148.一夜の瘴気
手伝えと指示を出しながら、ルースは片膝を突いたアルスランの体の下に素早く潜り込み、腕を担ぎ上げるようにして立ち上がらせた。
「ふっ……!」
百キロは下らない巨体をルースの華奢な体が見事に支えている。これだけの力を発揮できるのは、きっと《瞬間強化》スキルのおかげだろう。だとしたらあまり長くは持たないはずだ。あのスキルは瞬間とつくだけあって持続時間が短く、連続発動も負荷が大きすぎる。
俺は酔いで鈍っていた思考回路を叩き起こし、ルースの反対側からアルスランの体を支えた。
――拠点内の廊下は妙に静かだった。元々は石造りの要塞だったので割と音が響くはずなのだが、不気味なくらいに静まり返っている。夜風に当たりに外へ出る直前までは、宴会を楽しむ声が入り口にまで届いていたにも関わらず。
「フローレンス先生! 急患です!」
ルースは医務室に駆け込むなり声を張り上げた。
かつて要塞だった頃にも処置室として使われていたという医務室は、事前に用途を知らなければ殺風景な石造りの部屋にしか思えない雰囲気で満たされている。
「うるさいねぇ。騒がなくても聞こえてるよ」
部屋の主が作業机の椅子から立ち上がる。背筋のしゃんと伸びた白衣の老婆だ。前にも若い癒し手達を働かせているところを見たことがある。
フローレンスは最初こそ酔い潰れた酔っぱらいを見るような目をしていたが、ルースから専門的な説明を聞くや否や、深い皺の刻まれた顔を一瞬のうちに引き締めてルースに指示を飛ばした。
「よく気付いたね。ちゃんとスキルを使いこなせてきてるじゃないか。まずは採血、それが済んだら五番の箱から赤帯の薬草を全部取ってくるんだ。いいね?」
「はいっ!」
ルースはすぐさま行動を開始した。小さな刃物でアルスランの毛皮の薄い部分を僅かに切開し、出血を小皿に受け止めてから、《ヒーリング》で傷口を塞ぐ。フローレンスはその間に薬品棚から幾つかの試薬を取り出して、ルースから受け取った血液を用いた検査を始めた。
小分けにした血液に試薬を数滴垂らし、反応を確かめては別の更に次の試薬を垂らす。老婆の手が素早く確実にその作業を済ませていき、四つ目の試薬を開けた瞬間、その異変は起こった。
「む――?」
試薬を垂らした瞬間ではなく、薬瓶の蓋を開けた瞬間に、瓶の中の試薬がじわりと色を変えた。想定通りの反応でないのは明らかだ。
フローレンスが何故か怪訝そうに俺を見やる。
「そこの坊主。ちょっと前に薬か何か飲んじゃいないか」
「え? ええと、ルースから貰った酔い醒ましの薬を……」
「だったら決まりだ。毒の種類が分かったよ。ルース! その束から満月草と紅蔓と枯草葡萄だけ取って一対二対三で粉末にしな! 作れるだけ大量にな! それと坊主、あそこのロープを思いっきり引っ張っておくれ!」
いきなり指示をとばされ、つい言われるがままに玄関付近の壁に垂れ下がっているロープをぐいっと引っ張った。ロープは壁に沿って部屋の外まで続いていて、遠くでがらんがらんとベルの鳴る音がした。
なるほど、別の部屋にいる癒し手を叩き起こす目覚ましということか。
「一体どんな毒だったんですか」
フローレンスは次の作業のためにあれこれと機材を引っ張り出している。俺はこの老人の邪魔をしないように、一番重要な質問をストレートにぶつけた。
「『一夜の瘴気』という有毒気体さ。無味無臭で普通の状態ならまず気付きもしないが、体に酒が入ってるとあんな風に動けなくなる。致死性は低いがとにかくバレにくいってのが強みの毒だね」
フローレンスの返答も単刀直入だった。
「大昔の戦争じゃ、調子乗って酒盛りしてる敵に浴びせてから奇襲を仕掛けるって使い方もされたそうだが、お前さんが飲んだ薬が予防薬になると分かってからはすっかり廃れた代物さ」
「それならさっきの薬をアルスランに飲ませれば」
「予防薬だって言ったろ。吸っちまってから飲んでも意味はないよ」
確かにそうだ。まだ俺の思考回路は回復しきっていないらしかった。
「第一、あの薬は調合に時間が掛かるんだ。簡単に数を作れる薬がとっくに出回ってて、調合する機会といえば癒し手の修練のためくらいだね。当然、ここにある酔い醒ましも『一夜の瘴気』に効果のない新しい薬だけだ」
瘴気に対する予防効果はあくまで副次的なものということだ。『一夜の瘴気』が使われなくなってからはその効果を期待する意味もなくなり、より量産しやすい新しい薬に置き換えられた……よくある話だ。
たまたまルースが調合技術の練習のためにそれを作っていて、完成品をくれたおかげで俺は無事でいられるが――
「――ちょっと待ってください。俺が薬のおかげで無事ってことは、今ここにも瘴気が漂ってるってことですか?」
「ああそうさ。今頃デミライオンも人間も揃って動けなくなってるだろうね。だからこそルースに山ほど解毒薬を作らせて、眠ってた子達も叩き起こしたんだ」
ルースが作った薬草の粉末を、フローレンスが小さな容器に小分けに詰めていく。俺も梱包を手伝わされて迅速に作業を進めていると、十人程度の若い癒し手が医務室に飛び込んできた。
「何事ですか、先生!」
「遅いね、あと一分縮めな。状況は手短に説明するよ」
フローレンスは癒し手達に手早く状況を伝え、解毒薬を詰めた容器を渡した。
「三班に分かれて飲ませて回るんだ。瘴気をばら撒いた犯人が何かやらかすかもしれないから充分に気を付けること! 下戸の奴らは元気だろうから、見かけたら首根っこ引っ掴んででも護衛させな!」
『一夜の瘴気』は自然に発生するものではないという。人工物であり、誰かが合成しなければ存在もせず、誰かが散布しなければ被害者が出ることもない。
瘴気を拠点中に撒ける状況にありながら、致死性の高い毒ではなく『一夜の瘴気』を散布した理由――犯人の手がかりもそこにあるはずだ。殺さず無力化したかったのか、気付かれずに事を進めるのが重要だったのか――
酔い醒ましの薬が効いてきたのか、前よりも思考がクリアになってきている。
何にせよ俺がすべきことはただ一つ。それはこんなところでぼうっと待ちぼうけしていることではない。
「俺もついて行きます。護衛くらいならできますから」
「こっちから頼む手間が省けたね。行っとくれ」
犯人の目的が何であれ、苦しむ姿を見ることを目的する愉快犯でもない限り、既に次の行動を起こしているに違いない。そんな時に戦える奴が何もしないだなんて論外だ。
ルースの班について行って食堂に駆けつける。そこには想像通りの惨状が広がっていた。
テーブルに突っ伏したまま動かない者。床に転がって苦悶の声を漏らす者。壁に体を押し付けて立ち上がろうともがく者。三十人余りのデミライオンの中に無事な者は一人もいなかった。
癒し手達が治療を開始する横で、俺はこの場にパーティの仲間達がいないか視線を巡らせた。
……幸か不幸か分からないが、ここにいるのはデミライオンだけだ。ローラやザファル将軍の姿も見当たらない。きっと別の場所に移動した後で『一夜の瘴気』が散布されたのだろう。
「きゃあ!」
「どうした!?」
悲鳴を上げた癒し手の女性のところに、ルースと一緒に駆け寄る。その女性は床に崩れ落ちて足首を手で握っていた。
「ごめん……蛇に咬まれて……」
「どんな蛇でした?」
「良く見えなかった……一瞬のことだったから……」
「蛇の種類が分からないのは面倒ですね。カイ、感覚系か何かのスキルで見つけられないかな」
大急ぎで手当てをしようとするルースの手元で、女性の足に異変が起きる。
色白の肌に黒い文様が浮かび上がる。細くて曲がりくねったそれは、まるで数匹の蛇のように足首に纏わりつき、数秒のうちに脹脛を覆い尽くした。
「嘘……こんな毒なんて……!」
「違う、呪詛だ!」
俺はすぐに《解呪》のスキルカードをコピーし、それが与える解呪呪文の一つを女性の足にかけた。
「《カース・ブレイキング》」
効果はすぐに表れ、足に広がった呪詛の文様は瞬く間に薄れて消えていった。
だが安心するのはまだ早い。呪詛を与えてきた蛇はまだ部屋のどこかにいるうえ、その一匹しかいないとは限らないのだから。
「うわぁー!」
早速、別の癒し手の悲鳴が響き渡る。今度は即座に仕留めてやろうと振り返った瞬間、信じられない光景が視界に飛び込んできた。
廊下に大量の蛇がうごめいている。床に、壁に、窓枠に。大きさこそ個体差があるが模様はどれもよく似ていて、全て同じ種類の蛇であることが伺える。
「……こいつら、まさか」
そして気が付いた。俺はこの蛇をほんの少し前に見たことがある。そう、ルースと拠点の周りを歩いているときに落ちてきた蛇――それの同類が廊下を足の踏み場もないほどに埋め尽くしていた。