160.不穏な遭遇
「わぁっ、凄い!」
大部屋に入るなり、エステルが感嘆の声を上げた。
俺達に割り当てられた大部屋の客室は、旅館の内装に負けず劣らずの凝った造りをしていた。流石にグロウスター領で利用した高級宿と比べると多少ランクは落ちるが、立地を考えれば規格外と言ってもいい。
四つずつ二列に並んだ寝台が部屋の半分を占め、もう半分はソファーやテーブルが置かれた歓談用のスペースになっている。格安宿の大部屋にありがちな、最低限寝起きできればそれでよしという酷い割り切りとは対照的だ。
「明日にはハイデン市から雪馬車が来るそうだから、とりあえず今日はゆっくり休もうか」
遅れてやって来たクリスが、従業員から得たと思しき情報を報告する。それを聞いたルビィは何やら不思議そうな顔をした。
「雪馬車って何ですか?」
「馬にそりを牽かせたものだよ。この辺りの地域だと、脚が太くて雪に強い大型種を使うそうだから、これくらいの雪なら問題にならないんだろうね」
その大型種は雪のシーズンの運搬用だけでなく、普段の農耕のためにも活用されているので、田舎育ちの身としては親しみがある。
馬と聞いて日本人が思い浮かべるサラブレッドとはまさに別物。縮尺を間違えた合成写真のような巨体で、蹴られたら蹄が腹を貫通するんじゃないかと本気で思わせる強靭さだ。
具体的にどれくらい大きいかと言うと、地面から肩までの高さが長身の人間の背丈と同じくらいだ。パワーは凄まじいが動きは鈍く、足場がないと背中に乗ることも至難の業。なので馬車も含めた乗用にはあまり使われない品種である。
個人的な想像だが、こいつらを冬の間にも活用するために雪馬車が考案されたのではないかと思っている。
「詳しいんだな。この辺りの出身だっけか?」
「いや、知識として知っているだけさ」
そんな話をしている後ろで、ベリルがベッドに思いっきり倒れ込んだ。
「ちょっとベリル。寝るなら汗くらい流してからにしたら?」
「……少し休んでからにする……」
咎めている側のルビィも力尽きた様子でソファーにもたれかかっている。二人とも慣れない雪道ですっかり疲労困憊のようだ。
「風呂か……夕飯の前に入ってくるかな」
「じゃあ私も」
俺の何気ない呟きにレオナも同意した。
寒いと汗をかかないというのはよくある誤解だ。体温が低くなっていればその通りだが、防寒をきちんとして動き回れば普段以上に汗をかく。雪掻きなんてしようものならあっという間に汗だくである。
ちなみに、当然ながら浴場は男女できっちり分けられている。宿泊料金の高い部屋には個別の風呂が付いていて、普通の部屋と大部屋の客はまとめて大浴場を利用する仕組みだ。
そういうわけで、大部屋を出て一階の大浴場に足を運ぶ。
「……あれ? 意外と空いてるな」
入り口でレオナと別れて男用の脱衣所に入った直後、あまりの空きっぷりに思わず驚きの声を漏らしてしまった。
小さな家くらいの広さの脱衣所と浴場が全くの無人だ。団体客が大勢来ているというので、浴場も混んでいるに違いないと思っていたのだが、嬉しい誤算だ。
「そういや廊下に誰もいなかったな。部屋に閉じこもってんのかね」
「明日に備えて寝ちゃってるとか」
「にしても早すぎや……ん?」
独り言に返事をされて思わず振り返る。そこには何故かルースが当たり前のような顔をして突っ立っていた。
「おいちょっと待て。お前何してんだ」
「お風呂入るっていうから手伝おうかなって」
「いや何でそんな……」
「何でって、必要でしょ? 手伝い。服着たまま手伝うだけだから、別に気にしなくてもいいよ」
ルースは逆に不思議そうな顔で首を傾げた。まるで俺の反応の方が見当違いだと言わんばかりの態度だ。
「癒し手ってそういうのも仕事のうちなのか?」
「一応ね。男の怪我人なら男の癒し手が、女の怪我人なら女の癒し手が手伝うのが普通だけど、カイは家族みたいなものだから、ね」
「ね、じゃねーよ。後から別の客が入ってきたらびっくりさせるだろ。大丈夫だから、ほら行った行った」
手伝いの申し出を固辞して、ルースを脱衣所の外に押し出す。
家族みたいなものだからとルースは言うが、俺としてはむしろそれが問題だ。完全に血の繋がった身内なら気兼ねなく頼れるし、金銭で赤の他人の頼むなら仕事だからと割り切れる。けれど『家族のように親しい他人』に頼むのはどうしても気が乗らない。
もちろんこれは俺個人の気分の問題でしかないし、身内や他人と何が違うんだと言われても論理的には答えられない。単なるわがままだと言われても否定しきれない案件だ。
「さて、と……」
けれど、そんなわがままを言えるくらいの代替手段は用意してある。
片手でどうにか服を脱いで無人の浴場に入り、まずは体を洗うことにする。その前に《ワイルドカード》でコピーしたスペルを詠唱する。
「極小で――《ウォーターテンタクルス》っと」
ネットで泡立てた石鹸をしめ縄サイズの水の触手に混ぜ入れて、泡立つ触手に背中と左腕を洗わせる。暴れるターゲットを拘束できるだけの力と強度がある代物なので性能的には充分だ。
やることを済ませてから湯船に浸かる。ちょうどそのとき、脱衣所の方で物音がして別の宿泊客が入って来た。
ルースを入れさせなくてよかった――そう思いながら湯船の中から視線を向けると、偶然にもその客と目が合った。
……明らかに一般人ではない。筋肉質な肉体のそこら中に刻まれた刀傷といい、威圧感を放つ強面の顔立ちといい、どう考えてもヤクザとかマフィアとかそういう筋の人間だ。
冒険者の活動で負傷なら、人間の武器に与えられた傷ばかりなのは不自然である。人間と争うような依頼は数ある依頼の中でもほんの一部であり、野生の獣や魔物と戦って傷を負う機会の方がずっと多い。
人間同士の戦争が殆どなくなって久しいこの時代、刀剣による傷だけを大量に負う理由なんて限られている。その代表例が地下組織の人間だ。いわゆる組織間抗争による負傷である。
「……先客か」
「……どうも」
こちらがその男を見てぎょっとしたのと同じように、あちらも何故か俺を見て驚いた顔をしていた。
「……」
「……」
沈黙が流れる。そのまま最後までお互いに無言を貫くことになるかと思ったが、俺が湯船から上がろうとしたところで、向こうが唐突に口を開いた。
「お前、あちらの者ではないのか」
「何の話か知りませんけど、吹雪から逃げてきた一介の冒険者ですよ」
「そうか……ならば今夜は部屋で大人しくしておくといい。血の気の多い連中が何十人と顔を合わせるからな」
「はぁ……」
こんな強面から言われると洒落にならない忠告である。
冒険者として様々な修羅場に立ち向かってきた経験から、多少のことでは怯まなくなってきたが、それでも危機感を感じなくなったわけではない。むしろ危機や脅威に敏感になってきたくらいだ。
その直感が告げている。この男は明らかに厄介事を抱え込んでいるから、関わらない方が得策だと。
「パーティ全員くたくたですから、今夜はぐっすり眠るだけだと思いますよ」
「なら、いい」
男はそれだけ言うと再び押し黙ってしまった。あちらから関わる気は一切ないということだろう。俺としてもそちらの方がありがたい。
一足先に風呂から上がり、濡れた背中や左腕を《ワールウィンド》で乾かして、脱衣所を後にする。
廊下に出たところで、聞き慣れない声が投げかけられた。
「早かったッスね、カルロスさん――って、違ぇ」
声の主はチンピラ然とした雰囲気の金髪の少年だった。俺よりも背が低く、成人しているかも怪しい見た目をしている。
少年はそれ以上俺に関心を示そうとせず、壁にもたれかかったまま誰かを待ち続けるのを再開した。それに倣ったわけではないが、俺もレオナが上がってくるのを待つために廊下の壁に体重を預けた。
しばらくして、女用の風呂の方から話声が聞こえてきて、三人の少女が廊下に出てきた。そのうち二人はよく見知った人物で、一緒に部屋を出たレオナと、脱衣所から追い出された後に女湯へ移動したらしいルースだった。
そしてもう一人は、レオナやルースと同年代と思しき見知らぬ少女だ。
鮮やかで真っ赤な長髪を艶やかに流し、意志の強そうな顔に微笑みを湛えた少女。二人と会話を交わす様子はとても楽しそうに見える。
二人に声を掛けようとした矢先、金髪の少年がまるで飼い主を見つけた犬のような勢いで赤髪の少女に駆け寄った。
「お嬢! 疲れは取れましたか――あいたっ!」
少女の手刀が金髪の頭の真ん中に振り下ろされる。一瞬、少女は少年をきつい目でじろりと睨んだが、すぐに元通りの穏やかな表情に戻ってレオナとルースに向き直った。
「悪いけどもう一人待たせてるから、私はここで」
「そう? じゃあね」
「カイも部屋に戻ろっか」
二人に促されるままに俺も部屋に戻る。
去り際、赤髪の少女と金髪の少年の会話が耳に届いた。
「ったく……人前でそう呼ぶなって言ったでしょうが」
「すみません、お嬢……つい口が滑って」
「とりあえずあんたもひとっ風呂浴びてきな」
「いえ! 誰かがお嬢の安全を見張ってないと! カルロスさんが上がるまで待ってます!」
……なるほど、つまりはそういうことだ。
あの三人は同じ組織に属しているその道の人間なのだろう。呼称から考えると、三人のヒエラルキーは赤髪の少女が頂点で、次にカルロスという男、金髪の少年は一番下といったところか。
だが、それを皆にどう伝えるのかは悩みどころだ。
少なくとも、ここで物騒な会合が行われることは伝えなければならないが、レオナとルースは赤髪の少女と意気投合しているようだった。きっと彼女の素性を知らないはずであり、安易に明かしていいことではないかもしれない。
「さて……どうしたもんかな」
大部屋に戻るまでの間、俺はこの問題でたっぷり頭を使わされてしまった。