162.エスケープ・フロム・ホテル
必死の形相で駆け寄ってきた金髪の少年は、まず赤髪の少女が無事であることにほっとした表情を浮かべ、それから俺の存在に気が付いて思いっきり後ろに飛び退いた。
「うおわっ!? な、な、何なんだお前!」
オーバーな驚きようだと思ったが、すぐにその原因に気が付いた。《ミラージュコート》を中途半端に羽織っていたせいで、体が半分ほど消えたように見えている。それで驚かせてしまったのだろう。
ひとまず《ミラージュコート》を解除して、皆が待っているはずの大部屋に向かおうとする。だが、金髪の少年が目の前に立ちはだかって行く手を塞いだ。
「ちょっと待て! お前、そのカード! まさかお前がやったのか!」
「はぁ? 何の話だ」
「お前のせいでお嬢はなぁ!」
全く状況が掴めない。時間がもったいないので強引に突破してやろうかと思ったところで、赤髪の少女が割って入ってきて少年に厳しい顔を向けた。
「やめなベルナルド。この人は違う」
「ど、どうして言い切れるんですか!」
「私を庇ってくれたからだよ。もしもこの人が刺客だっていうなら、私が捕まった方が好都合なはずじゃないか」
そうして赤髪の少女は俺に向き直り、別人のようにしおらしい態度で深々と頭を下げた。
「助けてくださってありがとうございます。それとうちの者が大変なご無礼を。よろしければ事情を説明させてください」
「悪いな、聞きたいのは山々だけど急いでるんだ」
「でしたら私達もご一緒します」
いやそれは正直どうなのか。確かに事情は聞きたいが、犯人だと疑われている奴と――何の犯人かは知らないけれど――一緒に行動していたら、こちらまで疑われたり共犯だと思われたりするのではないだろうか。
どちらかと言えば、戦力や身を隠す手段が増えるあちらにとって有利に働く条件だ。それを承知の上で、俺に事情を説明するという名目で自然に同行しようとしているのだとしたら、この少女は相当に計算高い。
改めて赤髪の少女を見据える。少女の瞳からは、どんな手段を使ってでも苦境を切り抜けてみせるという意志が感じられた。
「……勝手にしろっての」
「ありがとうございます」
ここで言い合っている時間すらもったいない。ついて来るかどうかの判断は向こうに任せ、俺はとにかく大部屋を目指すことにした。その間に、赤髪の少女は自分達が置かれている状況を簡潔に説明し始めた。
少女――ステファニア・ドラグナは、東方領域の小さな町を拠点とする地下組織、生前の世界でいうマフィアのような集団のリーダーの娘だったという。
そしてこの旅館に集まっている連中は、とある重大な問題に関する会合に出席するため、東方領域各地の地下組織から送り出された代表者だった。この旅館は有力な地下組織の出資で建てることができたので、無理な要求も受け入れざるを得ないのだという。
周辺の宿屋が店を閉めるような悪天候でも営業していたのも納得だ。貸し切り扱いにせず俺達を泊めてくれたのは、何かのミスか偽装工作の一環だったのかもしれない。
そして昨晩、有力ファミリーの代表者が何者かに殺され、ステファニアはその容疑者の一人として追及を受けた。もちろん容疑者は一人ではなく、複数の弱小ファミリーが疑いを掛けられているのだが、怒りに燃える有力ファミリーは『疑わしきは罰する』の精神で全方位に報復の刃を向け始めた――それが今の混乱の原因だとステファニアは語っている。
「みんな! 無事か!」
ステファニアの説明を流し聞きしながら、大急ぎで大部屋に飛び込む。
だが、そこは既にもぬけの殻だった。
「いない……?」
人影どころか荷物の一つすら見当たらない。ひょっとして部屋を間違えたのではと思ったが、どうやらそうではないようだ。その証拠に、テーブルの上にルースの字で書かれた置手紙が残されていた。
「先に行きます……そうか、ちゃんと危険に気付いて逃げたんだな」
安心してほっと溜息を漏らす。残る不安は無事に逃げられたかどうかだが、全員揃っているなら大抵の脅威からは逃れられるだろう。
「お嬢! ここから逃げられそうですよ!」
金髪の少年が窓際で声を上げた。見ると、予備のシーツを固く結び合わせた即席のロープが、窓枠から雪に覆われた地上まで垂れ下がっている。
窓から身を乗り出して目を凝らせば、十人近い人数の足跡が雪の上に残されているのがうっすら見て取れた。
「そうか、ここから……まだ気付かれてなさそうだな」
入り口を封鎖していた連中も、玄関から正反対の位置にあるこの窓までは、まだ手が回っていないらしい。
建物の裏側まで意識が回っていないのか、単純に人手が足りていないのか。こき使われて駆けずり回っている下っ端には同情するが、今はその隙をありがたく突かせてもらうことにしよう。
「俺が先に降りて、安全かどうか確かめます。もし待ち伏せとかされてたら、俺を置いて別ルートから逃げてください。いいッスね、お嬢」
「けどカルロスがまだ……」
「あの人なら自分一人で切り抜けられますって! カルロスさんがどんだけ強いのか、お嬢もよく知ってるでしょ。それより、高いところが怖いからって尻込みしないでくださいよね」
「誰がするかっ!」
ステファニアに背中を蹴られながら、金髪の少年がシーツのロープで窓から降りていく。
そのとき、締めておいた扉が乱暴に開け放たれ、見るからに荒くれ者な姿の連中が飛び込んできた。
「いたぞ! やっちまえ!」
「ちっ……!」
やるしかないか――双剣の片割れを左手に実体化させようとした瞬間、部屋の入り口で血飛沫が舞った。
「ふん、やらせるわけがないだろうが」
「カルロス!」
片刃の刃物を手にした傷だらけの顔の屈強な男が、地面に倒れ伏した荒くれ者達を踏み越えてくる。鋭い目つきで返り血まみれのその姿は、まるで地獄の鬼が地上に抜け出してきたかのようだ。
カルロスはそのままの眼光を俺に向けると、わずかに目を細めた。
「冒険者。お嬢が世話になったようだな。礼を言う」
「誤解されなくて助かりましたよ」
金髪の少年の時みたいに誤解を受けたら大変なことになるところだった。カルロスの理解が早かったのは本当に幸いだ。
「まだ他のファミリーの追手が来るはずだ。お嬢は今のうちに脱出を」
「だとさ。降りられるか?」
ステファニアは窓から下を見て表情を強張らせ、首を振って恐怖心を振り切ってから、窓枠に足を掛けた。
しかしそこで動きが止まってしまう。降りなければと頭では理解しているが体がついて来ないといった様子だ。確かに命綱も無しで三階から降りるのは肝が冷える。上手く落ちれば死ぬことはないと頭で理解していたとしても。
廊下の向こうから足音が迫ってきているのも、ステファニアを焦らせて冷静さを失わせていく。
「お嬢、お早く。俺が足止めをします」
「下は雪なんだし、この高さからなら落ちても平気だろ。俺の仲間には癒し手が一人いるし、俺も《ヒーリング》が使えるから、万が一のときでも大丈夫だ」
「そ、それならっ!」
ステファニアは声を上ずらせながら、窓枠に足を置いて大きく身を乗り出した。
「ゆっくり降りるより、飛び降りた方が恐怖は一瞬だ! そうだな!」
「おいおい……」
恐怖心が焦りで裏返って妙な方向に思い切ってしまったか。普段なら悪い結果しか起こさない開き直りだし、何としてでも引き止めるところだったが、今回ばかりは却って都合がいい。
「……まぁいいや。それなら一緒にいこうか」
「え? うわあっ!?」
左腕でステファニアを抱き寄せ、間髪入れずに窓から身を躍らせた。
「ああああああああああああっ!」
耳をつんざくような悲鳴が顔の横で響き渡る。
落下開始から一秒にも満たない間に、《ミラージュコート》をコピーさせていた《ワイルドカード》を足元に実体化させ、空中でそれを蹴りつける。
《ワイルドカード》のコピー状態の切り替えには、実体化させたカードに体の一部を接触させる必要がある。普段は手を触れさせて擦るように動かしているが、単にやりやすいからそうしているだけであって、別に手でなければ切り替えられないというわけではない。
蹴るような動きで切り替えられた《ワイルドカード》が、光の粒子となって俺の体に吸い込まれ、コピーしたスペルの力を流し込んでくる。
「《ワールウィンド》!」
旋風のスペルが巻き起こり、降り積もった雪の表面を吹き飛ばしながら二人分の落下速度を軽減させる。
しかし減速はある程度のところで限界に達し、俺達はそれなりの速度で雪のクッションに沈み込んだ。
「……くそっ、やっぱり《ワールウィンド》じゃこの程度が限界か。ナーガの一件で試さなくて正解だったな」
体の上の雪を払って立ち上がる。スペルを柔軟に応用するといってもやはり限度がある。効果範囲内の対象を吹き飛ばすことを前提とした《ワールウィンド》は、体を乾かす用途には使えても、風圧の反作用で落下速度を打ち消すのには向いていなかったようだ。
「にしても、また窓から飛び降りて逃げることになるとはなぁ。知らないうちに変な呪いでも受けたか?」
「ま、また……? お前、一体どんな生き方してるんだ……」
「おっと、大丈夫か。怪我してるなら治すから言えよ」
「平気。これくらいどうってことない」
ステファニアが起きるのを手伝って、ここからすぐに離れるよう促す。平気だという割にはふらふらで足取りがおぼつかないようだ。
――不意に黒い影が空中に飛び出したかと思うと、今度はカルロスが躊躇いのない姿勢で飛び降りてきた。減速無しの垂直落下かと思いきや、空中で地面を蹴るような動作をすると、カルロスの体が僅かに浮き上がった。
「空気蹴って跳んでるのか? とんでもないな、おい」
小刻みな空中ジャンプを繰り返し、カルロスは何の問題もなく雪原に降り立った。身体能力であんな真似をしたとは到底思えないので、きっと何かしらのスキルを使用したのだろう。
「待たせたな」
「凄いけど、それ使ってお嬢と一緒に降りればよかったんじゃ?」
「重量オーバーだ。鍛錬を積めば可能だが、手に入れたばかりのカードだから性能が足りん」
要はレベル不足である。入手して間もないカードならそういうこともあるだろう。
隣でステファニアが「私が重いわけじゃない」と呟いた気がしたが、あえて聞こえなかったことにした。
「ちょ、ちょっと皆! せっかく俺が安全かどうか確かめたのに、どうして使わずに飛び降りてくるんですか! ていうか飛び降りて逃げるなんて非常識でしょ!」
「非常識で悪かったな。今年に入って二回目だよ」
「手っ取り早いに越したことはないだろう。それよりも町までの脱出手段の確保のことを考えろ」
金髪の少年の不平不満を三人揃って聞き流しながら、雪をかき分けて宿場町の横手の街道を目指す。雪馬車が行き来するのもこの街道だ。きっとパーティの皆もそこに集まっているに違いない。
後はただ、追手が先回りしていないことを祈るだけだ。