159.吹雪の街道
山を下りると、そこは一面雪景色の平原と化していた。
辺境要塞周辺の戦闘から数日。俺達は一足先にデミライオン達に別れを告げて、冒険者としての活動拠点であるハイデン市に戻ることにした。
ところが、折しも季節は冬。年明け直後の東方地域は雪が降りやすい気候となっており、例の戦いの後から降り始めていた雪が、いつの間にやら本格的な降雪へと移り変わっていた。
そういうわけで、辺境要塞から山を越えるために使っていた馬車も役に立たなくなり、徒歩で次の宿場を目指すことになった。
「かなり吹雪いてきたね。間に合うといいんだけど」
クリスが馬車から外した馬の手綱を引きながら、雪模様の空を見上げた。
雪に車輪を取られて動けなくなった馬車は道端に放棄してきたが、馬を置き去りにするわけにはいかない。材料があれば作れる馬車よりも、訓練の行き届いた馬の方がずっと高価で大切な品である。
なので、全員の荷物を鞍に括り付けて荷運びをやらせつつ、最寄りの宿場まで引っ張っていくことにしていた。
「アルスランさん達は大丈夫でしょうか……」
そう呟いたのはエステルだ。皆防寒着をしっかり着込んでいるうえに、雪交じりの風が視界を遮るので、表情の変化は殆ど読み取れない。
「大丈夫だろ。山より東側はここと比べたら格段にマシだろうからな」
俺は雪が口に入ってこないよう気を付けながら、エステルの不安に答えた。
遠征狩猟に参加していた『クルーシブル』のメンバー、つまりアルスランとアイビスとココの三人は、俺達とは別行動を取って辺境要塞に残留している。アルスランは『クルーシブル』のメンバーに持って帰る魔石を集めるためだと言っていたが、きっと幼馴染のローラの安全が気になったのだろう。
「どうしてですか?」
「雪の原因になる冷たい風は北方から吹いて来てるんだけど、東端の山に遮られて辺境地域までは少ししか届かないんだとさ。精々軽く積もるくらいで、山の手前と比べたら全然」
辺境要塞で働く人から聞いた情報なので間違いはないはずだ。
今こうして雪道を歩いているのは、俺も含めて七人――レオナとエステルとクリスに加え、ルビィとベリルのマイナーズ姉弟、そしてもう一人。
「傷に違和感があったらすぐに教えてね。黙って《ヒーリング》なんて掛けたら、後で原因が特定できなくて困るんだから」
「分かってるよ。そんなに何度も確認されなくったってさ」
ルースは俺のやや斜め後ろを定位置にして、雪の深さに戸惑う様子もなく快調に歩き続けている。ルースも俺と同じくアデル村で生まれ育った人間だ。この程度の雪なら慣れたものである。
それとは対照的に、他の地域から来た面々は不慣れな雪に悪戦苦闘しているようだった。
「まさか……こんなに歩きづらいなんて……」
「降り始めたばかりで除雪もされてないからなぁ」
西方出身だというレオナとエステルは、少し歩くだけでかなりの体力を持っていかれているようだ。
除雪車なんて便利なものはこの世界には存在しないが、それでも除雪は大事な作業だ。特に帝国が管理する街道の場合は、政府による除雪作業が定期的に行われることになっている。
ただしそれも雪が降ってすぐというわけにはいかない。どう考えても無理な相談というものだ。
「……私よりも、あっちの方を気にしてあげたら?」
レオナは肩越しに振り返った。行列の最後尾では、ルビィとベリルの姉弟が息も絶え絶えといった様子で必死に足を動かしている。
とりあえず足を止めて二人が追い付くのを待つことにする。
「ごめんなさい……こんな雪、生まれて初めてなんです……」
「僕達、南の方の出身なんです……言い訳にもなりませんけど」
まるで遭難一歩手前の登山者みたいな雰囲気を漂わせている。カイにしてみれば遠出には少し厳しいくらいの雪模様なので、他所の人にはこんなにも苦しいものなのかと逆に驚かされてしまう。
東方ですらこれなのだ。北方地域が『雪と氷に閉ざされた試練の地』なんて揶揄されるのも当然かもしれない。
「うう……甘く見てました……わわっ!」
「おっと」
雪に足を取られて転びかけたルビィを左腕で受け止める。防寒着を着込んでいるせいでぬいぐるみのようにもこもことした感触だ。
ここで咄嗟に右腕を使おうとしなかったあたり、俺も今の体に――右腕を根元から失った状態に慣れてきたらしい。
「す、すみません! ……私、いいとこないですね」
「慣れてなきゃ誰だってこんなもんだ。にしても、そろそろ宿場に付いてもいい頃だと思うんだが……」
ちょうどそう零した瞬間、先頭で馬を引いていたクリスが声を上げた。
「見えてきた! 明かりもついてる!」
その報告を聞いて皆の気力が戻り、これまでの倍近いペースで先を目指す。皆少しでも早く吹雪の中から脱出したいのだ。
やがて雪の向こうに一軒の大きな宿屋が見えてきた。一応『宿場街』の体は成していて、数軒の宿屋が街道沿いに建ち並んでいるのだが、窓に明かりがついているのはその一軒だけだった。
他の宿は雪のせいで休業しているのだろうか。何にせよ、泊まれそうな場所が見つかったのはありがたい。とにかくこの吹雪と寒さから逃れるために宿屋の玄関に飛び込んだ。
「いらっしゃいませ」
暖かな空気が全身を包み込み、心安らぐ穏やかな声が投げかけられる。極寒地獄から天国へ一瞬のうちに移動したような気分だ。
入り口はエントランスホールと呼べるくらいに広く、宿屋というよりは旅館やホテルのような雰囲気で満たされている。ひょっとしてとんでもない高級店に飛び込んでしまったのではと思ったが、掲示された料金表を見る限り、特別な部屋を希望しない限りは至って平均的な価格帯のようだ。
ルビィがさっそく防寒具を脱ぎ捨てて、暖房の効いた空気に身を晒す快感に酔いしれている。
「ああー……暖かいー……」
俺はそれを横目に受付へ向かい、受付の女性に話しかけた。
「すいません。七人分の宿泊を申し込みたいんですけど。部屋のランクは通常価格でお願いします」
「かしこまりました。ではこちらの用紙にお名前をご記入ください」
どこの宿屋でも行われるありきたりなやり取りをしながら、七人分の名前を宿泊者帖に記帳していく。名前に添えて性別も記入しておくのが一般的だ。
それを見た受付の女性が申し訳なさそうに口を開く。
「現在、他の団体客の方が殆どの部屋を使用しておりまして。申し訳ありませんが八人用の大部屋しかご利用になれません。よろしいでしょうか」
「全員相部屋ですか」
「大部屋の宿泊価格はお一人あたり八十ソリドとなっておりますが、特別にお一人分の料金を差し引かせていただきます」
一人八十ソリドで合計五百六十ソリドのところ、一人分の割引で四百八十ソリド。きちんとした大型の宿で、なおかつ食事と風呂付でこの価格というのは間違いなく破格の安さと言っていい。
だが、問題は相部屋という点だ。俺達の男女比は二対五。普段の活動ではできる限り男女で部屋を分けてきている。俺としては――変な意味ではなく――相部屋でも構わないが、女性陣が果たして何というだろう。
「相部屋? 別にいいけど」
料金の件も含めて相談を持ち掛けてみたところ、あっけらかんとした返答が返って来た。真っ先に声をかけたレオナは殆どノータイムで了承し、他の面々も二つ返事で相部屋を了承した。
心配した自分が馬鹿らしく思えるくらいに、あっさりと問題が解決してしまった。
「こんな状況で個室じゃなきゃ嫌なんてワガママ言う女に見える? 第一、カイが安全な人なのはとっくの昔に分かってるんだし」
大部屋に向かう道すがら、レオナが笑いながらそう言った。レオナは脱ぎ去った防寒具を小脇に抱え、本人は薄着と呼べるくらいの格好になっている。そんな服装でも充分快適なくらい暖かいのだ。
暖房、装飾、建物の規模――この宿はそこかしこに金が掛けられている。そのくせ通常ランクの部屋料金は至って標準的。それで経営が成り立つということは、よほど宿泊客が多い人気の宿か、高額料金の特別室を利用する客が珍しくないかのどちらかだろう。
ふと廊下の向こうに目をやると、別の団体客の一団がやってくるのが見えた。
「え、ちょっと……何あれ」
レオナがぽつりとそんなことを呟いた。気持ちは痛いほどに理解できる。その団体客は見た目も服装も真っ当とは言い難いものだった。
海の知る単語で分かりやすく端的に表現するなら――流石にスーツ姿ではないものの、マフィアやギャングのような地下組織の構成員としか見えなくて――
彼らは俺達に一瞬だけ視線を向け、そして何事もなかったかのようにすれ違っていった。
「……びっくりした。何だったの、あれ」
「受付で言ってた他の団体客ってことか……随分殺気立ってたな」
十人か二十人か……それだけの数が全員揃ってピリピリとした空気を漂わせていた。一体どんな用件でここに来たのかは知らないが、巻き込まれないことを祈るだけだ。