87.白いヴェールの女(2/2)
「さぁエノク様! 愚妹を連れ戻しくださいませ!」
黒い影がヘルマの足元から溢れ、ファムの身体を飲み込んでいく。俺はファムが倒れてすぐに即座に走り出していたが、黒い影に連れ去られるのを止めることはできなかった。
即座に標的を切り替え、ヘルマめがけて双剣を振るう。
しかしヘルマは暗闇に溶け込むように姿を消し、双剣は宙を切るだけの結果に終わった。
「安心なさい。急所は外してあります。今頃はエノク様直々に治療を受けていることでしょう」
《ライト》の光が当たらないくらい離れた暗闇にヘルマの姿が現れる。
「もっとも、貴方達があの子に会うことは二度とないでしょうけど」
《暗視》スキルを使っても移動の過程が全く見えなかった。闇に紛れて移動したという程度の単純な話じゃない。完全に一度そこからいなくなって、それから離れた場所に現れている。
スキルとスペルのどちらの効果なのかは分からないが、俺の想像通りの能力なら間違いなく厄介極まりない。
「何故なら――」
再びヘルマの姿が消えたのを見て、俺はとにかくその場から飛び退いた。
一瞬遅れてヘルマが再出現し、さっきまで俺のいた場所に細身の剣の突きを繰り出した。
「ここで死ぬからか?」
「ご自分の立場がよくお分かりで」
またもや間合いの外に移動するヘルマ。呆れるくらいに徹底したヒットアンドアウェイ戦術だ。
応援に来ようとするクリスを制止し、離れた場所からヘルマに呼びかける。
「ずいぶんと張り切ってるみたいだけど、ご主人様の許可は取ってるのか?」
「……何が言いたいんですか?」
「手下に俺を殺させるくらいなら、最初からあんな場所に閉じ込めたりしないだろうって思っただけだよ。あんたもファムと同じように独断で動いてるだけじゃんじゃないのか」
ヘルマはしばらく沈黙したかと思うと、声を上げて笑い始めた。
「ええ、そうよ。だけどエノク様は、私ならこう動くと想定した上で私を遣わしたの。貴方達とは考えの深さが違うのよ」
「要するに、あんたを倒せないようなら利用する価値もないってことか。悪党の考えそうなことだ」
たった一言そう言っただけで、ヘルマが急に顔色を変えた。苛立ち、怒り、明らかにそういった感情を押さえ込んでいる顔だ。
「どうしてエノク様は貴方なんかに興味を持ったのかしらね。私達の方が優れているにきまっているのに。それを証明して気の迷いを晴らしていただかなくては」
「結局は私怨ってことか。分かりやすい動機で助かるよ」
先に目を掛けられていた自分達を差し置いて興味を惹くなんて許せない――逆恨み以外の何物でもない理屈だ。分かりやすいけれど迷惑この上ない。立場を譲れるならすぐにでもそうしたいくらいだ。
あちらがエノクの駒であることに誇りを覚えるのは勝手だが、巻き込まれた被害者を目の敵にするのは勘弁してもらいたい。
「エノク様が《操影術》で制裁をしないということは、私の行動を追認なさったということ! 大人しく死に果てなさい!」
ヘルマが姿を消したのと同時に、後方宙返りの要領で《軽業》スキルを発揮し、真後ろに現れて突きを繰り出したヘルマを飛び越して、《ライト》の光の中に着地する。
俺が光の中に避難したのを、ヘルマは闇の中から苦々しく睨みつけた。
「やっぱりその瞬間移動は闇の中……いや、影の中でしか発動できないわけか。ファムを刺したときにも、ランタンが生んだファムの影から出てきたからな」
タネが分かれば何と言いうことはない。《ライト》の位置に気をつけて、影が洞窟の暗闇に重ならないように前進し続ければ、妨害を受けることなく洞窟を突破できる。
「おっと、逃げるなよ。色々と聞きたいことがあるんだ」
しかしそれではヘルマを取り逃がしてしまう。エノクの情報、ファムの行方、聞き出さなければならないことは山ほどある。
だから俺は、自分から闇の中へと足を踏み込んだ。
「カイ!」
ヴァンが驚いて引き留めようとしてくるが、クリスにあっさりと押し留められた。クリスも俺と同じ考えに至っていて、これから俺が何をしようとしているのかも察したらしい。
「馬鹿め、何のつもり!」
ヘルマはあっさりと撤退を取りやめて嘲笑を浮かべた。
やはり俺の読み通り、ヘルマは功を焦っている上に戦い慣れていない。その能力が影を伝って瞬間的に移動できる能力なら、取るべき選択肢は撤退以外に存在しないというのに。
闇の中を疾走しながら、ヘルマが影に溶け込んで姿を消すのとタイミングを合わせて、《暗視》スキルに変えていた《ワイルドカード》を銀色のスペルカードに切り替える。
視界が闇に包まれると同時に、俺はその呪文の名を唱えた。
「《ライト》!」
「うぐっ……!」
目の前に光球が出現し、背後から女のくぐもった悲鳴が聞こえた。すかさず回し蹴りを繰り出して、後ろに現れていたヘルマを蹴り飛ばした。
「な……何故……」
「場所もタイミングも読めるに決まってるだろ。さっきからずっとバックアタックばっかり狙われてたんだからな」
立ち位置を調整して自分の影をヘルマから遠ざける。
ヘルマは前後二つの光球からの光を浴びて、潜り込んで移動できるような影をすっかり失っていた。
「《ライト》の光を使ってたんだから、二つ目を出して影を減らしにかかることくらい予想しておくべきだったな」
「くっ……申し訳ありません、エノク様……」
「で、こうなったら当然――」
エノクの黒い影がヘルマの足元から溢れ出す。俺は今度こそ出し抜かれることなくヘルマの腕を掴み、影に飲み込まれていくのを妨害した。
「こうやったら邪魔できるんだろう? さっき痛い目に遭わされた仲間が教えてくれたよ。あのときは黒鎧を送り込んで手を離させたそうだけど、今回もそうしてみるか?」
数回に渡る直接的な目撃と、プリムローズ達からの情報のおかげで、影を操るエノクの能力――《操影術》の効果の内訳が見えてきた。
ターゲットを影に取り込んで呼び寄せたり、逆に離れた場所へ送り込むには条件がある。推測だが、具体的な条件は事前に指定しておいたモノか、自我のないモノ、抵抗の意志のないモノといったところだろう。
初めて戦ったときのタルボットは連れ去られるのを拒否していたが、事前にマーキングされていたモノは問答無用で取り込めるか、腕を斬り落とされたダメージで抵抗する力がなかったかのどちらかだと考えれば説明がつく。
いずれにせよ、転送を拒む敵を取り込むことはできないうえ、引きずり込む力はさほど強くないので、こうやって腕を掴んで引っ張れば妨害できてしまうのだ。
『やれやれ、冒険者の粘り強さには毎回驚かされるよ』
「さっきも言ったとおり、色々と聞きたいことがある。この女じゃなくて黒幕本人からな」
『アンゲルス達は眼中にナシか。まぁいいさ。知りたいことがあるならこちらに来るといい。その道を進んでも行き着くことになる場所だけど、途中がちょっとした迷路になっているからね。影に飛び込んだ方が手っ取り早い』
予想外の提案だった。影に飛び込んで乗り込むこと自体は俺も考えていたが、あくまで強引な強行突破の手段として想定していたに過ぎない。黒幕本人が誘ってくるなんて大胆不敵にも程がある。
というか、こんなもの罠としてはあからさま過ぎるし、罠でないとしたら逆に信じさせるつもりがあるとは思えない。
『もちろん罠は仕掛けてなんていないさ。僕としても君達に頼みたいことがたくさんあるからね』
「……どうしてそう言い切れる」
『手の内を予測できているのは君達だけじゃないってことだ。これまでの行動から推測すると、君達の誰かが《真偽判定》か《真偽看破》を持っているんだろ?』
俺とクリスは声を発さずに顔を見合わせた。優秀な錬金術師とやらの頭脳を少し甘く見過ぎていたかもしれない。
『それを踏まえて宣言しよう。この誘いに罠はない。影に潜り込めば僕のいる場所に移動できる。移動直後の身柄の自由と安全は保証しよう』
あまりにも露骨過ぎる誘いだ。しかも俺達には選択肢が殆どなかった。これを拒めば、三人で洞窟を歩き続けて、外に出られるかエノクのところにたどり着けるかを祈るしかない。
虎穴に入らずんば虎児を得ずという言葉があるが、この巣穴に潜んでいるのは虎よりも恐ろしい怪物だ。しかし俺達は怪物の正体を暴き、退治するために来たのだ。
俺はクリスと共に考え抜いた末に、黒い穴のような影に足を踏み入れた。




