53.男と少女の思惑
「はじめまして。私が開発責任者のエノクだ」
落ち着きを感じさせる、深みのある声だ。見た目通りと言ってしまえばそれまでだが。
エノクと名乗る男は笑みを湛えたまま、大袈裟な身振りも交えて語り始めた。
「君達には大変な迷惑を掛けてしまった。大事に至らなかったのは君のお陰だ。この埋め合わせは必ずさせてもらうよ」
「あいつを止めようとしたのは俺だけじゃないでしょう。お礼なのかお詫びなのか知りませんけど、他の人達にもしてもらえるんですよね?」
俺の念頭にあったのはレオナのことだった。危うく酷い目に遭わされるところだったのだから、俺が埋め合わせとやらをしてもらえるなら、レオナも対象でなければ道理に合わない。
しかし、エノクは俺の主張を謙虚な発言とでも受け取ったのか、妙に感心した素振りで頷いた。
「若いのになかなか人間が出来ているな。実に結構。もちろん他の冒険者達にも追加の支払いをするつもりだ。被害に遭った者達には特にな」
「……それならいいんですけど」
正直、俺はエノクの意図を全く掴めなかった。
暴走した兵士を止めるにあたって、俺は特別な働きをしたわけじゃない。あくまでレオナを守っただけだ。与えたダメージはクリスの方がずっと多いはずだし、決め手の一撃は顔も知らない冒険者が放った投槍だ。
代表として俺を呼んだのなら筋違いこの上ない。より適任のクリスが俺の後ろに立っている。かと言って、あの件以外で実験の責任者に呼び出される理由は思い浮かばなかった。
どうして俺を呼んだのか――ストレートにそう訪ねようとした矢先、エノクがその答えを口にした。
「そろそろ本題に入ろう。実は、各ランクの参加者の中で働きぶりが最も見事な者に賞品を与えることになっていてだね。君がDランクにおける最有力候補だったのだ」
「賞品?」
「実験は中断したが授与は予定通り行うつもりでいる。明日にでもギルドに届けさせるので、指定の時間にギルドハウスで待っていてもらえないか」
それなら他にも適任がいるだろう。そう思ってクリスの方を見たが、クリスは薄く笑いながら首を横に振った。
クリスはさっき「この中だと君が一番強い」と言っていた。てっきり煽てているだけだと思っていたが、まさか本気だったのか。今更ながら気恥ずかしくなってしまう。
「商品の受取の件、了承してもらえるかな?」
「……分かりました。いいですよ」
エノクは満足そうに頷くと、具体的な時間を指定して立ち去った。ヘルマはその後ろにまるで影のように付き従い、俺達に一瞥もくれることなく姿を消してしまった。
二人きりになったところでクリスが改めて口を開く。
「あの男のこと、どう思う?」
「心底胡散臭いな」
これが率直な感想だ。エノクという男に対して、俺は信用とか信頼といった感情を抱くことができそうになかった。
もう少し正確に言えば、エノクの喋り方や態度そのものは好印象だ。その中身が異様なだけで。
「どう考えても真っ当な研究はしてないはずなのに、表向きだけ真っ当に振る舞ってるのが見え見えで気味が悪い。これなら露骨に悪党っぽい見た目の方がまだマシだ」
「それなら言ってしまえばいいのに。あの鎧はどんな非人道的な仕組みになっているんですかって」
「んなこと聞けるわけないだろ」
クリスは明らかに俺をからかっている。表現を変えれば、試している。
あの場面で核心を突くのが下策だときちんと理解した上で、俺の考えを聞き出そうとしているのだ。
「もしも本当にヤバいことに手を出してるとしても、はいその通りです、なんて素直に答えてくれるわけがないだろ。必要以上に警戒されるだけで何の得にもなりやしない」
だから俺は、エノクとの会話で踏み込んだ発言をしなかった。
ミステリードラマの探偵役が犯人にカマをかけて動揺を誘うシーンはよくあるが、あんな手口が通用するシチュエーションではない。最悪、明日の朝に用水路に浮かんでいることだって有り得るだろう。
「でも賞品は受け取るんだね」
「向こうから情報を送ってくれるっていうんだから、ありがたく受け取るさ。すぐにギルドに調べてもらうつもりだけどな」
「――うん、賢明だ」
罠が仕掛けられているならそれ自体が動かぬ証拠になるし、まともな贈り物ならエノクが俺をどう捉えているかの判断材料になる。
クリスは笑顔で頷くと、俺の顔を覗き込んできた。
「やっぱり疑ってるんだね。タルボットとかいう錬金術師との繋がりを」
「当たり前だろ。強化されて凶暴化する生き物だなんて、共通点が強烈すぎるぞ」
だからこそ、賞品とやらを受け取って情報を得ようと思ったのだ。
もちろん、エノクとタルボットが直接繋がっていると考えるのは安直だ。タルボットが闇ルートで《錬金術》のスキルカードを購入するために研究成果を売却し、それを購入しただけの関係というのも有り得る。
だが警戒はしておくべきだ。タルボットの件がなくても、エノクの研究には不審な点が多すぎる。
「慎重にして大胆。ますますあの人好みの冒険者だ」
「そりゃどうも。男の好みにピッタリでも嬉しくないけどな」
用件は済んだのでそろそろ作業に戻った方がいいだろう。その道すがら、クリスが世間話のように話しかけてきた。
「商品の受け渡しにはボクも立ち会っていいかな。他のメンバーとも顔を合わせておきたいんだ」
「もうこっちのパーティに入るつもりなのか……立ち会うくらい別にいいけどさ、二人にどう説明するのかはそっちが考えろよ」
「それはもちろん。あの人との関係は伏せておくつもりだから、君も秘密にしておいてくれるかな」
サブマスターの養女という立場は、無利子で金を借りているという関係よりもずっと関心を集めてしまうはずだ。隠しておきたいのも当然だろう。
俺は、この情報が嘘だという可能性はないと判断している。ギデオン本人に直接確かめれば一発で真偽が分かるわけで、騙しのネタとしては下の下もいいところだ。
「……ん? てことは、ギデオンの養女だってこと、普段からずっと隠してるのか?」
そうでなければ、レオナとエステルに秘密にする意味がない。
クリスは色の薄い唇に笑みを作って、意味深に微笑んだ。
「君とボクだけの秘密さ。いつもはクリス・テイラーと名乗ってるよ。事情が事情だから、特例でギルド公認の偽名を使ってるんだ」
二人だけの秘密と来たか。これが普通の高校生同士の会話なら一撃必殺の殺し文句になっていたところだ。
しかし、俺とクリスの間柄では甘酸っぱい意味合いは生まれそうにない。
クリスは俺とギデオンの本当の関係を知っている。なので必然的に「そちらの秘密をバラされたくなかったら、こちらの秘密を黙っておけ」という遠回しな脅しの意味合いが混ざってしまうのだ。
「分かってる。誰にも言わない」
けれどそれは、裏を返せばクリスの誠意の表れでもある。
クリスは別にギデオンとの関係を明かす必要などなかった。正体を隠したまま、俺の秘密を盾に主導権を握ることもできたはずだ。
しかしクリスはそうしなかった。あえて自分の秘密を明かし、お互いに弱みを握り合う対等の関係に持ち込んだ。これを誠意と言わずに何と言う。
俺はこの少女のことを信頼したいと思うようになりつつあった。きっとこれもクリスの狙い通りなんだろうけど。
「そうだ、最後に一つ」
別れ際にクリスはダンスのターンのように振り返った。
「さっきの男、エノクじゃないみたいだ。別人だね」
「……は? え? なんで分か……いや、ていうか偽物なのか!」
「偽物というのは不正確かも。自分がエノクだと自己紹介したところ以外に嘘はなかったはずだから、きっと影武者だと思う」
影武者――エノクが重要な立場の人物なら、こういう場合に身代わりくらい立てても不自然ではない。特にさっきの面会など、俺が刺客でエノクが本物だったらあまりにも簡単に暗殺が成功していただろう。
「でも、どうしてそんなことが分かったんだ」
「それは内緒。パーティに入れてくれたら教えてあげるよ」
クリスは唇に指を当てて微笑むと、人混みの中に走り去っていった。
信頼したいと思い始めた途端にこうだ。これではさっきのエノクが影武者だということも信じずにはいられないじゃないか。少年のような見た目と言動の割に、なんて小悪魔的な少女なんだろう。




