかし、生成されたクレイ・ゴーレムは合計三体。生き残っていた残る一体が、本来の標的である俺の前にゆっくりと立ちはだかった。
「……ままならないもんだなぁ、人生って」
もう抗う手段はない。逃げることすらできない。
クレイ・ゴーレムが手を握り合わせて一つの拳を作り、高々と振り上げた。
――ざん。
一閃。大剣がクレイ・ゴーレムを両断する。
それを握るは白獅子の獣人。恐ろしい顔をした優しい冒険者。
「アルスラン……」
「すまん、防衛機構を突破するのに手間取った。苦労をかけてしまったな」
苦労をしたのはどう見てもお互い様だ。純白だったアルスランの毛皮は血に汚れ、肉が見えるほど深く焼け焦げた跡すらあった。一刻も早く駆けつけるためにとんでもない無茶をしたとしか思えない。
「私だけではないぞ。彼女達も相当な――おっと」
小柄な人影がアルスランの横を駆け抜けて、今にも倒れそうになっていた俺を抱きとめた。
視界がだんだん暗くなっていくけれど、この温かさの正体はすぐに分かる。微かに震えているのは泣いているからだろうか。
少し休んだら、心配をかけてごめんと謝ろう。そしてありがとうと言おう。
後始末を皆に押し付けてしまうことになるけれど、雪崩のように押し寄せてくる疲労感には抗えず、俺は眠るように目を閉じた。
それがこの戦いの終幕だった。