156.何に替えても
拠点近辺の草木を焼き払いながら、燃え盛る巨大な蛇の魔獣が一秒ごとに速度を増す。
《クリエイト・ゴーレム》は入手先こそ難があるが、俺にとってはいわゆる切り札に値するカードの一つだ。それがこんな短期間で退けられたことに驚きを覚えずにはいられなかった。
咄嗟に城塞とレオナ達から離れ、思いっきり声を張り上げる。
「こっちだ! 俺はここにいるぞ!」
奴の狙いは俺が持っている蛇紋の魔石。俺が囮になればレオナ達には向かっていかないはずだ。
だが、その考えが甘かったことをすぐに思い知らされる。
大蛇の魔獣は炎に包まれた目で俺を一瞥しただけで、進行方向を変えることなく直進し続けた。しかもその瞬間の顔には――表情のない蛇の頭であるにも関わらず――嘲笑の色が浮かんでいたように見えた。
「……くそっ!」
コピーしたままの《瞬間強化》でブーストを掛けて疾走する。
何故直進を止めなかったのかは分からない。本当に俺に対しての報復のつもりなのか、単にそうするだけの余裕がないのを誤魔化しているだけなのか。そんなことはどうでもいい。どちらだろうと構わない。
奴の真意がどうだろうと、このままではレオナとルースが大蛇の毒牙に襲われる。それだけは絶対に許せない。俺が差し出せる何に替えても。
「――――ッ!」
どちらの名前を叫んだのかも意識にない。ただ二人を助けたい一心で右腕を伸ばし、華奢な体を力の限り突き飛ばした。
――ごしゃり――
吐き気を催すような音を立て、尖った鉄骨のような牙が俺の右腕を貫いた。肩から先が口に取り込まれ、その内側で右腕が致命的な破壊を受けたという事実だけが、聴覚と痛覚を介して脳髄に殺到する。
「……っ! がっ……!」
悲鳴を上げることすらできなかった。種類の違う複数の激痛が競い合うように神経を逆流する。
燃える頭部に近付き過ぎた肌の焦げる痛み。牙に貫かれた骨肉の痛み。鉄すら侵す毒液を注がれて少しずつ崩壊していく血肉の痛み。どれをとっても意識を失うには充分過ぎる激痛で、口の中の異様な冷たさすらも苦痛に感じられた。
「イヤあぁっ!」
そう叫んだのはどちらの少女だったのか。今まで聞いたことのない悲鳴が耳に届いた瞬間、思考回路が急激に冷静さを取り戻す。
右腕を引き抜こうと精一杯の力を込めるが、肉の裂ける激痛と共に、ほんの数センチだけ外側にずれるだけだった。更に絶望的なことに、服の袖が焼けたことで露出した上腕が、どす黒い腐肉のような色と形に変わり果てていく。
屋上の戦いで目にした、毒液に侵されたアーサーの武器が脳裏を過る。あれと同じだ。このままだと間違いなく胴体まで毒に侵されてしまう。
――絶対に駄目だ。こんなところで死ぬわけにはいかない。そして何よりも、自分達を庇ってカイ・アデルが死んだという事実を二人に背負わせることだけは、死んでもさせたくない。
ならば取るべき手段はただ一つ。
ルースから貰った力――《始まりの双剣》を右腕の付け根にあてがい。《瞬間強化》の全出力を左腕に集中させ。
俺は右腕を根元から斬り落とした。
「……が……ぐうっ!」
体の自由と引き換えに発狂寸前の激痛が全身を駆け巡る。
大蛇は燃え盛る首を高々と掲げ、口の中に取り残された右腕を飲み込んだ。恐らくは《ヒーリング》による回復を絶対に許さないために。
馬鹿でかい頭に遮られていた視界が開け、二人の姿が瞳に映る。レオナは目を剥いて青褪め、ルースは青褪めるのを通り越して、今にも倒れてしまいそうなくらいに真っ白になっていた。
あの男に腹の底から叫んでやりたい。
お前の敗因は二人に手を出そうとしたことだと。
「ぐ――あああっ!」
濁流のような血を撒き散らしながら、双剣を握ったままの左手で《ワイルドカード》を切り替える。コピー対象は《ヒーリング》でもなければ《痛覚遮断》でもない。ストックに加えていながら一度も使ったことのなかったスペルカード。
「《トランスポート》!」
左手に握っていた双剣の片割れが跡形もなく消え失せる。
そしてすぐさま別のスペルカード――《フローズン・ソリッド》をコピーしてもう一振りの双剣と融合させ、刀身の腹を右腕の切断面に押し付ける。剣に付与されたスペル効果が傷口と血液を凍結させ、失血死の危機を辛うじて遠ざけた。
倒れまいと両脚に力を込め、血と土が混ざり合った泥を踏みしめる。それでもふらついて倒れそうになる体を、ルースとレオナが左右から受け止めてくれた。
「カイ! しっかりして、カイ!」
「とにかくここから離れないと……!」
「……いや……」
柄を握る手に力を込め、氷のスペルと一体化した剣に、今の俺が引き出せる全ての魔力をありったけ注ぎ込む。
「これで終わりだ」
高く掲げられた大蛇の顎を突き破り、尖った氷柱が天を衝く。激しく燃え盛っていた炎は瞬く間に勢いを失い、燃え滓のように焦げ付いた表皮が夜の冷たい風に晒された。
やがて大蛇の表皮にも寒々しい霜が浮かび、三十秒と掛からないうちに巨体の半分以上が氷に覆われていく。
「口の中は冷たかったからな……燃えてるのは表面だけで、中身は適温止まりだったんだろ……だから内側から凍らせたんだ」
《トランスポート》は対象の手元に物を転送するスペル。さっき唱えたときの転送物は双剣の片割れで、転送先は俺の右手――即ち大蛇の腹の中だった。
後は《エレクトロウォール》と融合させた剣で感電させたのと同じ理屈だ。
体内に転送された剣は対になるもう一振りと連動して《フローズン・ソリッド》との融合状態に移行し、凍結の力を最大限の出力で撒き散らした。その結果、大蛇は内臓の内側から凍りつき、表面の炎も沈静化したというわけだ。
これで大蛇の肉体は使い物にならないだろう。俺はそう確信してから、二人の支えを振り切って前に踏み出した。
薄氷に覆われた大蛇の額がひび割れ、孵化する卵のようにナーガの男が飛び出してきて、凍結から逃れるように転がり落ちた。
「かはぁっ! 馬鹿な、こんな……!」
「……そこだっ……!」
半人半蛇の体が地面に落ちる。その上半身に俺が振り下ろしたスレッジハンマーの鉄塊部分がめり込んだ。肋骨が砕け折れ、致命的な臓器が潰れる手ごたえが確かに伝わり、鮮血が口から噴水のように噴き出す。
奴が本当にこの大蛇と融合しているのなら、使い物にならないと悟った時点で斬り捨てるはずだ――俺の読みは的中した。
「ごはっ……!」
「流石に、今ので限界……だな……」
なるべくリーチを長く取りたかったとはいえ、長柄武器を左腕だけで振り抜のは流石に負荷が大きかった。切断面の激痛を凍傷寸前の冷たさで誤魔化してはいるものの、それでも気を抜いたら失神してしまいそうになる。
もう倒れてしまってもいいんじゃないだろうか。そんな思いが脳裏を過った直後、肺を肋骨ごと潰されたはずのナーガが震える腕を動かし、どこからか魔石を一つ掴み出した。
「……! させるか!」
スレッジハンマーの頭部分を展開させてハルバードに変形させ、横薙ぎに振るって腕を斬り飛ばす。それと同時に、もはや力の入らなくなった左手から柄がすっぽ抜け、重い武器が地面を深々と抉った。
もう限界だと漏らした矢先にこれだ。我ながら考えなしにも程がある。
だが、そこまでしたにも関わらず、ナーガの最期の悪あがきを――秘術の発動を防ぐことはできなかった。
周囲がにわかに騒がしくなり、四方から大小様々な姿の蛇が殺到する。茂みの中から、地面の穴から、城塞のあらゆる窓という窓から。無数の蛇が俺達を無視して瀕死のナーガを覆い尽くし、巨大な蛇の塊を形成していく。
まるで城塞内に解き放たれた蛇が全て集まったかのようだ。きっとこの男が引き連れてきた全戦力なのだろう――屋上で叩きのめされている奴らを除いて。
『イシ……イシヲ……カエセ……!』
音とも声ともつかない、怖気の走るような空気の震えが響き渡る。
「ふざけんなっての……どこまでしぶといんだ、お前は」
苛立ちすら覚えながら距離を離そうとして、体力の限界に足を引っ張られる。蛇の塊は不気味に形を変え続け、五股に分かれたヒドラのようになって俺を押し潰そうとしてきた。
「カイ!」
レオナが俺の手を取って力強く引っ張る。
二人に支えられたまま、可能な限りの速度で蛇の塊から離れていく。全力疾走の数分の一、歩くよりはマシという程度の鈍足さで。
それでも、最初こそは離脱に余裕があった。即席の集合ゆえか、それとも頭脳であるあの男が致命傷を負って死の淵に立っているからか、蛇の塊は形を維持するだけで精一杯でなかなか追いかけてこようとはしなかった。
しかしそれも数分のこと。ある程度の形が纏まった時点でじりじりと前進を開始し、少しずつ、しかし確実に速度を上げてくる。まるで坂道を大きくなりながら転がっていく雪玉のように。
「……レオナ、ルース。お前達は……」
「俺を置いて先に行けなんて言わないでよ」
レオナが強い語調で俺の言葉を遮った。歯を食いしばり、まっすぐ前を見据えながら。
「私のせいで誰かが死ぬなんて、もう絶対に嫌なんだから! どんな形だろうと、絶対に!」
それ以上何か言う暇も与えずに、レオナは《ディスタント・メッセージ》を介して先に離脱した連中に呼びかけた。
「アイビス! 今どこにいるの! 皆の避難先は!?」
『狼煙を上げるから早く来て! ヤバい奴ここからでも見えてるよっ!』
『早く合流するのだ! そのデカブツはここにいる戦闘可能な者全員で迎え撃つ! 君達は身の安全を第一に考えてくれ!』
アイビスの返答に続いてアルスランの声が響き渡る。
しばらくして、朝日の昇りつつある方向に一筋の煙が立ち上るのが見えた。要塞から少しばかり離れた荒れ地だ。皆、安全な場所を探してあんなところにまで逃げていたらしい。
俺達はその場所を目指して前に進み続けたが、辿り着くよりも先にタイムリミットが背後から迫ってきた。
「ダメ、追いつかれる……!」
ルースが肩越しに振り返って悲鳴のような声を上げる。
巨大な蛇の塊は不気味に形を変えながら俺達との距離を詰めてきていた。まるで大きな『手』のようだ。手首から先だけの怪物が、指で地面を這いながら獲物を握り潰そうと迫っているかのような。
まだ百メートル少々は離れてはいるものの、このペースだと俺達が逃げ切るよりも先に追いつかれてしまうだろう。向こうから救援に来てくれても十中八九間に合わない。
「――ベリル! 聞こえるか!」
今度は俺が《ディスタント・メッセージ》越しに呼びかけた。数秒程の間があって、ベリルが大慌てで返事をしてくる。
『はっ、はい! 何でしょうか!』
「この距離からでも《魔力共有》は届くな? 魔力を回してくれ! 今すぐ用意できるだけでいい!」
《魔力共有》は俺のコピーのストックに入っているので、ある程度の効果は把握している。ここからなら共有の繋がりがぎりぎり届くはずだ。
『離れすぎてて転送効率が最悪ですよ! 十分の一も届けばいい方です!』
「分かってる。最大値の半分でも届けばいい。それだけあれば吹き飛ばせる!」
『……! 分かりました、カイさんを信じます!』
ベリルの返答があってすぐに、様々な声が次々に割り込んでくる。
『私の魔力を全部送ります! お願いですから、私の分まで思いっきりぶっ飛ばしてください!』
ルビィは言葉の端々にまで悔しさを滲ませていた。
『あたし達もこれくらいは手伝わにゃいと』
『後でストイシャにどやされちゃうからね!』
ココとアイビスの言葉は気持ちを軽くしてくれて。
『すまない、こんなときに力になれなくて……けれど君ならできるはずだ』
『あのスペルを使うのだな。ならば加減は不要だ。全力で放てば必ず打ち勝てるだろう』
クリスとアルスランの励ましは心強く。
『カイさん! レオナ! どうか……どうか無事で!』
エステルの祈りは、必ず生きて帰らなければという思いを更に強くした。
足を止めて振り返り、左手を前に突き出す。上がり切らなかった腕をレオナの手が支え、ふらつく体をルースが受け止めてくれた。
唱えるスペルは最後の切り札。俺が繰り出せる最大火力。
これだけ離れれば城塞を巻き込むこともない。城塞の戦いでは、俺のスペルが砦を壊して皆を生き埋めにしてしまう危険性があったので使えなかったが、ここなら何も心配することはない。心置きなく全てを叩き込むことができる。
迫り来る蛇の集合体は、尚も形を変えながら俺達を飲み込むためだけに加速を続けている。けれど、もはや恐怖も脅威も感じなかった。皆から分けてもらった魔力はアレを消し飛ばすには充分過ぎる。
息を深く吸い、肺に空気を満たして、その切り札を解き放つ。
「《メガ・エクスプロージョン》!」
全ての魔力が一点に収束、破滅的な爆発力へと変換される。
閃光――夜明けよりも眩い光が炸裂し、轟音と熱風が地表を薙ぎ払う。渦巻く熱波と火柱が蛇の集合体を飲み込み、その一匹一匹を瞬く間に焼き尽くし、細かな炭の破片に変えて跡形もなく吹き飛ばす。
執拗に秘石を求めた名も知らぬ男の執念さえ、跡形もなく。
爆風と熱波が収まり、砂煙が静まっていく。
そこにはもはや生物の姿は影も形も存在せず、爆風に吹き払われた地表と焦げ付いたクレーターだけが残されていた。
決着だ――言葉にできない安堵感が胸を満たしていく。
一方的に挑まれ、何も得る物のなかった戦いだった。失うばかりの戦いだった。それでも心が満たされているのは、守り抜きたいと願ったものを守ることができたからだろう。
けれど、爽やかな気持ちに浸っているのは俺一人だけで。
守り抜きたいと思った二人の少女は、スペルの熱と反動で右腕の止血の氷が溶けてしまった俺を抱えて、大慌てで皆と合流しようとしているのだけれど。