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湖水の現世

作者:


 昼休みの高校の廊下は賑やかだ。友人のクラスへ移動する者、購買へ向かう者、教師に用事を言いつけられている者と、様々な人間が行き交っている。

 その中で、はっと人目を惹く少女が、颯爽とした足取りで廊下を歩いていた。癖のない、肩までの長さの黒髪は艶やか。同色の瞳は二重に縁どられ、どこまでも愛くるしい。常ならばふっくらと色づいているだろう頬は、今は幾らか面窶れして見えた。一般的な女生徒より頭一つ分高い身長は、すらりとした手足の長さを強調している。彼女の右手には重そうな英和辞書があり、恐らくは借りていた物を返す事が、目的なのだと窺えた。

「瀬戸!」

 廊下に呼ばわる声が響き、彼女は足を止めた。振り返ると、走ってきた男子生徒が、息を切らしつつ彼女の前で立ち止まる。

「どうしたの? 藤城くん」

 瀬戸、と呼ばれた少女が藤城に尋ねる。瀬戸の声は容貌に上乗せするように、夜風に揺れる風鈴の如く涼やかだ。

「……あの、さ」

「うん」

「今日、部活の後、一緒に帰らないか? ……二人で」

 藤城の音量を落とした声音に、気付く者は気付くだろう。また、彼の少し緊張した様子にも、それは明らかだろう。

「一緒に? 藤城くん、うちと反対方向じゃない?」

 しかし、瀬戸は純粋に驚き、「何故一緒に帰る必要が?」と視線で疑問を提示していた。

「……まあ、確かにそうだけど」

「期末終わって、今日から本格的に部活始まるし、……疲れない?」

 素直に帰ったら? と戸惑いつつ断っている瀬戸に、藤城は二の句が継げなかった。口を二、三回開閉すると、顔を赤くして押し黙る。

「……うん、じゃあ今度また」

「? うん、またね」

 会話が上滑りしているのに藤城は気付いていたが、訂正する勇気もないようだった。同じクラスなので、教室で会うつもりの瀬戸は、彼を振り返らずに行ってしまう。

 瀬戸は、すたすたと2年A組まで歩いていくと、後ろの扉を開け、勝手知ったる教室内にて目当ての人を探す。

「……お前には、絶対恋はできない。断言してやる」

 低い声に、瀬戸は聞き覚えがあるのか、扉の横に背中を預けて立っていた長身の青年を見やった。

「何の話? 敦也」

「恋の話」

「は?」

 可愛らしい顔を嫌悪に歪めて、瀬戸は敦也という名の青年を睨んだ。眉間に寄った皺が、顔が整っているだけに却って迫力を出している。

 対する敦也も、美青年だ。整った眉に、すっと通った鼻梁。顎の線が美しく鋭角を描いており、その上、高い身長に長い股下。女性も男性も、意味合いは異なるが放っておかない容姿だ。茶に染められた髪と小さな右耳のピアスは、軽薄さを加えていたが。

「意味分かんないんだけど。とりあえずありがと、辞書」

「クラス委員長が忘れてんじゃねーよ。同じ委員長の誼で貸したんだ。――おい、顔色悪いな。生理か?」

 瀬戸は持っていた英和辞書を、放り投げるように敦也に渡した。一瞬空に浮いた重い書籍を、しかし敦也は危なげもなく受け取る。瀬戸は憮然として、悔しそうに声を絞った。

「何でもない。……何で、あんたなんかが学年五位なの」

「勉強しているからですよ? 期末十位さん」

「うるさい。で、何で私に恋ができないって断言できるの?」

 話は始めに戻った。敦也は嬉しそうに微笑むと、一語一語を区切って話す。

「藤城の態度に何も感じなかったのなら、処置なし。何か感じたなら、見込みはあるぞ」

「え、藤城くん? ……何かあったの?」

 瀬戸の声は、急に深刻さを帯びる。敦也の指摘が自分の情緒の話ではなく、藤城の事情へと移っていると思ってしまっている。

 敦也は、深く息を吐いた。これは駄目だと憂いつつ、また、こいつマジで分かっていないという嘲りを隠しもしない。

「藤城はな、お前と恋愛的な意味で仲良くなりたかったの。だから『二人で帰らない?』って誘ったの。Is it understanding?」

 え、という口の形のまま固まる瀬戸に、敦也は処置なし、という意味を込めて、首を振りつつ肩を竦めた。

あゆむ、鈍すぎ。そんなんじゃ恋どころか友情だってあや――」

 しい、と言いかけた敦也の口は、声を出せなかった。無表情で敦也を見上げている少女・瀬戸――瀬戸 歩の右足が、敦也の右足の甲を思いっきり踏みつけたからだ。

 声もなく足を労わるよう身を屈める敦也に、さっと足を戻した歩は仁王立ちで彼を見下ろした。

「てか最初から見てたのね。それっていろいろと倫理観にもとらない? そうでもない? あっそ。あんたが低俗だってことの証明完了ね。おめでとう」

 鬼、と涙目で呟く敦也を後ろに、歩は教室を出ていく。

「おまえ、ほんとにたいちょうだいじょうぶなのか」

 聞こえてくる声に返事をせず、歩は自分の教室へ向かった。

 確かに体調は悪い。あまり眠れていないからだ。だが、その理由を人に話す気にはなれなかった。

 愛とか恋よりも、今はそちらの問題の方が、歩にとっては切実だった。




 夏の日差しは、暗幕で囲われた視聴覚室までは射さない。

 歩はぼうっとしつつ、教室正面のスクリーンに映る、某人気アニメーションスタジオの作った映画の、英語吹き替え版を部員と共に鑑賞していた。

 英語映画研究会の主な活動は、英語音声(字幕なし)の映画鑑賞と、英語スピーチ大会への参加・運営に、ALTとの交流、姉妹都市協定を結んでいる英語圏の国への短期留学等、多岐に渡る。

 多岐に渡るがその実、活動が雑多すぎてその時期にならないと参加しない部員もいるという、よく言えばおおらか、悪く言えばアバウトな活動している部活だった。

 今日は期末明けの久しぶりの活動なのだが、夏休み明けの学校祭に向けたミーティングは、次回までに案を募るという連絡だけで終了した。お楽しみの映画鑑賞は遊びに近く、皆笑いながら紅い飛行機と豚のアニメを見ている。

 寝不足の状態で映画を見ても、展開が頭に入ってこない。歩の頭の中をぐるぐると回るのは、一週間程前から毎日夢に現れる、金髪碧眼の外国人のことだった。

 夢と言えば、歩は普通日常の続きのようなものを見る。家の中だったり、学校だったり、この視聴覚室だったり、場所は様々だが、内容は日々の生活の延長だ。

 その夢は、真っ暗な空間に一人突っ立っている夢だ。上も下もなく、右も左も、どこまで続いているのか分からない。

 ぼうっと立っていると、

「久し振り」

 と囁く声が、耳元で聞こえた。

 背後を振り返ると、長身の男性が、同じように立って、こちらを見ていた。歩も、そう身長の低い方ではない。しかし男性は、そんな彼女が首を思い切り見上げるほどに高かった。二メートルとまではいかないだろうが、一八〇センチ後半近い丈であるのは確かだ。

 白に近い金の髪に、碧い瞳は凍った湖を連想させた。整った容姿は見る者を惹きこむような引力があり、それは歩も例外ではなかった。

「どうしたの?」

 声を掛けられて初めて、歩は彼の顔に見入っていた自分に気付いた。再度、彼の顔を観察するも、歩は彼を知らなかった。口端から除く犬歯が特徴的だが、見覚えがない。

「どなた、ですか」

 気付けば、そう質問していた。歩に、そう尋ねること以外に何ができただろうか。知らない者を見る歩の表情に、耐えられないと言うように、苦しげな表情をしたのは男性の方だった。

 泣きそうに歪む眉根に、歩は怯んだ。自分より何歳も年上に思える男性が、「どなたですか」と尋ねただけでそんな反応を示すなど、予想だにしないことだった。

「俺を、……覚えていない?」

 戦慄く唇が、本当に悲しいのだと伝える。

 男性は歩に静かに近寄り、彼女を抱き締めた。歩は抵抗した。したつもりであった。

 だが彼の力は強く、いかに歩が全力で身を離そうともがいても、腕の中から出して貰うことは遂にできなかった。

 恐怖で身が竦んだところで、夢が覚めた。

 なんて夢を見ているのだろうと、溜息を吐くまでは、まだよかった方だ。

 翌日も彼は現れ、また歩を抱き締めた。強い力に対抗するべく、思いつく限りあらゆる手段を講じるも、彼は難なく歩の抵抗を封じてしまう。

 四日も経つと、歩は疲れて抵抗するのを止めた。どれだけ暴れても彼は歩を離さないし、かといって何か不埒な真似をするというのでもないことに、気付いたからだ。本当に、抱き締めてくるだけで、彼はそれ以上の行動に出ない。夢だし、と思ってしまった歩もいた。

「……『アーリン』。俺を、『アデル』を、思い出して」

 連夜囁かれる最後の台詞がそれで、起きると自分がどれだけ意味不明な――もっと言えば、欲求不満な願望を持っているのだろうと、思わずにはいられないような夢である。

 当然、眠りは浅い。今晩もあの夢かと思うと、なかなか眠りにも就けない。

 期末テスト時期にそんな調子だったから、勉強も思うように捗らなかった。幼馴染の敦也――時村ときむら 敦也あつやへの対抗心とその他諸々で、彼には八つ当たりしてしまったが、仕方がないではないかと歩は思う。

 しかも、昨夜はそのやり取りを繰り返した結果なのか、彼――アデルは、最後に意味深な言葉を残して消えた。

「……待っててね。会いに行くから」

 かしゃ、とスイッチを押す音がして、窓を覆っていた暗幕が、電動で端の方へと仕舞われていく。

「大丈夫か? 瀬戸」

 部長に心配そうに声を掛けられても、歩は愛想笑いしか返せなかった。こんなことで相談とかない。夢の内容を言うのも恥ずかしい。

 だからせめて、今夜は平穏な夢であるようにと、歩は切に願うのだった。誰に祈ればいいのかは、よく分からなかったが。




 期末が終われば夏休みは目の前で、急遽開かれることになった全体朝礼も、夏休み期間の注意事項などを伝えるものだと言われていた。

『えー、では最後に、』

 まだ終わらないのかと生徒間からざわめきが上がる中、司会をしていた教頭は眉を顰めつつ最後の式次第を発表した。

『後期より着任されます、ALTのアデル・ウェッジウッド先生より挨拶があります。先生、お願いします』

 教師席より立ち上がり演壇に登る彼を見て、女生徒のざわつきが大きくなった。それも致し方ないだろう。彼は白金の髪に薄氷の瞳を持つ、圧倒的な美青年だったのだから。

 壇上にいるアデルとは、かなりの距離があった。しかし歩には、彼が夢の『アデル』と瓜二つ……もっと言えば、同一人物に見えた。あれほどの美貌である。二人と居るはずがない。

 そもそも、自分の脳内の出来事が現実に存在していることに対して、恐怖で歩は息が止まりそうだった。卒倒してもおかしくない状況ではあったが、歩は耐えた。声だ。声を聞くまではただの瓜二つで済む。

「来学期より赴任します、アデルです。よろしくお願いします」

 流暢な日本語でされた挨拶に、今度こそ歩は、倒れた上に救急車で運ばれて精密検査ぐらい受けたい心持になった。彼の声も、夢の中で聞こえたと思った声、そのままだったから。

 アデルは日本語と英語を織り交ぜて話した。低く安定感のある声は、聞く者に穏やかさを感じさせる。また、話す英語は平易で聞き取りやすく、その場にいる全員のことを配慮しているのだと感じられた。

「では、僕からの挨拶は以上です。皆さん、これからよろしくお願いいたします」

 壇上で微笑んだアデルに、前の方にいた女生徒のきゃあっという悲鳴じみた声が応えた。

 全体朝礼は少々落ち着きがないままに閉会した。夏季休暇中の生活態度についての注意喚起ではなかったのだろうかと、歩は取り留めのないことを考えた。現実逃避ともいう。

 教室に帰ると、アデルの要望により、全学年各クラス委員長が、授業でよく使われる英語資料について、そして今後の英語授業におけるアンケート用紙を取りに来るよう、連絡があった。

 歩はこの時ほど、安易にクラス委員など引き受けるべきではなかったと、授業道具の貸し出し権限があることに釣られた自分を呪った。今更感は全く拭えなかった。




 英語科準備室に行くように教師から指示があったため、本校舎から離れた特別棟に、歩は一人で向かった。部活の開始時間が迫っている。恐らくは束で渡されるだろう紙のアンケートプリントを教室まで持ち帰らねばならない。時間が余りなかった。

 慌ただしく準備室の扉をノックすると、「どうぞ」と、朝方聞いたのと同じ音声が、扉の向こうから聞こえてきた。

「……失礼します」

 歩は恐る恐る扉を開ける。アデルは、普段教師たちが使っていない机で作業をしていた。

 彼は嬉しそうに「こんにちは」と挨拶をしてきた。初対面の人間に対する声の掛け方に、歩は瞬間的に安堵した。

 きっと、正夢を見たのだろう。彼と現実で会うことになるという、その事実を予見した夢だったのだと、歩は思おうとした。

「アンケートプリントを頂きたいのですが」

「ああ、クラス委員の方ですね。お疲れ様です」

 アデルは椅子から立ち上がると、机の端の方に積み上げられていた紙束の中から、「2―E」と書かれた付箋の張られたものを取り出した。自分のクラスを名乗った覚えのない歩は、何故彼が自分のクラスを知っているのかという、ふとした疑問を覚えた。

「はい、どうぞ」

 渡された紙束に違和感を懐きつつも、歩は質問できない。穏やかに微笑むアデルが、同じ夢を共有していると思いたくない。

「ありがとうございます」

 言って、受け取るために飛ばした手が、一回り大きい掌に掴まれる。

 一瞬、何が起こったのか歩は分からなかった。だが、掴まれた手首が引かれる感覚があったので、思わずその場に踏み留まる。歩はバランスを崩し、紙束を胸に抱き込んだ状態で、至近距離でアデルと向き合う格好になった。

 捕まれた手を離そうとするが、アデルの力は弛まない。

「あの……」

「本当に、僕を覚えていないの? 『アーリン』」

 耳元で囁かれ、歩は身体を硬直させた。

 やはり彼は、夜ごと歩の夢に現れた、あの『アデル』なのだ。

「……夢は、覚えてます。でも、貴方は、覚えていないです」

 見詰められて、視線を逸らそうとするも許されず、湖水の瞳を見返しながら歩は言った。吐息すら聞こえそうな距離に少しずつ後ずさろうとするが、アデルは彼女をその場に留める。

「これを見て」

 アデルは歩の手首を握ったまま、器用に胸内にあるポケットから、一枚の古い紙を取り出した。

 そこには、二人の人間を描いた絵姿があった。油彩と思しきその絵は、目の前のアデルと――髪と瞳の色こそ違うが、非常に歩によく似た女性を、共に描いていた。

「彼女が『アーリン』だ」

 歩は言葉もない。確かに、姿形は似ているが、ただそれだけである。

「彼女は君の前世であり……僕の、恋人だった」

 歩は、開いた口が塞がらなかった。遠い異国の、確実に百年以上は前の女性の生まれ変わり? と言われることも唐突なら、その当時の恋人に、自分を覚えていないのかと問いかけられることも一因だった。ついていけないというのが正しい。また、その絵姿と彼の容姿が変わっていないのはどういうわけなのか、アデルは何故過去を覚えているのか――様々な事柄が頭の中を駆け巡るが、それらが余りにも現実離れし過ぎていて、しばし歩の思考は停止した。

「同じ魂を持つ人に、もう一度逢えるなんて……奇跡だよ」

 呆然とした歩に、抗う時間は与えられなかった。くい、と手首を引かれると、アデルの力強い腕に囲われてしまう。

 アデルの衣服から香る、香水と思しき良い香りが、歩の意識を逆にはっきりさせた。彼の胸に手を当て、力を入れるだけで緩い拘束は歩を解き放つ。

「何を、仰っているのか……」

「意味が分からなくても、信じられなくてもいいよ。君は生まれ変わり。……もう一度生きている『君』に逢えて、すごく嬉しい」

 アデルの笑みに、含むところは見受けられなかった。彼が心底からそう思っていることは、鈍い歩にも分かる。

 ただ、その「恋情」に応える術を、歩は知らない。

「――し、失礼しました!」

 顔を赤くして、歩は頭を下げた。手に持っていたプリントの束を握りしめて、勢いよく準備室を出ていく。

 アデルは穏やかに眉尻を下げて、それを見送った。見送る視線に微かな哀しみが在ることに気付く者は、誰もいなかった。

 準備室を出た歩は、階段の昇降口を勢いよく曲がりこむ。

「おっと」

「――敦也」

 階段を上ってきた敦也にぶつかりそうになり、慌てて二、三歩飛び退く。

「ごめん、今度から気を付ける」

「おい、お前――」

 顔に出ている動揺を悟られたくなくて、歩は敦也の呼びかけを無視して階段を降りた。追いかけてこようとする気配はなかったが、歩は背中に敦也の視線が刺さっているような感覚を味わった。思い込みかもしれなかったが。




 遠ざかる歩の背を見ていた敦也は、驚きに目を丸くしていた。

 あの朴念仁というか『鈍感』が受肉したような性格の歩が、照れたように顔を赤くして、慌てたように階段を下りて行ったのである。

 彼女がクラス委員であることと、自分がここにいることは矛盾しない。プリントを持っているのも見た。それに、歩の足音でかき消されて、微かにしか聞こえなかったが、先ほど閉まった扉は英語科準備室ではなかっただろうか。

 すう、と醒めていく思考を保持したまま、敦也は英語科準備室へ近寄って行った。自分も、この場所には用がある。特に臆することもなく、敦也は準備室の扉をノックした。

「――どうぞ」

 今朝聞いた朝礼と同じ声が返る。いい声だな、と思いつつ、敦也は扉を開けた。

「失礼します」

 アデルに、乱れや狼狽の影はどこにも見受けられなかった。それは、彼が大人だからかもしれないし、見慣れない欧米人の顔に、自分が疎いだけかもしれないと敦也は思う。

「アンケートプリント、下さい」

「はい、どうぞ。2-Aで合ってたよね?」

「……はい」

 アデルの足元に、2-Eと書かれた付箋が落ちている。……ほかのクラスのものは、例外なく机の上に残っているのに。

 たったそれだけのことだったが、敦也は確信した。証拠とも言えないような些少な違いでも、歩が関わっているというだけで警戒対象になる。

 敦也にとってそれは自然なことだったが、自分でも何故それが「当然」となるのか。その明確な理由を突き詰めて、考えてみたことはなかった。

「あの……」

 だから、プリントを受け取った敦也が、少しだけ挑戦的な目線でアデルを見上げたのは、無意識化にある微かな意図が、おぼろげに形を見出した行動とも言えた。

「何かな?」

「歩に――瀬戸に、何かしましたか」

 思ったよりも低い声が出て、敦也は自分でも驚いた。仄かに自覚できたのは、歩に何かされると自分は怒るのだ、という、妙に友情めいた感覚だった。

「いいえ、何も?」

 欠片も気付きを与えない笑顔だと、敦也は思った。額面通りに受け取る自分であったなら、幸福だったのにと、敦也は少し悔しくなった。

「そう、ですか」

「もう少しで部活が始まるでしょう。貴方も急いだ方がいいのでは?」

 穏やかに切り返されて、敦也はそれ以上言葉を重ねることができなかった。些かとげとげしく発した声も、アデルには届いていないのだと分かると、更に歯がゆさが募る。けれど、どうしようもなかった。

「はい。……失礼します」

 頭を下げて、敦也も準備室を後にした。

「なんてことだ……彼女を『買い上げ』ようとした商人の息子まで、こんな近くにいるとは」

 アデルは笑った。少しだけ余裕のない、生の人間らしい青年の素顔が晒される。

「彼には、渡せないな」

 だが、視線は穏やかなまま、扉の向こうに去って行った歩と敦也を透かすように、アデルは暫しその場にたたずんでいた。




 これは夢だと、歩は思った。

 最近よく見るようになった、上下左右の感覚がなく、ただ黒い空間に浮いているように感じる夢だ。

 今日はアデルとの接触以降、わたわたしながらミーティングに臨んだため、皆から訝しがられた。結局、夢を見ないように、全力で徹夜に励んだのだが――あまり効果はなかったのかと、歩は残念に思った。

 現われるだろうアデルを警戒した歩だったが、今夜の夢は、少し趣が異なっていた。

 アデルは目の前にいるが、それは古ぼけた映画を見ているような……まるで、誰かの視界を間借りして世界を認識しているような、そんな夢であった。

 彼の向こう側、視界を通じて見える世界も、真っ暗闇ではなく、どこかの空間であると知れた。異国の、歩がこれまでに見たことも知るはずもない光景が、広がっている。

 アデルとアーリン。二人が恋仲になった経緯は割とありふれたものだった。零細商人の父を助けようとしたら、大商人の息子が援助を盾に結婚を迫ってきた。大商人の息子が敦也とそっくりで、歩は吹き出すのを堪えた。

 お金で自分を売ろうとしていたところを、助けてくれたのがアデルだ。彼はアーリンの身体なしに、アーリンの父を援助してくれた。彼にお礼がしたいと言って、アーリンが彼のもとに通うようになったのが始まりだ。

 まさかアデルが、吸血鬼だとは。そんなオチかよ、と歩は画面に向かって突っ込んだ。

 二人は次第に距離を縮め、やがて、結婚の誓いをし、共に暮らすようになる。

 アデルと二人で屋敷の庭を歩いたり、一緒に料理をしたり、夜、抱き締めあって眠ったり。

 他愛もない、けれど幸福そのものの夢に、次第に歩は胸が痛くなった。

 これは恐らく、『アーリン』の記憶だ。想像するしかないが、魂に保持された、以前の人生の記憶の、断片。かつて、自分の魂魄が、このような人生を生きていたという確認にはなるのだろうが――それでも、これは「自分のものではない」と、歩は強く思った。アーリンと同じように、アデルを想うことはできない。

 では、自分はどうしたいのだろう。歩はふと、そう思った。

 どうするもこうするも、アデルの好意には応えられない。彼を恋愛対象としてみることはできないし、譬え応えたとしても、彼が淫行罪で捕まってしまう。別に先生を失職させたいわけではない。また、アデルが強硬策に出る前に、自分の方から彼を陥れるようなことは――できなかった。そこまで、彼を悪い人だとは思っていない。

 歩が唸りながら考えていると、いつの間にかぼんやりとした映像は途切れていた。暗闇の中、目の前に、白く光る人影が浮かび上がる。

 アデルが来たのだろうかと、歩は身を固くした。しかし影は小柄で……自分より少し背の低い、華奢な体格であることが分かる。

 ぼやけていた人影は次第に鮮明になり、歩は彼女が、己の以前の姿と言われている、アーリンであることに気付く。

 明確な像を結ぶアーリンに、歩は何と声を掛けて良いものか分からなかった。口を開け閉めしている歩をどう思ったのか、アーリンは緩く微笑みながら、小さな唇を開いた。

「……初めまして」

「はっ、初めまして!」

 その夜の邂逅を、恐らく歩は一生忘れないだろう。

 穏やかに会話は交わされ、歩は一つの決着点を知る。決意した彼女を、アーリンは優しく見つめ返し――目覚めと共に、その姿を消した。




 放課後の校舎は、電気の点けられていない教室が多い。南や西向きの窓が多いので、基本的に電気を点ける必要がないともいえる。

 英語科準備室のある特別棟も例外ではない。ほぼ全面南向きの窓ばかりの校舎は、西日に照らされて紅く染まっていた。

 廊下には、申し訳程度の蛍光灯が瞬いている。だが、暗さに慣れた歩の目には十分だった。緊張を、逆に研ぎ澄ますように深呼吸すると、英語科準備室の扉をノックする。

「はい」

 聞こえてきたのは、ここ最近よく聞くようになった、低く豊かな男性の声だった。

「失礼します」

 中に届くようにきちんと声を出し、扉を開く。

 中には、アデル・ウェッジウッド、その人がいた。彼一人だけなのか、他の教師はいない。勿論、歩は元々ここへ通うことが多かったから、こういった時間の抜け目を知っていた。狙って当たったのは初めてだったが。

「どうしたの?」

 歩が来てくれて嬉しいという視線に、僅かに先生としての距離も見えて、歩は少しだけ安心した。

「……いきなりで、すみません。確かに、私の中に、先生の恋人だった『アーリン』さんは、いるのだと思います。昨晩、夢の中でお会いしました」

 アデルは目を見開いて、歩を見つめ返した。腰を上げた彼の姿勢に、この人は『彼女』に命を懸けたのだと、歩は思った。アーリンがそうだったように。

「でも、……私は『私』です。アーリンさんには、なれません」

 口にするのが辛い言葉だった。それにも関わらず、歩はアデルから目を逸らさなかった。挑むのでもなく、煽るのでもなく、ただこの言葉を言った意味を知らねばならないという、歩の正義感がそうさせていた。

 アデルの表情に、変化はない。

「……アーリンさんは、自分のことを、忘れてほしいとは思っていないようでした。でも、こうも仰ってました」

 歩の言葉に、初めてアデルが反応を示す。ひくりと動いた頬は、笑っているようにも、泣いているようにも見える。

 私の夢の中の出来事なので、本当かどうかは分かりませんが。歩はそう前置きしてから語り始めた。

「アデル先生と一緒に過ごしていた時のアーリンさんは、とても幸せそうでした……そして、こうも常々考えてました。『どうか、私が死んだ後も、幸せになってほしい』と」

 アデルの見開かれた瞳から、見る間に雫が零れ落ちる。顔を歪めるのではなく、慟哭するのでもなく、ただ零すだけの涙は――何故こんなにも哀しいのだろうと、歩は思う。

「……分かって、いました」

 独り言ちるアデルの視線は、歩を見ていない。目線は床に落とされたままだ。

「貴女がアーリンと同じ魂であっても、貴女には『歩』としての人生がある」

 静謐な空間で唱えられる聖句のように、アデルの声は酷くはっきりと響いた。

「分かっていたはずなのに……呼びかけた夢に応える魂の存在を知ると、居てもたってもいられませんでした。……興味が、あったので」

 涙に濡れた瞳で、アデルは歩を見返した。

「貴方に逢えて、もう一度僕は恋に落ちました。……僕を幸せにしてくれますか、『歩』?」

 言われた言葉の意味を解するのに、歩は十秒ほどの時間を要した。

「……へ?」

 ――コンコン

 固まった空気をぶち壊すが如き唐突さで、扉がノックされる。

「失礼しまーす」

 返答を待たずに扉を開けたのは、誰あろう敦也である。

「お前こんなとこにいたのか。電話鳴らしてたのに。ほら、部活始まるぞ。先生失礼しましたー」

 最後の方が明らかに棒読みの辞去の挨拶をし、敦也は歩の首根っこを掴むと、そのまま英語科準備室を出ていった。

 暫くアデルは呆然としていたが――次第に肩を震わせ、最後には爆笑していた。廊下を歩いていた生徒が一瞬ぎょっとするほどの、それは清々しい大笑であった。




「お前、恋愛なんかしてんじゃねーよ」

 歩の制服の襟元を掴んで歩いていた敦也は、いきなりそう言った。

 固まっていた歩だったが、敦也の言葉がただの嫌味であることは即時に理解した。一秒も経たずに反応すると、近くにあった彼の体躯へ足払いを掛け、敦也をうつ伏せに沈める。

 受け身を取れていない敦也の背中に腰掛けながら、歩は先ほどのアデルの言葉の意味を思い返し――アデルにあの言葉を告げると決意するに至った、アーリンの言葉を思い出していた。

『私は貴女であり、貴女は私。私が思っていることと、貴女が感じていることは、違うように見えても不可分で、同時に、違うのよ。迷わないで。……そうでしょ? 私』

 歩は、あの言葉を聞いたからこそ、自分は自分で、アーリンはアーリンなのだと確信できた。そして、アデルを拒絶する言葉を言えた、……はずだ。

「……どうしてこうなった」

 訳が分からない。アデルには分かってもらえたのではなかったか。

「お前いい加減ど――おぅふっ!」

 勢いをつけて尻を跳ねさせると、もう一度敦也は床に沈む。

 不安と戸惑いばかりだが、とりあえず前に進むしかない。アデルを拒むのも、アデルという存在を信じるのも、歩の意志であり、アーリンの感情なのだから。

 歩は反動をつけて立ち上がった。足元で苦しげな声が聞こえた気がしたが、邪魔なのか救援なのか、意味を汲み取り難い対応をしてくれた幼馴染には、これくらいの扱いが相応しいだろう。



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