33.昇格試験―開幕
ムーン山脈は、街道を外れて更に半日ほど北上した先に位置している。
街道を外れると治安が悪化する傾向にあるのだが、幸いにもその手のトラブルに見舞われることなく、安全に山の麓までたどり着くことができた。
ハイデン市からここまでの距離を日本の地理で例えるなら、だいたい東京から長野の山地まで歩いたくらいだろうか。一日の移動距離を三十キロから四十キロとして、おおよそ百キロ程度を歩いたことになる。
「近くで見るとやっぱり壮大だな……」
俺は目の前の山を見上げて溜息を吐いた。
日本の山地とはまるで違う。なだらかな丘陵地帯と険しい岩山が隣接していて、境界付近に申し訳程度の森林が広がっている。正確に言うと森ではなく林だ。まっすぐ歩けばすぐに抜けられてしまいそうな深さしかない。
林の中の細い道を通り抜けている間に、アルスランはムーン山脈についての講釈を始めた。
「ムーン山脈はハイデン市の北方にそびえる天然の城壁だ。帝国による大陸統一戦争の間、他国の軍がムーン山脈を越えて侵攻してきたことは一度もない。しかし、難所であるが故に開墾も進まず、山越えの道すら整備されていない有様だ」
「俺達はこれからそんな山に登るわけですけど、本当に大丈夫なんですか?」
ちらりとエステルに視線を向ける。やる気に満ちた顔で前を向いているが、歩く姿からは隠しきれない疲労の色が見て取れる。
隣を歩くレオナもそうだ。エステルほどではないが、だいぶ疲労が溜まっているように思える。
「大丈夫……です。まだやれますっ」
「失礼ね。これくらいで泣き言でも言うと思った?」
「そうだな……悪い、忘れてくれ」
もう少しで林を抜けるというところで、反対側から家畜を連れた男が現れた。
男は俺達に驚いた様子だったが、アルスランが丁寧に挨拶をすると、躊躇い気味に会釈を返してすれ違っていった。
「……石漁りか……」
「……?」
通り過ぎた男が何事か呟いた気がしたが、俺以外は誰も気に留めなかった。
「この山の低い場所には家畜の消化を良くする草が生えている。地元の者は家畜の運動も兼ねて食べさせに行くそうだ」
アルスランも『石漁り』という言葉には言及しなかった。
聞き間違いかもしれないし、取るに足らない言い回しなのかもしれない。どちらにせよ深く考える必要はないだろう。
日が暮れていく中、緑のない山道を登り続ける。
太陽が西の地平線に消え、東の空から順に黒く塗り潰され、満天の星空が広がる時間になっても、ランタンの灯りを頼りに先を急ぐ。
やがて、アルスランは一軒の粗末な山小屋の前で立ち止まった。
「この小屋でしばし仮眠を取る」
家とは呼べないほどに小規模な小屋だ。風雨を凌いで夜を明かす以外の目的は持たされていないのが見て取れる。
「夜間の狩りを終えたナイトウルフの群れは、夜明け前にナワバリ内の特定の場所に集まって休息を取る習性がある。そこを狙って勝負をかける」
「つまり、朝になるまでは仕掛けないんですね」
「そういうことだ。狩りの最中の群れを探し出すのは困難だからな」
小屋の中には簡素な二段ベットが幾つか設置してあった。それ以外には家具らしきものは見当たらない。ベッドにもシーツや敷布団なんて気の利いたものはなく、持ち込んだ毛布やマントに包まって寝ろと言わんばかりのシンプルさだ。
「見張りは私が請け負おう。君達は少しでも休みを――」
「はい……」
「う……ん……」
アルスランが最後まで言い終わる前に、レオナとエステルが揃ってベッドに倒れ込んだ。
「お、おい。大丈夫か?」
「これは仮眠を取らせて正解かにゃ。まぁしょうがにゃい」
「君達も休むんだ。いいね」
爪の生えた大きな手でベッドに押し込まれる。ここで意地を張っても仕方がない。お言葉に甘えてささやかな仮眠を取らせてもらおう。
夜明け前――まだ空が暗い時間帯に、俺達は山小屋を後にした。
昨日までの宿屋とは比べ物にならないとはいえ、多少の休息を取ることができたおかげか、皆の歩調から疲労の色が薄れているような気がした。
仮眠を取っていないはずのアルスランが元気なのは、さすがはCランク冒険者と言うべきだろうか。
「ここから仕掛ける。ロックサンド、例のスペルを頼む」
「了解、任せて」
アルスランが立ち止まったのは緩やかな崖の上だった。コピーした《遠見》で崖下を見ると、白っぽい体毛の動物がたくさん集まっているのが見える。
光源が月明かりだけなのでハッキリと判別することはできないが、きっとあれはスケイルウルフの群れだ。
岩場の中央に我が物顔で寝そべっている、他の狼より一回りも二回りも大きなシルエット――あれがナイトウルフか。
「《スリープミスト》」
ココは崖の縁に立って小声でスペルを唱えた。白い霧が発生し、岩だらけの斜面に沿って下に広がっていき、スケイルウルフの群れを包み込んでいった。
「予想より拡散しちゃったけど、普通の動物は魔力抵抗が低いから、これで当分は眠ったままだと思う。ナイトウルフには効いてにゃいだろうけど」
「近くで戦っても起きないのか?」
「うっかり攻撃を当てるとか、大爆発でも起こしたら起きるよ?」
それくらいしない限りは平気ということらしい。
アルスランを先頭に、緩やかな崖を慎重に降りていく。注意深く進めば問題なく進める角度だが、うっかり足を滑らせたら大惨事だ。
こういう場面では、転びかけた女の子を受け止めるシチュエーションがお約束なのかもしれないが、実現はちょっと難しそうだ。多分アルスランくらいの体重が必要になる。
崖下に降り、眠りこけたスケイルウルフの間を通り抜けて、岩場の中央に近付いていく。
玉座のような大岩の上から、ナイトウルフは俺達を見下ろしていた。
配下が呪文によって眠らされたことを理解しているのか、不気味なくらいに落ち着いた様子で佇んでいる。
騎士と名付けた奴の気持ちがよく分かる。硬質化した毛皮は金属質の光沢を帯びていて、まるで頭と背中に甲冑を身に着けているかのようだ。
「無理に攻めようとするな。君達は守りを固め、配下の狼が目を覚まさないか注意を払うんだ。目を覚ました個体は速やかに討て」
「了解……っ!」
俺達はそれぞれの装備カードを発動させた。
エステルの《フロストガントレット》
レオナの《フレイムランス》
ココの《メタルクロー》
俺の《始まりの双剣》
そしてアルスランの手には、人の背丈よりも大きな大剣が握られた。
いざ戦いの火蓋を切ろうとしたとき、ナイトウルフの肉体に異変が起こった。
全身の毛が波打ち、内側から膨れ上がるように肉体が肥大化していく。それと同時に、金属的な硬質化が鼻先から尻尾まで全身に広がっていった。
全身甲冑。そうとしか表現のしようがない姿だ。
ただでさえ普通の狼の三倍近かった巨体は更に数倍ほど巨大化し、その全身を金属のような毛皮がくまなく覆っている。こんなモノが自然の生き物だとはとても信じられなかった。
「これが本気の戦闘形態ってことか」
「……違う!」
俺が何気なくこぼした呟きを、アルスランが鋭く否定した。獅子の顔が牙を剥き、恐ろしい眼差しでナイトウルフを睨んでいる。
「ナイトウルフに、このような能力は……ない! 何なのだアレは!」
皆の間に驚愕が走る。その瞬間、金属の獣が砲弾じみた勢いで跳躍した。