16.山葡萄亭
「ふぁ……もう朝か」
目を覚ました頃にはすっかり日が昇っていた。宿屋のベッドはいつも使っていた実家のベッドよりも快適で、普段以上にぐっすりと眠ってしまった。夕飯も美味しかったし、一泊百ソリドの宿にしてはかなり上質なのではないだろうか。
泊まる宿が決まっていないとエレナ達に話したら、二人が利用している宿屋を紹介してくれた。それがこの山葡萄亭だ。こんな当たりの宿を教えてくれた二人には感謝するしかない。
「顔、洗ってこよう」
少し寝すぎた気がする。朝飯の前に気分をさっぱりさせよう。そう考えて中庭の井戸に足を運ぶ。
井戸は昨日まではなかった衝立で囲まれていて、その向こうから水の入った桶をひっくり返す音がした。どうやら誰かが水浴びをしているらしい。
衝立の隙間から、白い肌と黒い髪がちらりと覗いた。
「……まさか」
水浴びをしているのはレオナだ。俺は直感的にそう思った。建物の陰に隠れながら、《ワイルドカード》のコピー状態をノーモーションで《遠見》に切り替えて、衝立の隙間に目を凝らす。
覗きは良くないという当たり前の罪悪感は、バレずに覗けるかもしれないという誘惑にじりじりと押し退けられていった。
さっきは身体も見えていた気がしたのに、《遠見》を使ってからは腕と髪の毛の端くらいしか視界に入らない。あともうちょっと、もう少しで……
「どうしたんですか?」
「うわぁあ!」
不意に後ろから話しかけられて奇妙な声を上げてしまう。
振り返ると、私服姿のエステルがきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「い、いや、その。誰が井戸使ってるのかなって気になってさ」
「レオナですよ。次は私の番ですから、ちゃんと順番待ちしてくださいね」
「そ……そうなんだ。うっかり見に行ったりしなくてよかったよ。あはは……」
運の良いことにエステルは俺が覗きをしようとしたことに気付いていない。俺は適当にその場を誤魔化して宿の中に戻った。
やっぱり悪いことはするもんじゃない。あの純粋な目で軽蔑の眼差しを向けられたら罪悪感で死んでしまう。ご褒美ですとか絶対に言っていられない。
猛省だ。二度とあんなことにはスキルを使わないようにしよう。
結局、俺は順番通りにエステルが井戸を使い終わるのを待ち、冷たい水で顔と頭を洗って煩悩を振り払ってから、宿の食堂で朝食を摂ることにした。
「さぁ! 今日もいっぱい稼ぎなよ!」
食堂に集まった宿泊客に檄を飛ばしているのは、山葡萄亭の女将のメリダさんだ。昔は美人だったんだろうと感じさせる顔立ちに、肝っ玉母さんという表現がよく似合う恰幅のいい体格の持ち主だ。
今日の朝食はパンと燻製肉。帝国では朝食を軽く済ませるのが一般的なので、肉が付いている分だけ気合の入った食事である。
夕食でも同じ燻製が出されたが、これがなかなか美味しい。何の肉かは知らないがとにかく旨い。噛めば噛むほど味が出る。山葡萄亭じゃなくて燻製肉亭に名前を変えた方が客受けしそうだと思うほどだ。
「ねぇ、今日はどんな依頼を受けるつもり?」
隣の席に座っていたレオナが世間話を持ちかけてきた。
「まだ決めてないな。とりあえず目に付いた依頼を受けてみようかなって思ってるところ」
山葡萄亭の宿泊客は大半が冒険者だ。朝食を食べてギルドへ向かい、依頼をこなして報酬を貰い、宿に戻って汗を洗い流して夕食を食べてベッドで眠る。他所の街から来た冒険者の生活サイクルはこんなところだ。
この街の出身者なら自分の家からギルドに通うし、ランクが上がって金銭的な余裕のできた冒険者は住居を借りるそうだが、俺のような駆け出しは一日分の報酬で一日分の宿を借りる自転車操業になってしまう。
山葡萄亭に限らず、ギルド周辺の宿屋はそんな冒険者を主なターゲットにしているらしい。
宿泊費は駆け出しの冒険者でも払いやすい一泊百ソリド。夜限定のサービスとして、薪の代金分の追加料金五ソリドを支払えば入浴も可。食事は宿泊費の割にしっかりしたものが朝夕二回。
一泊あたりの利益は少ないけど、客の長期滞在が多いのでちゃんと儲かる仕組みになっている。
「それなら、私達と一緒に仕事してみない? 報酬は高めなんだけど三人以上じゃないと受けられない依頼があってね。総額九百ソリドだから一人につき三百ソリドずつになるんだけど」
「三百ソリドか……一日で済むならいい感じの報酬だな」
「でしょ? 危険度もそんなに高くないし」
そんな話をしている横で、エステルが燻製肉を噛みちぎろうと頑張っていた。
エルフは噛む力が弱かったりするのだろうか。それ以前にエルフって肉を食べても大丈夫なのだろうか。……よく分からない。
「おや、さっそく仕事の相談かい? やる気のある新入りだね」
俺達のテーブルの前に横幅の広い人影が現れる。女将のメリダさんだ。
「頑張ってギルドを盛り上げておくれよ。そうしないとあたしらが儲からないからね。ほら、うちの名物だ。今日はタダでいいよ」
メリダさんは紫色の飲み物が入った小さな木のコップを三つ並べた。俺とレオナとエステルへのサービスらしい。
「ありがとうございます……こふっ!」
「ぶはっ!」
「んー、おいしー!」
俺は思わず咳き込み、レオナは少し噴き出し、エステルは美味しそうに飲み続ける。三者三様のリアクションにメリダさんは大笑いした。
これはジュースじゃなくて酒だ。アルコールは飲める方だが、不意打ちで飲まされたらこうなってしまう。レオナに至ってはアルコールを全く飲み慣れていなかったらしく、未だにケホケホとむせていた。
「名物の山葡萄酒だ。どうだい、美味かったろ?」
「はい! 美味しいです!」
エステルはまるで葡萄ジュースのように葡萄酒を飲み干している。エルフはアルコールで酔ったりしないのだろうか。……よく、分からない。




