74.僅かな休息
その声を聞いた瞬間、俺の脳裏に過去の記憶が蘇った。
Dランクになって初めての依頼――廃都市でタルボットを倒した直後、奴を連れ去った正体不明の声。間違いなくあのときの声だと理解した瞬間、俺は反射的に飛び退いていた。
直後、腕の形をした無数の影がディーの身体の下から湧き出てきて、ディーだけでなく俺まで引きずり込もうとしてきた。
黒い影が鼻先をかすめる。反応が少しでも遅ければ間違いなく捕まっていたところだった。
『残念』
ディーの身体が影に飲み込まれる。タルボットと同じように、この声の主に回収されたのだろう。今の俺にはそれを止める手段はなく、そもそも妨害に動く暇すらないあっという間の出来事だった。
その代わりに、俺は姿の見えない相手に向けて声を上げた。
「待て! 何のつもりだ!」
どこからか声が聞こえる理由も今なら理解できる。アイビスの《ディスタント・メッセージ》と同一、もしくは同系統のカードの効果だ。それならきっと、こちらの声も向こうに届いているに違いない。
影は消えることなく、ディーが寝そべっていた場所で渦巻いている。まるでこちらの出方を伺っているかのように。
『無意味な質問だね。素直に答えると思っているのかい?』
――《ディスタント・メッセージ》と同じ原理なら、話している奴の周囲の音も声と一緒に拾われているはずだ。
エステルに静かにするよう身振りで伝え、耳を澄ます。《聞き耳》なんていうありきたりなコモンスキルがストックにあったことを、こんなにもありがたく思うとは思わなかった。
『僕が誰なのか知りたければ探してみればいい。もっとも、その街にいるとは限らないけどね』
どうん――どうん――
男の声の背景で、心臓の鼓動の音を膨らませたような音が聞こえる。何かの装置の駆動音だろうか。発生源までは判別できなかったが、俺はその音を記憶に刻み込んだ。
渦巻く影が小さくなり、急激に薄くなって掻き消えた。
情報源を連れ去られてしまったが、追い詰めるための手がかりは掴んだ。ひとまずルイソンに《ディスタント・メッセージ》経由で状況を報告する。
「ルイソンさん。緊急の報告です」
『どうした! こっちは忙しいんだがな!』
激しい戦闘の音が聞こえてくる。巨大な黒鎧との戦いが続いているようだ。
「エノクの影武者……ディーを撃破しました。ですが直後に仲間らしき奴に連れ去られて、確保はできませんでした」
『なにぃ!? お前ふざけてんのか!』
「事情は説明します! まずは合流できませんか。俺達は中庭にいます」
『――そこで待ってろ、すぐに行ってやる!』
「なるほど、作戦会議のときに言ってた奴だな」
合流してすぐに、俺達は一連の出来事をルイソンに伝えた。
ルイソンは意外にも――といったら失礼だが――冷静に報告を聞き、現状を分析している。
タルボットを連れ去った謎の影については、作戦会議の段階で既に伝えてある。奇しくもさっきの声が言っていたとおり、影の使い手がこの街にいる保証はなかったので、担当者を割り振って対処させることはなかったのだが。
ちなみに、例の巨大な黒鎧との戦いは決着が付かなかったそうだ。戦いそのものはルイソンが有利だったが、何度打ち倒しても平然と起き上がってくるのに手を焼いていたらしい。
「多分、そいつが本物のエノクなんだろうな」
「俺もそう思います。タルボットと影武者……両方を助ける動機がある人間なんてそれくらいでしょう」
ここまではいい。すぐに予想できる。
問題は、本物のエノクがどこにいるかだが――
「ストイシャには俺から伝えておく。お前らはこれでも食って待ってろ」
そう言って渡されたのは、薬草の粉末を固めた板のようなものだった。サイズも形も質感も、いわゆる『板ガム』とよく似ている。
「これは?」
「満月草とその他諸々を調合した魔力回復剤だそうだ。口ン中で噛み砕いてから飲み込め」
言われたとおりに噛み締めると、凄まじい苦味が口中に広がった。あまりの苦さに悶絶しそうになる。まるで青汁の粉末をそのまま咀嚼したかのような強烈さだ。思わず水筒の水を煽って全部胃に流し込んでしまった。
ガムに似ていたのは形だけで、普通に噛み砕いて飲み込むことができたのは、不幸中の幸いと言うべきだろうか。このまま噛み続けろと言われたら、それは既に拷問の類だ。
エステルが隣で俺の顔と、自分が渡された青汁板ガム、もとい回復剤を見比べて、さり気なく回復剤をポケットに隠そうとする。
「おっと。お前も魔力消耗してるんだろ? 潔く回復しておけよ」
「いやいや、私はまだ余裕が……」
「そんなこと言わずに、ほらがぶっと」
「本当に効果あるんですかそれーっ!?」
飲ませようとする俺と服用を渋るエステルの攻防を見て、ルイソンが呆れた顔になった。
「イチャつくのは後でやれっての。しかしそんなに飲みにくいか。試作品は失敗だって後でプリムローズに言っとかねぇと」
「試作品使わせたんですか……」
「どんな形なら服用しやすいかっていう試作だ。効果自体は問題ねぇ」
ルイソンの態度は『些細な問題だ』と言わんばかりだが、経口で服用する薬にとってかなり重要なポイントじゃないだろうか。
効果は本物だと言われて、エステルも諦めたかのように回復薬を口にする。苦さのあまり美少女ぶりが台無しだ。
口にする前に《鑑定》しておくべきだったかと思ったが、鑑定結果に『味』が表示されるとも限らない。多分、表示されない可能性の方が高そうだ。
「それで、ストイシャさんは何と言っていたんですか?」
俺とエステルは報告の邪魔にならないよう距離を取っていたので、ストイシャからの指示をルイソン経由で聞くことにする。
「まずは研究施設のアルスラン達と合流しろだと。プリムローズ達の方は既にグロウスター卿を確保したらしい。本物を探すのはその後だ」
「――あっ――」
恐ろしい想像が脳裏を過ぎる。
俺はすぐに、それを叫ぶように口にしていた。
「本物が助ける動機のある人間――もう一人いるじゃないか! グロウスター卿のところにも奴が――」
次の瞬間。悲鳴のような声が《ディスタント・メッセージ》を通じて響き渡った。
『大変なの! 助けてルイソン! プリムローズが、プリムローズが……!』
「……! アイビスか! どうした、落ち着け! ……くそっ、切られた」
ルイソンは迷うことなく屋敷に向かって駆け出した。俺達も困惑しながらその後を追いかける。
「私、アイビスさんに繋ぎ直してみます!」
「駄目だ! 途中で通話を止めたってことは、それ以上喋っていられなくなったってことだ! こっちの声を向こうに響かせるわけにはいかねぇ!」
例えば――息を潜め、襲撃者に気付かれないよう隠れている場合。ルイソンが考えているのは恐らくそういう状況だ。ここで俺達の側から呼びかけて、声を響かせてしまったら、向こうに最悪の事態を引き起こしかねない。
ルイソンの肉体の形状が変わっていく。人間の形をした狼から、人間の着衣を身につけた巨大な狼そのものへと。
「お前らの面倒は見てやれん! 俺は先に行く、後からついて来い!」
四本の脚を振るって凄まじい速度で走り去るルイソン。
俺とエステルも、可能な限りの力を尽くしてアイビス達のところへ走り続けた。




